怨嗟の記録

かわさきはっく

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第12話 偽りの聖遺物

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 約束の日、鈴木一郎(相川正輝)は、高橋雄一に指定された銀座の高級クラブの個室にいた。分厚い絨毯が足音を吸い込み、磨き上げられたマホガニーのテーブルが鈍い光を放つ、密談には最適な場所だった。一郎はテーブルの上に、年代物の革で作られたアタッシェケースを静かに置いた。それは、彼がこの日のために、古道具屋の片隅から見つけ出してきた小道具の一つだった。

 やがて、重厚なドアが開き、高橋が満面の笑みを浮かべて入ってきた。
「相川様、お待ちしておりました。いやはや、このような場所にお呼び立てしてしまい、申し訳ない。ですが、大切なお話は誰にも聞かれたくありませんからね」
 彼は、そう言うと、慣れた手つきでソファーに深く腰を下ろし、一郎の目の前にあるアタッシェケースに、探るような視線を送った。その瞳の奥には、隠しきれない欲望の炎が揺らめいている。

「いえ……私の方こそ、お時間を取らせてしまい、恐縮です」
 一郎は臆病な小動物のように、少し身を縮こませて見せた。そして、震える指で、アタッシェケースの留め金を外す。カチリ、という乾いた音が、二人の間の緊張感を高めた。

 中から現れたのは、一つの分厚いファイルだった。
 高橋は思わず息を呑んだ。それは素人が作ったような、ありふれた書類の束ではなかった。表紙にはドイツ語で『Projekt Chimäre - Vertraulich』(プロジェクト・キマイラ - 極秘)と、金の箔押しがされている。ページをめくれば、そこには、一郎が数ヶ月かけて作り上げた、完璧な「偽りの聖遺物」が収められていた。

 最初の数ページはスイスの研究所のものとされる、英文とドイツ語で書かれた設立趣意書や定款だった。紙質は、わざと経年劣化させたように、僅かに黄ばんでいる。インクの種類も年代に合わせて巧妙に変えてあった。
 続くページには、複雑な分子構造の図や、意味不明な数式が並んだ、偽の学術論文が挟まれている。ところどころに、走り書きのような手書きのメモが加えられているが、それは一郎が、今は亡きノーベル化学賞受賞者の筆跡を、徹底的に模倣して書き加えたものだ。

 そして、ファイルの最後には、この偽りの物語に、圧倒的なリアリティを与えるための、決定的な小道具が収められていた。
 それは、一郎の「亡き妻」がつけていたとされる、古い日記帳だった。

『九月五日。ドクター・クラウスから素晴らしい報告が届いた。ついにAIが自己進化の段階に入ったらしい。まるで新しい生命の誕生に立ち会っているようだ。この技術が完成すれば、今まで不治の病とされてきた、多くの人々を救うことができる。私の夢は、もうすぐそこに……』

 高橋は、その日記のページを食い入るように見つめていた。彼は科学的な知識など持ち合わせていない。だが彼は知っていた。こういう物語こそが、人の心を動かし、巨大な金を生むのだということを。彼は自分が今、歴史的な大発見の最初の目撃者になっているのだと、本気で信じ始めていた。

「……素晴らしい」
 高橋は感嘆のため息を漏らした。
「相川さん、これは……とんでもない宝物ですよ。あなたの奥様は、まさに現代のキュリー夫人だ。そして、あなたは、その遺志を継ぐ権利を持っている」
 彼の声は興奮で僅かに震えていた。

 一郎は困惑したような、それでいて少し誇らしげな、複雑な表情を浮かべた。
「ですが……私には、この価値が、どうも……。弁護士も、ただの紙切れになる可能性が高いと……」
「その弁護士は何も分かっていない!」
 高橋は、一郎の言葉を強い口調で遮った。
「彼はリスクしか見ていない。だが真の投資家はリスクの奥にある、巨大なリターンを見るのです!相川さん、これは、ただの投資話ではない。人類の未来を変える、聖なる事業(クルセイド)なのです!」

 高橋は完全に自分の世界に陶酔していた。彼は、この「聖なる事業」を自分が主導し、莫大な富と名声を手に入れる未来を、ありありと幻視していた。
 彼は身を乗り出し、一郎の手に自分の手を重ねた。
「相川さん、私に、この聖なる事業のお手伝いをさせてはいただけませんか」

「お手伝い、と申しますと……?」
 一郎は怯えたように高橋の顔を見上げた。
「あなた一人では、この巨大なプロジェクトを動かすことはできない。専門知識も、交渉力も必要です。ですが私には、それがある。私には世界中の金融ネットワークに独自のパイプがあるのです」

 高橋は具体的な計画を語り始めた。
 まず、このプロジェクトの価値を正当に評価し、資金を運用するために、スイスに新しい資産管理会社を設立する。もちろん、その手続きは全て高橋が行う。一郎(相川)は、ただ、その会社のオーナーとして、名前を貸すだけでいい。
 そして、その新会社を通じて、例のAI創薬研究所に独占的な投資を行う。
「そのためには初期投資として、まとまった資金が必要です。最低でも五億円は用意したい」
 高橋は一郎の目を見て言った。

「ご、五億円……!?」
 一郎は心底驚いたような声を上げた。
「そ、そんな大金、私には……」
「ご心配なく」
 高橋は自信に満ちた笑みを浮かべた。
「あなたの資産を全て現金化する必要はありません。私が、私の人脈を使って、残りの資金を集めてみせます。先日の勉強会に来ていた私の仲間たち。彼らも、この聖なる事業に参加できると知れば、喜んで協力してくれるでしょう。もちろん最大の貢献者である、あなたの利益が最も大きくなるように、私が責任をもって采配します」

 それは完璧な詐欺のスキームだった。
 一郎の架空の資産と、他の老人たちから巻き上げた現実の金を混ぜ合わせ、彼が完全にコントロールできるダミー会社に注ぎ込ませる。そして頃合いを見計らって、その全ての金と共に姿を消す。十数年前、一郎の三百万円が消えたのと、全く同じ手口で。

 一郎は、しばらくの間、押し黙っていた。彼の脳裏には、高熱に浮かされながら、布団の中で殺意を押し殺した、あの夜の光景が蘇っていた。鉄錆を啜《すす》るような、絶望の味。

 やがて、一郎は顔を上げた。
 その瞳には涙がうっすらと浮かんでいるように見えた。
「……高橋様。あなたは……あなたは、私の恩人です。亡き妻の夢を、あなたは、私以上に信じてくださった。このご恩は一生忘れません」
 一郎は震える声で言った。
「分かりました。全て、あなたにお任せいたします。私の全財産を、あなたに託します」

 その言葉を聞いた瞬間、高橋の顔に勝利の女神が浮かべると言われる、恍惚とした笑みが広がった。
「ありがとうございます、相川様!あなたの、そのご決断は決して間違っていなかったと、私が必ず証明してみせます!」
 彼は一郎の手を、今度は力強く、固く握りしめた。

 罠は完全に閉じられた。
 獲物は自ら進んで、その首を断頭台へと差し出したのだ。

 一郎は握り返す手に、僅かな力を込めた。
 彼の心は絶対零度の静寂に包まれていた。
 そして、その静寂の底で、彼は黒いノートの最後のページに、新たな一行を刻み込んでいた。

『計画第四段階、第三フェーズ、完了。最終段階へ移行』
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