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第20話 闇の収穫
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佐藤優奈は鏡に映る自分の姿を、もはや認識できなかった。
そこにいたのは、落ち窪んだ目に深い隈を刻み、骨と皮ばかりに痩せこけた、まるで老婆のような見知らぬ誰かだった。そして、その足。包帯で覆われた下では、腐敗が進行し、死臭にも似た、甘く、むせ返るような匂いを放ち続けている。
彼女の絶望は孤独の中で、静かに熟成されていた。
父親は酒に溺れ、意味の分からない、うわ言を繰り返すだけ。母親は、もう、この家にはいない。友人たちは手のひらを返したように、彼女の存在を無視した。誰も助けてはくれない。誰も信じてはくれない。この痛みも、この苦しみも、この腐りゆく足も、全てが自分のせいなのだと、世界が指を差しているようだった。
ある夜。
優奈はベッドの上で、動かなくなった自分の足を、ただ虚ろに見つめていた。机の引き出しから取り出したカッターナイフの冷たい感触を指先で確かめる。
(もう、疲れた……)
彼女の心は完全に折れていた。
最後に母親の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。ごめんなさい、と、声にならない声で呟くと、彼女は、ためらうことなく、その刃で自らの手首を深く引き裂いた。
赤い血が、シーツの上に、じわりと広がっていく。その光景を、彼女は、どこか他人事のように、ぼんやりと眺めていた。意識が、ゆっくりと遠のいていく。
それは、一つの家族の完全な終焉だった。
娘の葬儀が終わった後も、佐藤和也は、ただ抜け殻のように、リビングのソファに座り続けていた。涙も出なかった。彼の心は悲しみや後悔を通り越し、巨大な虚無に飲み込まれていた。
娘が死んだ。自分のせいで。いや、違う。あの男の、鈴木一郎のせいだ。
彼の頭の中では、責任転嫁と自己嫌悪が無限のループを描いていた。
その夜も、彼は酒を求めて、震える手で焼酎のボトルを掴んだ。
グラスに注ごうとした、その瞬間だった。
部屋の空気が、再び、あの夜のように凍りついた。吐く息が白い。
そして彼の目の前に、音もなく、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現した。
以前よりも、その輪郭は、はっきりとしていた。憎悪と恐怖を養分として、その存在を、より確かなものへと変えているのだ。
「……また、来たのか」
佐藤の声には、もはや恐怖の色はなかった。全てを失った人間だけが持つ、乾いた諦念《ていねん》が、そこにはあった。
一郎は答えなかった。
ただ、その感情のない目で佐藤を見下ろしながら、再び、あの黒いノートを、その手に現出させた。
そして、前回の続きを読み上げるかのように、その平坦な声が部屋に響き渡った。
「昭和六十三年一月二十八日。木曜日。天気、雪。お前は俺が亡くなった祖母の形見だと言った、手編みのマフラーを奪い取った。そして、それを泥水の中に投げ込み、皆で踏みつけた。『汚えマフラーだな』。お前は、そう言って笑っていた」
「……やめろ」
佐藤は呟いた。
「もう、やめてくれ。俺が悪かった。謝る。だから、もう……」
「謝罪など、いらない」
悪霊は初めて佐藤の言葉を遮った。
「お前の謝罪に何の意味がある?お前の忘却の罪は万死に値する。お前は俺が三十数年間味わい続けた絶望の、百分の一すら、まだ味わってはいない」
一郎はノートを、ぱたん、と閉じた。
「娘は、お前が犯した罪の最初の生贄だ。そして、次が、お前の番だ」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
佐藤は、しばらくの間、ソファの上で、胎児のように体を丸めて震えていた。
やがて、彼は自分の体に起きた異変に気づいた。
足が動かない。
まるで、自分の体の一部ではないかのように感覚が、ない。
恐る恐る、ズボンの裾をまくり上げると、彼は息を呑んだ。
彼の足が、娘の足と全く同じように、どす黒く変色し始めている。指先から、ゆっくりと、しかし確実に腐敗が進行していた。
「ああ……ああああ……!」
声にならない絶叫が彼の喉から漏れた。
それだけでは、なかった。
彼の視界が急速に、白く、霞んでいく。目の前にあるはずのテーブルの輪郭が、ぼやけ、色が失われ、やがて、全ての光が闇に閉ざされた。
失明。
彼は何も見えなくなったのだ。
歩くことも、見ることも、できなくなった。
ただ、この暗闇と、腐りゆく足の痛みと、そして、決して消えることのない恐怖の中で、生きていかなければならない。
それは、死よりも残酷な罰だった。
その時、彼の頭の中に、直接、鈴木一郎の声が響き渡った。
それは、心の底から満足したような、穏やかで、そして、底なしに冷たい声だった。
『余生を、楽しむがいい』
その言葉を最後に、一郎の気配は完全に消え去った。
佐藤和也への復讐は終わったのだ。
彼は、この先、何十年と、この生きた地獄の中で、自分の罪を問い続けることになる。
佐藤は暗闇の中で、ただ嗚咽を漏らし続けた。
その孤独な絶叫は誰の耳にも届かない。
遠く離れた、忌澤村の祠。
その中で、桐の箱が、ひときわ強い、満足げな光を放ち、その脈動を、一瞬だけ、止めた。
