怨嗟の記録

かわさきはっく

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第11話 甘い罠

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 高橋雄一から「勉強会」の誘いを受けて、一週間が過ぎた。その間、彼は二度、鈴木一郎(相川正輝)に電話をかけてきた。一度目は時候の挨拶と、体調を気遣う言葉。二度目は会の詳細な場所と時間を伝えるための、事務的な連絡。そのどちらの声にも、獲物を気遣う狩人のような、周到な優しさが滲んでいた。

 会場は都内でも有数の五つ星ホテル。その最上階にあるスイートルームだった。高橋は、この日のために部屋を貸し切り、彼の「信者」たちを招き入れたのだ。一郎が、おずおずと部屋のドアをくぐると、そこには彼の想像通りの光景が広がっていた。

 シャンデリアが柔らかな光を投げかける、広々としたリビング。大きな窓の外には、宝石をちりばめたような東京の夜景が広がる。部屋には、一郎と同じように、上等な服に身を包んだ十数名の男女が集っていた。そのほとんどが、裕福な退職者といった風情の、六十代から七十代の老人たちだった。彼らはグラスを片手に和やかに談笑している。しかし、その瞳の奥には共通した色があった。それは老いへの不安と、それを覆い隠すための、金への渇望だった。

「相川様、お待ちしておりました」
 一郎の存在に気づいた高橋が、満面の笑みで駆け寄ってきた。彼は、一郎の肩を親しげに抱き、輪の中心へと導いた。
「皆様、ご紹介いたします。先日、私と素晴らしいご縁をいただいた、相川正輝様です。相川様は日本のIT業界の黎明期《れいめいき》を支えられた、偉大な経営者でいらっしゃいます」

 大げさな紹介に、一郎は慌てたように首を横に振った。
「いえ、私は……経営をしていたのは亡くなった妻でして。私は、何も……」
 その謙虚で少し頼りない態度は、集まった老人たちの警戒心を解くのに、十分すぎるほどの効果を発揮した。彼らは自分たちと同じ、あるいはそれ以上に「守ってやるべき」存在として、一郎を温かく迎え入れた。

 やがて会は始まった。
 高橋はリビングの中央に立ち、まるでカリスマ伝道師のように語り始めた。
「皆様、今の日本を見て、どう思われますか?年金は目減りし、物価は上がり続ける。我々が汗水たらして築き上げてきたこの国は、今、沈みゆく船のようです。しかし、嘆いてばかりでは何も変わりません。我々は自らの手で、未来を掴み取らなくてはならないのです!」

 彼の言葉は巧みだった。不安を煽り、聴衆の間に一体感を生み出す。そして、その唯一の解決策として、彼が提示する「投資」へと、巧みに誘導していく。
「私が独自に入手した情報によりますと、東南アジアのある小国で、次世代エネルギーに関する画期的な技術が開発されました。これは、まだ世界中のどこも知らない極秘の情報です。この技術に、今、投資することができれば……我々の資産は、一年後、いえ、半年後には、十倍、いや、二十倍になっているでしょう!」

 具体的な企業名も技術の詳細も語られない。しかし彼の自信に満ちた口調と、時折見せる専門家のような鋭い眼差しは、集まった老人たちを熱狂させるには十分だった。彼らは高橋の言葉を一言も聞き漏らすまいと、前のめりになって耳を傾けている。その光景は、一郎にとって滑稽で、そして哀れだった。彼らは自ら進んで、狼の口の中へと入ろうとしているのだ。

 一郎は、その狂騒の輪から少しだけ距離を置き、ただ黙って、感心したような、それでいて少し戸惑ったような表情を浮かべていた。彼は、この芝居の観客であり、同時に、この舞台そのものを裏で操る、脚本家でもあった。

 高橋のプレゼンテーションが終わり、自由な歓談の時間に移った。すかさず高橋は一郎のそばへとやってきた。
「相川様、いかがでしたか?少し刺激が強すぎましたかな?」
「いえ……素晴らしい。皆様の未来への情熱に圧倒されました。私のような者には、とても……」
 一郎は心からの感嘆を装って答えた。高橋は、その反応に満足げに頷く。
「あなたにも、この情熱の輪に加わる資格が十分におありですよ」

