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第21話 忘却の代償
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渡辺恵子《わたなべけいこ》は幸せだった。
夫の隆宏《たかひろ》は誠実で、優しい。二人の子供たち――中学二年生の息子・翔太《しょうた》と、小学五年生の娘・美咲《みさき》――は、健やかに、そして素直に育ってくれた。都心から少し離れた、日当たりの良い一軒家。週末には家族四人で買い物に出かけ、食卓では、その日にあった他愛もない出来事を笑い合う。彼女が、かつて夢見ていた「普通の幸せ」は、今、確かにこの手にあった。
三十数年前の、あの中学校の教室で起きていた、陰湿ないじめのことなど、彼女の記憶からは、とうの昔に消え去っていた。鈴木一郎という、影の薄い男子生徒がいたことすら、覚えていない。木村や佐藤が、彼に何をしていたか。そして自分が、その光景を、どのような目で見ていたか。それらは全て、人生という分厚い本の中に埋もれてしまった、取るに足らない、一行の染みでしかなかった。
その夜も、渡辺家には温かい光と楽しげな笑い声が満ちていた。
「母さん、このハンバーグ、めっちゃ美味い!」
翔太が口いっぱいに頬張りながら言う。
「もう、翔太ったら、お行儀が悪いわよ」
美咲が、くすくすと笑う。
「恵子の作るハンバーグは世界一だからな」
隆宏がビールを片手に満足そうに頷いた。
恵子は、その光景を愛おしそうに見つめていた。これだ。この何でもない、ありふれた日常こそが、私の宝物なのだ。
彼女が夫のグラスにビールを注ごうと、立ち上がった、その瞬間だった。
部屋の空気が一変した。
先ほどまで感じていた、温かい食卓の空気が、まるで真空ポンプで吸い出されたかのように消え失せ、代わりに、肌を刺すような、絶対零度の冷気が部屋を満たした。
パチッ、パチッ、と音を立てて、リビングの照明が不規則に明滅を始める。テレビの画面は砂嵐へと変わり、耳障りなノイズを撒き散らしていた。
「え……?何、停電?」
隆宏が怪訝な顔で天井を見上げる。子供たちも、突然の出来事に不安そうな顔で母親を見つめた。
恵子は言葉を発することができなかった。彼女の本能が、これが、ただの停電ではないことを、告げていたからだ。
そして、家族四人の視線が、リビングの隅、何もないはずの空間に釘付けになった。
そこの闇が、まるでインクを水に垂らしたかのように、ゆっくりと、人の形を成していく。
やがて、そこに現れたのは、一人の男だった。痩せた、背の高い男。その姿は、半透明で、輪郭が僅かに揺らめいている。その顔には何の感情もなく、その瞳は底なしの闇のように、ただ恵子一人だけを、じっと見つめていた。
「……あ……あ……」
恵子の喉から、意味をなさない喘ぎ声が漏れた。
「恵子、どうした!おい、あんた誰だ!どうやって、この家に入った!」
隆宏が妻を庇うように立ち上がり、目の前の不審者を怒鳴りつけた。しかし、その声は恐怖で僅かに震えていた。
悪霊と化した鈴木一郎は、その言葉に何の反応も示さない。
彼は、すっと右手を持ち上げた。その手には、どこからともなく、一冊の黒いノートが現れる。
一郎はそのノートを、ゆっくりと開いた。そして、感情のこもらない、平坦な声で、その内容を読み上げ始めた。その声は部屋にいる全員の頭の中に直接響き渡った。
「昭和六十二年十二月十日。木曜日。天気、晴れのち曇り。四時間目、数学の授業中。俺は教師に指され、答えられなかった。その罰として、木村に頭を黒板に何度も打ち付けられた。お前は一番前の席で、その光景を見ていたな」
「な……何を、言っているの……?」
恵子はガタガタと震えながら、後ずさった。忘れていたはずの記憶の断片が、無理やり、こじ開けられていく。
「お前は隣の席の田中陽子と顔を見合わせ、肩を震わせて笑っていた。その時、お前が、こっそりと食べていた、メロンパンの甘い匂い。袋を開ける、カサカサという音。俺は今でも、はっきりと覚えている」
それは、あまりに些細で、あまりに個人的な執念の記録だった。