一つの、大きな収穫を終えた、獣のように。
そこにいたのは、落ち窪んだ目に深い隈を刻み、骨と皮ばかりに痩せこけた、まるで老婆のような見知らぬ誰かだった。そして、その足。包帯で覆われた下では、腐敗が進行し、死臭にも似た、甘く、むせ返るような匂いを放ち続けている。
彼女の絶望は孤独の中で、静かに熟成されていた。
父親は酒に溺れ、意味の分からない、うわ言を繰り返すだけ。母親は、もう、この家にはいない。友人たちは手のひらを返したように、彼女の存在を無視した。誰も助けてはくれない。誰も信じてはくれない。この痛みも、この苦しみも、この腐りゆく足も、全てが自分のせいなのだと、世界が指を差しているようだった。
ある夜。
優奈はベッドの上で、動かなくなった自分の足を、ただ虚ろに見つめていた。机の引き出しから取り出したカッターナイフの冷たい感触を指先で確かめる。
(もう、疲れた……)
彼女の心は完全に折れていた。
最後に母親の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。ごめんなさい、と、声にならない声で呟くと、彼女は、ためらうことなく、その刃で自らの手首を深く引き裂いた。
赤い血が、シーツの上に、じわりと広がっていく。その光景を、彼女は、どこか他人事のように、ぼんやりと眺めていた。意識が、ゆっくりと遠のいていく。
それは、一つの家族の完全な終焉だった。
娘の葬儀が終わった後も、佐藤和也は、ただ抜け殻のように、リビングのソファに座り続けていた。涙も出なかった。彼の心は悲しみや後悔を通り越し、巨大な虚無に飲み込まれていた。
娘が死んだ。自分のせいで。いや、違う。あの男の、鈴木一郎のせいだ。
彼の頭の中では、責任転嫁と自己嫌悪が無限のループを描いていた。
その夜も、彼は酒を求めて、震える手で焼酎のボトルを掴んだ。
グラスに注ごうとした、その瞬間だった。
部屋の空気が、再び、あの夜のように凍りついた。吐く息が白い。
そして彼の目の前に、音もなく、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現した。
以前よりも、その輪郭は、はっきりとしていた。憎悪と恐怖を養分として、その存在を、より確かなものへと変えているのだ。
「……また、来たのか」
佐藤の声には、もはや恐怖の色はなかった。全てを失った人間だけが持つ、乾いた諦念《ていねん》が、そこにはあった。
一郎は答えなかった。
ただ、その感情のない目で佐藤を見下ろしながら、再び、あの黒いノートを、その手に現出させた。
そして、前回の続きを読み上げるかのように、その平坦な声が部屋に響き渡った。
「昭和六十三年一月二十八日。木曜日。天気、雪。お前は俺が亡くなった祖母の形見だと言った、手編みのマフラーを奪い取った。そして、それを泥水の中に投げ込み、皆で踏みつけた。『汚えマフラーだな』。お前は、そう言って笑っていた」
「……やめろ」
佐藤は呟いた。
「もう、やめてくれ。俺が悪かった。謝る。だから、もう……」
「謝罪など、いらない」
悪霊は初めて佐藤の言葉を遮った。
「お前の謝罪に何の意味がある?お前の忘却の罪は万死に値する。お前は俺が三十数年間味わい続けた絶望の、百分の一すら、まだ味わってはいない」
一郎はノートを、ぱたん、と閉じた。
「娘は、お前が犯した罪の最初の生贄だ。そして、次が、お前の番だ」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
佐藤は、しばらくの間、ソファの上で、胎児のように体を丸めて震えていた。
やがて、彼は自分の体に起きた異変に気づいた。
足が動かない。
まるで、自分の体の一部ではないかのように感覚が、ない。
恐る恐る、ズボンの裾をまくり上げると、彼は息を呑んだ。
彼の足が、娘の足と全く同じように、どす黒く変色し始めている。指先から、ゆっくりと、しかし確実に腐敗が進行していた。
「ああ……ああああ……!」
声にならない絶叫が彼の喉から漏れた。
それだけでは、なかった。
彼の視界が急速に、白く、霞んでいく。目の前にあるはずのテーブルの輪郭が、ぼやけ、色が失われ、やがて、全ての光が闇に閉ざされた。
失明。
彼は何も見えなくなったのだ。
歩くことも、見ることも、できなくなった。
ただ、この暗闇と、腐りゆく足の痛みと、そして、決して消えることのない恐怖の中で、生きていかなければならない。
それは、死よりも残酷な罰だった。
その時、彼の頭の中に、直接、鈴木一郎の声が響き渡った。
それは、心の底から満足したような、穏やかで、そして、底なしに冷たい声だった。
『余生を、楽しむがいい』
その言葉を最後に、一郎の気配は完全に消え去った。
佐藤和也への復讐は終わったのだ。
彼は、この先、何十年と、この生きた地獄の中で、自分の罪を問い続けることになる。
佐藤は暗闇の中で、ただ嗚咽を漏らし続けた。
その孤独な絶叫は誰の耳にも届かない。
遠く離れた、忌澤村の祠。
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一つの、大きな収穫を終えた、獣のように。
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