怨嗟の記録

かわさきはっく

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第10話 擬態

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 高橋雄一(田中誠)の携帯電話での芝居がかった会話が終わってから、数分が経過した。彼は鈴木一郎(相川正輝)が自分の存在に気づき、興味を示すのを待っていた。しかし、一郎はただ虚空を見つめるばかりで、一向に反応する気配がない。高橋の眉が、僅かにひそめられた。予想外の反応だったが、それ故に、彼の狩猟本能はさらに掻き立てられた。世間知らずで、警戒心が強いタイプか。ならば、より慎重に、より巧妙に近づくまでだ。

 高橋は、おもむろに席を立つと、トイレに向かうふりをして、一郎のテーブルのすぐそばを通り過ぎた。そして、計算され尽くしたタイミングで、彼の足がもつれる。
「おっと!」
 わざとらしい驚きの声と共に、彼の手から滑り落ちたスマートフォンのケースが、カーペットの上を滑り、一郎の足元で止まった。

「ああ、これは失礼」
 高橋は人の良さそうな笑みを浮かべながら、一郎に軽く会釈した。
 一郎は、まるで今初めて彼の存在に気づいたかのように、びくりと肩を震わせた。そして、おずおずと足元のケースを拾い上げると、両手で丁寧に高橋へと差し出した。その指は、かすかに震えている。
「いえ……どうぞ」
 声は人と話すことに慣れていないせいか、少し上ずっていた。

「ありがとうございます。助かります」
 高橋はケースを受け取ると、そのまま立ち去る素振りを見せず、親しげに続けた。
「私、高橋と申します。こちらには、よくいらっしゃるのですか?」
「……いえ、私は、相川と……。時々、考え事をするために」
 一郎は老眼鏡の奥の瞳を伏せがちに、途切れ途切れに答えた。その姿は高橋の目には、社会との接触を避けて生きてきた、孤独な資産家のそれとして完璧に映っていた。

「相川様、ですか。実は先ほどからあなたの佇まいが気になっておりましてね。何か、こう、浮世離れしたオーラと言いますか。失礼ながら、何か特別なご職業で?」
 高橋は相手の懐に滑り込む天才だった。彼の言葉は決して下品な詮索には聞こえない。純粋な好奇心と、相手への敬意を装った、巧みな話術だった。

「いえ、私は……大した者では。数年前に、亡くなった妻が遺してくれた会社を、整理しただけでして。今は、ただ……時間を持て余しているだけです」
 一郎は、あらかじめ用意しておいた、悲哀に満ちた身の上話を語り始めた。IT企業の創業者だった妻に先立たれ、莫大な遺産を相続したものの、その使い道も分からず、友人もなく、ただ孤独に日々を過ごしている男。その物語は高橋の欲望を的確に刺激するよう、細部まで作り込まれていた。

「そうでしたか……それは、お辛い経験をされましたね」
 高橋は深く同情したような表情を浮かべ、ごく自然に一郎の向かいの席に腰を下ろした。
「実は何を隠そう、私も似たような経験があるのです。若くして事業に成功しましたが、そのために多くのものを犠牲にしてきました。金はあっても、心が満たされない。相川様のお気持ち、痛いほど分かりますよ」

 嘘だった。彼の心を満たすのは、常に金と、他人を支配する優越感だけだ。しかし、その嘘は孤独な人間の心に、甘い蜜のように染み渡る。
 一郎は高橋の言葉に、まるで救いを見出したかのように、顔を上げた。
「高橋様も……?」
「ええ。だからこそ、私は今、ただ金を稼ぐのではなく、その金を使って、いかに人生を豊かにするか、ということを追求しているのです。例えば、有望な若者に投資をしたり、恵まれない子供たちのために基金を設立したり。金は、それ自体に価値があるわけではありません。どう使うかで、その価値が決まるのです」