恵子は思い出した。そうだ、そんなことが、あったかもしれない。でも、それは、ただ、周りの空気に合わせただけで……私だけが笑っていたわけでは……。
彼女の心の中の見苦しい言い訳は、一郎の次の言葉によって、粉々に打ち砕かれた。
「お前は傍観者ではない。お前のその嘲笑が、木村の暴力を加速させた。お前のその無関心が、俺の心を殺した。お前も同罪だ」
「やめて……やめてください……!」
恵子は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
「パパ、ママが……」
「お兄ちゃん、怖いよぉ……」
子供たちは目の前で起きている超常的な光景と、母親の異常な様子に泣き叫ぶことしかできなかった。
一郎はノートを、ぱたん、と閉じた。
そして、うずくまる恵子に最後の宣告を下した。
「お前が俺から人間としての尊厳を奪ったように、俺も、お前から、女としての、母親としての尊厳を奪い去ってやる」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。しかし、家族の心に刻み込まれた恐怖は、もはや消えることはなかった。
その夜、渡辺家の誰もが悪夢にうなされた。
そして翌朝。
恵子が重い体を引きずるようにして目を覚まし、枕元に違和感を覚えた。
シーツの上に大量の黒い髪の毛が散らばっている。
(……え?)
彼女は恐る恐る、自分の頭に手をやった。
そこにあるはずの、豊かだった髪の感触が、ない。指先に触れるのは、つるりとした冷たい頭皮の感触だけだった。
「きゃあああああああああああ!」
鏡に映っていたのは髪の毛を一本残らず失い、青白い頭皮を晒した、醜い化け物だった。
その絶叫を聞きつけ、子供たちが部屋に飛び込んできた。
そして、彼らもまた、同じように絶叫を上げた。
翔太も、美咲も、母親と全く同じように全ての髪を失い、見るも無残な姿に変わり果てていたのだ。
三人の狂ったような絶叫が、かつて幸福だったはずの家に木霊した。
隆宏は、その地獄のような光景を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
遠く離れた、忌澤村の祠。
その中で、桐の箱が、また一つ、新たな恐怖を収穫し、満足げに、その禍々しい脈動を刻んでいた。
夫の隆宏《たかひろ》は誠実で、優しい。二人の子供たち――中学二年生の息子・翔太《しょうた》と、小学五年生の娘・美咲《みさき》――は、健やかに、そして素直に育ってくれた。都心から少し離れた、日当たりの良い一軒家。週末には家族四人で買い物に出かけ、食卓では、その日にあった他愛もない出来事を笑い合う。彼女が、かつて夢見ていた「普通の幸せ」は、今、確かにこの手にあった。
三十数年前の、あの中学校の教室で起きていた、陰湿ないじめのことなど、彼女の記憶からは、とうの昔に消え去っていた。鈴木一郎という、影の薄い男子生徒がいたことすら、覚えていない。木村や佐藤が、彼に何をしていたか。そして自分が、その光景を、どのような目で見ていたか。それらは全て、人生という分厚い本の中に埋もれてしまった、取るに足らない、一行の染みでしかなかった。
その夜も、渡辺家には温かい光と楽しげな笑い声が満ちていた。
「母さん、このハンバーグ、めっちゃ美味い!」
翔太が口いっぱいに頬張りながら言う。
「もう、翔太ったら、お行儀が悪いわよ」
美咲が、くすくすと笑う。
「恵子の作るハンバーグは世界一だからな」
隆宏がビールを片手に満足そうに頷いた。
恵子は、その光景を愛おしそうに見つめていた。これだ。この何でもない、ありふれた日常こそが、私の宝物なのだ。
彼女が夫のグラスにビールを注ごうと、立ち上がった、その瞬間だった。
部屋の空気が一変した。
先ほどまで感じていた、温かい食卓の空気が、まるで真空ポンプで吸い出されたかのように消え失せ、代わりに、肌を刺すような、絶対零度の冷気が部屋を満たした。
パチッ、パチッ、と音を立てて、リビングの照明が不規則に明滅を始める。テレビの画面は砂嵐へと変わり、耳障りなノイズを撒き散らしていた。
「え……?何、停電?」
隆宏が怪訝な顔で天井を見上げる。子供たちも、突然の出来事に不安そうな顔で母親を見つめた。