 高橋はワイングラスを片手に、一郎の隣に腰を下ろした。そして声を潜め、共犯者のように囁いた。
「先ほどの話ですがね、相川様。実は、この話にはまだ続きがあるのです。例のエネルギー技術を開発した会社の社長と、私は個人的に繋がりがある。もし、まとまった資金を他の誰よりも早く投資できるのであれば……特別な配当をお約束できる、と」

 罠だ。十数年前、自分が嵌められたのと、全く同じ構造の。
 高橋は一郎の瞳をじっと見つめている。その視線は、獲物の最後の抵抗を、ねじ伏せようとする蛇のようだった。

 ここで一郎は勝負に出た。
 彼は高橋の視線から逃れるように、少し俯いた。そして何かを深く思い悩むような、長い沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「……素晴らしいお話です。ですが、私には……」
「何か、ご心配でも?」
 高橋が、すかさず食いつく。

「実は……亡くなった妻が、遺言とは別に、私に一つのものを遺しておりまして」
 一郎は誰かに聞かれるのを恐れるように、さらに声を潜めた。
「それは彼女が個人的に、創業当時から支援していたという、スイスの小さな研究所に関する書類でした。何でも人工知能を使った、新しい創薬のプラットフォームを開発しているとか……。私には専門的なことは、さっぱり分かりませんが」

 一郎は、わざと曖昧に、そして自信なさげに語った。高橋の眉が、ぴくりと動く。次世代エネルギーよりも、さらに現代的で、巨大な利益を想起させるキーワード。「AI創薬」。彼の強欲なアンテナが、その言葉を敏感に捉えた。

「その研究所は上場しているのですか?」
「いえ……妻の日記によれば、まだごく一部の人間しか、その存在を知らない、と。妻は、その技術が世に出れば、世界が変わると信じていたようですが……私には、その価値がどうも分からなくて。遺産を整理してくれた弁護士も、これは投資というより、故人の夢への寄付のようなものだから、忘れた方がいい、と」

 一郎は最後の言葉で、決定的な餌を撒いた。
「弁護士が匙を投げるほどの、素人には手出しできない案件」。それは、プロの詐欺師である高橋にとって、「自分が介入すれば独占できる巨大な利益」と同義だった。

 高橋の呼吸が僅かに荒くなったのを、一郎は見逃さなかった。彼の目は、もはや一郎ではなく、一郎の背後にある、まだ見ぬ巨万の富に向けられていた。
「相川さん、もし、もしよろしければですが……その書類を、一度、私に見せてはいただけませんか?もちろん他言は一切いたしません。私は、あなたの資産を守りたい。ただ、それだけなのです。その研究所が本当に価値のあるものなのか、それとも、ただの夢物語なのか。専門家として判断して差し上げたい」

 その申し出は善意の仮面を被っていた。しかし、その裏側にあるのは、他人の財産を根こそぎ奪い取ろうとする、剥き出しの欲望だ。十数年前、一郎がそうされたように。

 一郎は数秒間、苦悩する演技をした。そして、ついに高橋の親切心に負けた、という表情で、小さく頷いた。
「……高橋様が、そこまでおっしゃるのでしたら。ですが本当に、見るだけで……」
「ええ、もちろんですとも!」
 高橋は、一郎の手を両手で固く握りしめた。その手は興奮で僅かに汗ばんでいた。

 罠は完璧に仕掛けられた。
 強欲な狩人は、自分が、より狡猾な狩人によって、巨大な罠へと誘い込まれていることに、まだ気づいていない。

 一郎は高橋の握る手を振り払わなかった。
 その手の温もりを感じながら、彼の心の中では、ただ一つの言葉が氷のように冷たく響いていた。

『計画第四段階、第二フェーズ、完了』
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