怨嗟の記録

かわさきはっく

文字の大きさ
20 / 40

第20話 闇の収穫

しおりを挟む
 佐藤優奈は鏡に映る自分の姿を、もはや認識できなかった。
 そこにいたのは、落ち窪んだ目に深い隈を刻み、骨と皮ばかりに痩せこけた、まるで老婆のような見知らぬ誰かだった。そして、その足。包帯で覆われた下では、腐敗が進行し、死臭にも似た、甘く、むせ返るような匂いを放ち続けている。

 彼女の絶望は孤独の中で、静かに熟成されていた。
 父親は酒に溺れ、意味の分からない、うわ言を繰り返すだけ。母親は、もう、この家にはいない。友人たちは手のひらを返したように、彼女の存在を無視した。誰も助けてはくれない。誰も信じてはくれない。この痛みも、この苦しみも、この腐りゆく足も、全てが自分のせいなのだと、世界が指を差しているようだった。

 ある夜。
 優奈はベッドの上で、動かなくなった自分の足を、ただ虚ろに見つめていた。机の引き出しから取り出したカッターナイフの冷たい感触を指先で確かめる。
(もう、疲れた……)
 彼女の心は完全に折れていた。
 最後に母親の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。ごめんなさい、と、声にならない声で呟くと、彼女は、ためらうことなく、その刃で自らの手首を深く引き裂いた。

 赤い血が、シーツの上に、じわりと広がっていく。その光景を、彼女は、どこか他人事のように、ぼんやりと眺めていた。意識が、ゆっくりと遠のいていく。
 それは、一つの家族の完全な終焉だった。

 娘の葬儀が終わった後も、佐藤和也は、ただ抜け殻のように、リビングのソファに座り続けていた。涙も出なかった。彼の心は悲しみや後悔を通り越し、巨大な虚無に飲み込まれていた。
 娘が死んだ。自分のせいで。いや、違う。あの男の、鈴木一郎のせいだ。
 彼の頭の中では、責任転嫁と自己嫌悪が無限のループを描いていた。

 その夜も、彼は酒を求めて、震える手で焼酎のボトルを掴んだ。
 グラスに注ごうとした、その瞬間だった。
 部屋の空気が、再び、あの夜のように凍りついた。吐く息が白い。
 そして彼の目の前に、音もなく、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現した。

 以前よりも、その輪郭は、はっきりとしていた。憎悪と恐怖を養分として、その存在を、より確かなものへと変えているのだ。
「……また、来たのか」
 佐藤の声には、もはや恐怖の色はなかった。全てを失った人間だけが持つ、乾いた諦念《ていねん》が、そこにはあった。

 一郎は答えなかった。
 ただ、その感情のない目で佐藤を見下ろしながら、再び、あの黒いノートを、その手に現出させた。
 そして、前回の続きを読み上げるかのように、その平坦な声が部屋に響き渡った。

「昭和六十三年一月二十八日。木曜日。天気、雪。お前は俺が亡くなった祖母の形見だと言った、手編みのマフラーを奪い取った。そして、それを泥水の中に投げ込み、皆で踏みつけた。『汚えマフラーだな』。お前は、そう言って笑っていた」

「……やめろ」
 佐藤は呟いた。
「もう、やめてくれ。俺が悪かった。謝る。だから、もう……」

「謝罪など、いらない」
 悪霊は初めて佐藤の言葉を遮った。
「お前の謝罪に何の意味がある?お前の忘却の罪は万死に値する。お前は俺が三十数年間味わい続けた絶望の、百分の一すら、まだ味わってはいない」

 一郎はノートを、ぱたん、と閉じた。
「娘は、お前が犯した罪の最初の生贄だ。そして、次が、お前の番だ」

 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
 部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
 佐藤は、しばらくの間、ソファの上で、胎児のように体を丸めて震えていた。

 やがて、彼は自分の体に起きた異変に気づいた。
 足が動かない。
 まるで、自分の体の一部ではないかのように感覚が、ない。
 恐る恐る、ズボンの裾をまくり上げると、彼は息を呑んだ。
 彼の足が、娘の足と全く同じように、どす黒く変色し始めている。指先から、ゆっくりと、しかし確実に腐敗が進行していた。

「ああ……ああああ……!」
 声にならない絶叫が彼の喉から漏れた。
 それだけでは、なかった。
 彼の視界が急速に、白く、霞んでいく。目の前にあるはずのテーブルの輪郭が、ぼやけ、色が失われ、やがて、全ての光が闇に閉ざされた。

 失明。
 彼は何も見えなくなったのだ。

 歩くことも、見ることも、できなくなった。
 ただ、この暗闇と、腐りゆく足の痛みと、そして、決して消えることのない恐怖の中で、生きていかなければならない。
 それは、死よりも残酷な罰だった。

 その時、彼の頭の中に、直接、鈴木一郎の声が響き渡った。
 それは、心の底から満足したような、穏やかで、そして、底なしに冷たい声だった。

『余生を、楽しむがいい』

 その言葉を最後に、一郎の気配は完全に消え去った。
 佐藤和也への復讐は終わったのだ。
 彼は、この先、何十年と、この生きた地獄の中で、自分の罪を問い続けることになる。

 佐藤は暗闇の中で、ただ嗚咽を漏らし続けた。
 その孤独な絶叫は誰の耳にも届かない。

 遠く離れた、忌澤村の祠。
 その中で、桐の箱が、ひときわ強い、満足げな光を放ち、その脈動を、一瞬だけ、止めた。
 一つの、大きな収穫を終えた、獣のように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

処理中です...