恵子は言葉を発することができなかった。彼女の本能が、これが、ただの停電ではないことを、告げていたからだ。
そして、家族四人の視線が、リビングの隅、何もないはずの空間に釘付けになった。
そこの闇が、まるでインクを水に垂らしたかのように、ゆっくりと、人の形を成していく。
やがて、そこに現れたのは、一人の男だった。痩せた、背の高い男。その姿は、半透明で、輪郭が僅かに揺らめいている。その顔には何の感情もなく、その瞳は底なしの闇のように、ただ恵子一人だけを、じっと見つめていた。
「……あ……あ……」
恵子の喉から、意味をなさない喘ぎ声が漏れた。
「恵子、どうした!おい、あんた誰だ!どうやって、この家に入った!」
隆宏が妻を庇うように立ち上がり、目の前の不審者を怒鳴りつけた。しかし、その声は恐怖で僅かに震えていた。
悪霊と化した鈴木一郎は、その言葉に何の反応も示さない。
彼は、すっと右手を持ち上げた。その手には、どこからともなく、一冊の黒いノートが現れる。
一郎はそのノートを、ゆっくりと開いた。そして、感情のこもらない、平坦な声で、その内容を読み上げ始めた。その声は部屋にいる全員の頭の中に直接響き渡った。
「昭和六十二年十二月十日。木曜日。天気、晴れのち曇り。四時間目、数学の授業中。俺は教師に指され、答えられなかった。その罰として、木村に頭を黒板に何度も打ち付けられた。お前は一番前の席で、その光景を見ていたな」
「な……何を、言っているの……?」
恵子はガタガタと震えながら、後ずさった。忘れていたはずの記憶の断片が、無理やり、こじ開けられていく。
「お前は隣の席の田中陽子と顔を見合わせ、肩を震わせて笑っていた。その時、お前が、こっそりと食べていた、メロンパンの甘い匂い。袋を開ける、カサカサという音。俺は今でも、はっきりと覚えている」
それは、あまりに些細で、あまりに個人的な執念の記録だった。
恵子は思い出した。そうだ、そんなことが、あったかもしれない。でも、それは、ただ、周りの空気に合わせただけで……私だけが笑っていたわけでは……。
彼女の心の中の見苦しい言い訳は、一郎の次の言葉によって、粉々に打ち砕かれた。
「お前は傍観者ではない。お前のその嘲笑が、木村の暴力を加速させた。お前のその無関心が、俺の心を殺した。お前も同罪だ」
「やめて……やめてください……!」
恵子は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
「パパ、ママが……」
「お兄ちゃん、怖いよぉ……」
子供たちは目の前で起きている超常的な光景と、母親の異常な様子に泣き叫ぶことしかできなかった。
一郎はノートを、ぱたん、と閉じた。
そして、うずくまる恵子に最後の宣告を下した。
「お前が俺から人間としての尊厳を奪ったように、俺も、お前から、女としての、母親としての尊厳を奪い去ってやる」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。しかし、家族の心に刻み込まれた恐怖は、もはや消えることはなかった。
その夜、渡辺家の誰もが悪夢にうなされた。
そして翌朝。
恵子が重い体を引きずるようにして目を覚まし、枕元に違和感を覚えた。
シーツの上に大量の黒い髪の毛が散らばっている。
(……え?)
彼女は恐る恐る、自分の頭に手をやった。
そこにあるはずの、豊かだった髪の感触が、ない。指先に触れるのは、つるりとした冷たい頭皮の感触だけだった。
「きゃあああああああああああ!」
鏡に映っていたのは髪の毛を一本残らず失い、青白い頭皮を晒した、醜い化け物だった。
その絶叫を聞きつけ、子供たちが部屋に飛び込んできた。
そして、彼らもまた、同じように絶叫を上げた。
翔太も、美咲も、母親と全く同じように全ての髪を失い、見るも無残な姿に変わり果てていたのだ。
三人の狂ったような絶叫が、かつて幸福だったはずの家に木霊した。
隆宏は、その地獄のような光景を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
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