 高橋は熱っぽく語り続けた。その瞳は理想に燃える慈善家のように、キラキラと輝いて見えた。十数年前、三百万円を騙し取られたあの時と、全く同じ目だった。
 一郎は、その目をじっと見つめ返した。彼の心の奥底では、冷え切った憎悪の炎が静かに燃え盛っていたが、その表面は、感銘と尊敬の念に満ちた、純朴な老人の表情で完璧に覆い隠されていた。

「素晴らしい……。私のような者には、到底思いつきもしないようなお考えだ」
「とんでもない。相川様も、きっとできますよ。あなたのような誠実な方だからこそ、その莫大な資産を社会のために役立てる資格がある」
 高橋は核心に近づきつつあった。
「もし、よろしければですが……今度、私が主催している、ごく内輪の勉強会にいらっしゃいませんか?様々な分野の専門家を招いて、これからの社会や経済について語り合う、有意義な会です。きっと、相川様の資産運用の何かヒントになるはずですよ」

 釣り針に餌がつけられた。
 一郎は、ここで飛びついてはいけないことを知っていた。彼は少し困ったように眉を寄せ、首を横に振った。
「いえ、私のような世間知らずが、そのような場所へお邪魔するのは……ご迷惑をおかけするだけです」
 その臆病な反応は高橋の予測通りだった。彼は、さらに安心させるように、優しい声で言った。
「ご心配には及びません。私が責任をもってエスコートいたします。無理な勧誘など、一切ありません。ただ、あなたのような方と、もっとお話がしてみたい。それだけなのです」

 完璧なクロージングだった。
 一郎は数秒間、逡巡する素振りを見せた後、ついに、こくりと頷いた。
「……では、お言葉に甘えさせて、いただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんですとも!」
 高橋の顔に満足げな笑みが広がった。彼は一郎から連絡先を聞き出すと、「それでは、後日改めてご連絡いたします」と言い残し、颯爽とラウンジを去っていった。彼の足取りは、巨大な獲物を仕留めた後の王者のように自信に満ちていた。

 一人残されたラウンジで、一郎は、ゆっくりと紅茶を飲み干した。
 カップを置く音だけが、やけに大きく響いた。
 彼の顔から、あの人の良さそうな、臆病な老人の仮面が、すうっと剥がれ落ちていく。そこにあったのは、能面のように無表情で、底なしの闇を湛えた、鈴木一郎本来の顔だった。

 彼は高橋が去っていった方向を冷たい目で見つめていた。
 男は何も変わっていなかった。その傲慢さも、強欲さも、人を人とも思わない、その腐りきった魂も。
 だからこそ利用できる。

 一郎は会計を済ませると、ホテルを後にした。
 豪華なロビーを抜け、きらびやかな街の灯りを背に、彼は自分の巣である、あの薄暗いアパートへと戻っていく。
 部屋のドアを開け、鍵をかける。
 その瞬間、彼は孤独な資産家・相川正輝から、復讐者・鈴木一郎へと完全に変貌を遂げた。

 彼は迷うことなく桐の箱を開け、『記録 No.31』を取り出す。
 そして最後のページに、新たな一行を書き加えた。

『十二月二十日(木)。高橋雄一との接触に成功。擬態による初期警戒網の突破を確認。計画第四段階、第一フェーズ完了』

 彼の計画は高橋から金を騙し取ることではない。
 そんな生易しい復讐では、二十年来の怨嗟は晴らせない。
 彼の目的は、高橋に「絶対に儲かる」と信じ込ませた、一郎自身が作り上げた架空の投資話に、高橋自身の全財産、そして彼が他の老人たちから巻き上げた全ての金を、自らの意思で注ぎ込ませること。そして、その全てが、一夜にして幻と消える様を、彼の目の前で見せてやることだ。

 強欲な魚は釣り針を飲み込んだ。
 これから、ゆっくりと、息の根が止まるまで、その糸を巻き上げてやるだけだ。
 一郎はノートを閉じ、冷え切った部屋の暗闇の中で静かに笑った。それは音のない、悪魔の笑みだった。
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