怨嗟の記録

かわさきはっく

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第9話 甘い毒

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 山田健吾という男が社会的に抹殺されてから、季節は冬の深部へと向かっていた。街路樹は最後の葉を落とし、空は鉛色に凍てついている。鈴木一郎はアパートの窓からその景色を眺め、まるでそれが自分の心象風景であるかのように、静かに受け入れていた。

 彼の日常に変化はない。しかし彼の内なる世界では、一つの大きな章が幕を閉じ、新たな章の幕が上がろうとしていた。計画の歯車は寸分の狂いもなく回り続けている。

 その日の午後、一郎はいつものように桐の箱を開けた。だが、彼が手に取ったのは、今までとは違う、比較的新しいノートだった。『記録 No.31』。それは、彼が三十代前半、人生のどん底で出会った、最後の男の記録だった。

 ページをめくると、そこには山田の会社を辞めた後の、絶望に満ちた日々が綴られていた。心身を病み、社会から完全に孤立した一郎。両親が遺してくれた、わずかな貯金を切り崩しながら、彼はただ息を潜めるように生きていた。そんな彼の前に、その男は現れた。

『平成十五年六月十日(火)天気:雨。最低気温:十八度』

 その日、一郎は一本の電話を取った。古い名簿をもとに電話をかけているという、流暢な口調の男だった。男は田中誠と名乗った。
「鈴木様、突然のお電話失礼いたします。私、未来アセットコンサルティングの田中と申します。実は、ごく一部の選ばれたお客様だけに、将来の資産を確実に、そして安全に倍増させる、特別な金融商品のご案内をしておりまして」

 胡散臭い、と最初は思った。だが、田中の声には、人の警戒心を解く、不思議な力があった。彼は一郎の話を辛抱強く聞き、その孤独と将来への不安に深く共感してみせた。
「分かります。今の時代、真面目に生きているだけでは報われませんからね。鈴木さんのような誠実な方こそ豊かになるべきなんです。私に、そのお手伝いをさせていただけませんか」

 その甘い言葉に、一郎の心は揺らいだ。山田に搾取され、誰にも認められず、存在価値を見失っていた彼にとって、田中は自分を唯一理解し、救いの手を差し伸べてくれる存在のように思えたのだ。

 数日後、喫茶店で会った田中は、高級そうなスーツを着こなし、自信に満ちた笑みを浮かべていた。彼は複雑なグラフや専門用語を並べ立てたが、その説明は不思議と分かりやすかった。海外の有望な未公開株に投資すれば、一年で資金が三倍になる。元本は保証されている。リスクは一切ない。彼はそう断言した。

 一郎は両親が遺した最後の貯金、三百万円を田中に託した。それは彼にとって、親との最後の繋がりであり、再起のための最後の希望だった。

 最初の数ヶ月、全ては順調だった。田中は毎週のように電話をよこし、「鈴木さん、やりましたよ!株価が五パーセント上がりました!」と、興奮した声で報告してきた。一郎の口座には実際に数万円の利益が振り込まれることもあった。一郎は、生まれて初めて、未来に微かな光を見た気がした。

 しかし、半年が過ぎた頃から、田中からの連絡は途絶えがちになった。不安になってこちらから電話をかけると、「今は重要な局面ですから。どっしり構えていてください」と、少し苛立ったような声で言われるだけだった。

 そして運命の日。
『平成十六年三月五日(金)。田中から着信。「鈴木さん、申し訳ありません……」。海外市場が暴落し、投資した会社が倒産した、と彼は言った。涙声だった。「私の判断ミスです。あなたの三百万円が、全て……ゼロになってしまいました」。電話の向こうで、彼は何度も「申し訳ない」と繰り返していた。俺は何も言えなかった。ただ、受話器を握りしめることしかできなかった』

 その後、未来アセットコンサルティングの事務所があった場所を訪ねると、そこはもぬけの殻だった。警察に相談しても、「投資は自己責任ですから」と、まともに取り合ってもらえなかった。

 一郎は全てを失った。
 金だけではない。人を信じようとした最後の心。未来への最後の希望。そして両親との最後の繋がり。
 その夜、彼はノートに、田中の顔、声、仕草、そして彼が語った全ての嘘を、血を吐くような思いで書き記した。

 一郎はノートから顔を上げた。過去の記憶がもたらすのは、もはや痛みではない。それは復讐という名の炎を燃え上がらせる、無尽蔵の薪だった。

 田中誠。もちろん、それは偽名だ。
 一郎は、この十数年間、その男の行方を執拗に追い続けてきた。詐欺師は、カメレオンのように名前と姿を変え、社会の暗がりに潜んでいる。だが、一郎の執念は、そのカメレオンの保護色を完璧に見破っていた。

 現在の彼の名前は、高橋雄一。
 表向きは富裕層向けの会員制サロンを運営する実業家。しかし、その実態は、情報弱者の老人たちから金を巻き上げる、悪質な投資詐欺グループの主犯格だった。

 一郎は、この数ヶ月、高橋(田中)の全てを監視してきた。彼の住むタワーマンション、愛人の存在、そして、彼が新たな「カモ」を探すために頻繁に出入りしている、高級ホテルのラウンジ。

 計画は最終段階に入っていた。
 一郎は、この日のために、新たな別人格を作り上げていた。
 名前は相川正輝。数年前に亡くなったIT企業の創業者から、莫大な遺産を相続した、天涯孤独の資産家。人付き合いが苦手で世間知らず。しかし、金の使い道には困っている。これ以上ないほど、詐欺師にとって魅力的な「カモ」の履歴書だった。

 一郎は清掃員の作業着を脱ぎ捨て、仕立ての良い、しかし少し時代遅れなデザインのスーツに身を包んだ。髪には白髪交じりのウィッグをつけ、度の弱い老眼鏡をかける。その姿は長年社会から隔絶されていた、孤独な資産家そのものだった。

 彼は高橋が常連としている、都内の一流ホテルのラウンジへと向かった。
 広々としたラウンジの窓際の席に一人で座り、彼はただ黙って紅茶を飲んでいた。その視線は虚空を彷徨っているように見える。しかし彼の意識は、一点に集中していた。

 午後三時。
 ラウンジの入り口に見覚えのある男が現れた。高橋雄一、すなわち田中誠だ。十数年の時が流れても、その自信に満ちた傲慢な笑みは変わらない。彼は獲物を探す肉食獣のように、鋭い目で店内を見渡した。

 やがて、その視線が、ぽつんと一人で座る一郎の姿を捉えた。
 高橋の目が微かに光る。彼はターゲットを見つけたのだ。

 高橋は何気ない様子でウェイターを呼び止めると、一郎の席の近くのテーブルへと移動した。そして、まるで独り言のように、しかし一郎に聞こえるように、携帯電話で話し始めた。
「ああ、例のシンガポールの件かい?問題ないよ。来月には利益が五千万円を超えるはずだ」

 古典的だが効果的な手口だ。
 一郎は、その声に気づかないふりをしながら、ゆっくりとカップを口に運んだ。
 彼の心臓は氷のように冷たく、静かだった。

 釣り針は投げられた。
 あとは強欲な魚が、その甘い毒餌に食いつくのを待つだけだ。
 一郎は、これから始まる最後の人間に対する復讐劇の開幕を静かに待っていた。
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