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第25話 震源地の今
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佐藤家があった場所から駅へと戻る道は、二人にとって地獄への巡礼路《じゅんれいろ》のように感じられた。伊東健太も、渡辺恵子も、一言も口を利かなかった。ただ、互いの浅く、速い呼吸だけが、冬の冷たい空気の中で白く震えていた。
佐藤の娘の自殺。そして佐藤自身の肉体と精神の完全な崩壊。
隣家の住人が語った、淡々とした事実の一つ一つが、彼らの脳内で、おぞましい映像となって繰り返し再生されていた。それは自分たちの、そう遠くない未来の姿を見せつけられているようだった。
電車の揺れに身を任せながら、渡辺が、ぽつり、と呟いた。
「……次は、私たち、なんでしょうか」
その声は、ほとんど音になっていなかった。
「ああ、間違いないだろうな」
伊東は窓の外の流れていく景色から、目を逸らさずに答えた。
「あいつの復讐は、俺たちが完全に壊れるまで終わらない」
「そんな……。どうして私たちが、こんな目に……。ただ、あの時、あの場所に、いただけなのに……」
渡辺の瞳から、涙が、とめどなく溢れ出した。ウィッグで隠された頭皮が、じくり、と痛むような気がした。
「理由なんて、あいつにとっては、どうでもいいんだ」
伊東は固く拳を握りしめた。息子の腐り落ちていく両手が脳裏をよぎる。
「俺たちは、あいつの記録の中では、死刑を宣告された罪人だ。執行を待っているだけのな。だが……このまま黙って殺されるのを待つつもりはねえ」
伊東の目に絶望とは違う、暗い光が宿った。それは、追い詰められた獣が放つ、最後の抵抗の光だった。
「何か手がかりがあるはずだ。あいつが、どうして、あんな化け物になっちまったのか。そして、どうすれば、この呪いを止められるのか。何か、方法があるはずなんだ」
その言葉に、渡辺も、はっとしたように顔を上げた。そうだ、このまま泣いているだけでは何も変わらない。子供たちを守らなければ。
「でも、どうやって……?」
「あいつの実家だ」
伊東は言った。
「同窓会の名簿に鈴木の実家の住所が載っていた。もう、誰も住んでいないかもしれない。だが、何か、ほんの些細なことでも分かるかもしれない。あいつの人となりが。あいつが何を考え、何に苦しんでいたのかが」
それは、あまりに、か細い希望だった。しかし、今の二人にとっては暗闇の中に差し込んだ唯一の光に見えた。
数日後、彼らは、再び、会っていた。伊東が名簿から探し出した、鈴木一郎の実家があったとされる、古い住宅街に、二人の姿はあった。
彼らの目の前に現れたのは、昭和の面影を色濃く残す、古びた木造モルタルの二階建てアパートだった。「常盤荘」と書かれた錆びついた看板が傾きかけている。外壁は所々剥がれ落ち、鉄製の外階段は雨風に晒されて赤黒く変色していた。
「……ここ、なのか」
伊東は名簿の住所とアパートの名前を見比べた。間違いない。
二人は軋む階段を上り、二階の一番奥の部屋、201号室の前で立ち止まった。ドアには古いタイプの鍵穴と、郵便受けの差し込み口があるだけ。しかし、そのドアは異様な雰囲気を放っていた。郵便受けはガムテープで内側から固く塞がれ、ドアノブには、一枚の札がワイヤーでくくりつけられている。
『告知事項あり』
不動産業界で「事故物件」を意味する、その不吉な言葉に、二人は息を呑んだ。
伊東がドアノブに手をかけようとした、その時だった。
「……もし、そこのお部屋に御用でしたら、無駄ですよ」
背後から、しわがれた声がした。振り返ると、隣の部屋のドアが、わずかに開いており、そこから老婆が、こちらを覗き見ていた。
「すみません、昔、こちらに住んでいた、鈴木さんという方を探しておりまして……」
伊東が当たり障りなく答える。
老婆は、その名前を聞くと、途端に顔を曇らせた。
「ああ、一郎くんのことかい……。あの子なら、もう、ここにはいないよ。ずいぶん前に警察が大勢やってきてねえ。何でも世間を騒がせた、大きな事件の犯人だったとかで……。それ以来、この部屋は事故物件扱いさ。気味が悪いって、誰も借り手がつかないんだよ」
老婆は記憶をたどるように目を細めた。
「あの子、昔から、本当に影の薄い子でねえ。お父さんもお母さんも、相次いで亡くなられて……。その後、一人で住んでいたはずだけど、ほとんど誰とも口を利かないし、家からも、あまり出なかったんじゃないかしら。まさか、そんな大それたことをするなんてねえ……」
結局、得られたのは、それだけだった。
鈴木一郎は復讐を始めるずっと前から、社会との繋がりを自ら断ち切っていたのだ。彼の孤独の闇は、隣人ですら覗き込むことのできないほど、深いものだった。そして、彼が人間として最後に過ごしたこの場所もまた、彼の痕跡を何一つ残してはくれなかった。
二人は近くの喫茶店に入り、力なく椅子に座った。
テーブルの上には手つかずのコーヒーが湯気を立てている。
「……だめだ。何も、ない」
伊東は頭を抱えた。
「あいつは亡霊になる前から、亡霊みたいに生きてきたんだ。俺たちが、あいつについて、知ることができることなんて、何一つ……」
「もう、無理なのかしら……」
渡辺の震える声が静寂を破った。
「私たちも、佐藤くんのように……子供たちまで巻き込んで……。ただ待つしかないの……?」
その時だった。
渡辺が何かに、はっとしたように顔を上げた。
「……待って。普通の方法じゃ、無理だとしたら……」
彼女は自分の言葉に、自分で驚いているようだった。
「普通じゃない方法なら……どうかしら」
「普通じゃない、方法……?」
伊東が聞き返す。
「ええ……」
渡辺は震える指で、スマートフォンを取り出した。その目は、もはや、正気と狂気の境界線をさまよっていた。
「だって、そうでしょう?私たちを苦しめているのは、死んだ人間なのよ。お化けなのよ。だったら……それを退治してくれる人が、いても、おかしくないんじゃないかしら……?」
彼女は検索窓に、震える指で、いくつかのキーワードを打ち込んでいった。
『呪い 解決』
『悪霊 除霊 本物』
『超常現象 専門家』
伊東は、その画面を、ただ、黙って見つめていた。
馬鹿げている、と思った。非科学的だ、と。
だが、息子の腐りゆく両手。渡辺の抜け落ちた髪。そして佐藤の悲惨な末路。
それらは科学では決して説明できない、紛れもない現実だった。
藁《わら》にも、すがるしかない。
たとえ、その藁が、どんなに胡散臭く、頼りないものだったとしても。
伊東もまた、自分のスマートフォンを取り出した。
そして、渡辺と同じように、現実から逸脱した、未知の世界への扉を、自らの手で検索し始めた。
二人の虚ろな巡礼は終わった。
そして、今、彼らは、最後の、そして、最も危険な賭けに出ようとしていた。
佐藤の娘の自殺。そして佐藤自身の肉体と精神の完全な崩壊。
隣家の住人が語った、淡々とした事実の一つ一つが、彼らの脳内で、おぞましい映像となって繰り返し再生されていた。それは自分たちの、そう遠くない未来の姿を見せつけられているようだった。
電車の揺れに身を任せながら、渡辺が、ぽつり、と呟いた。
「……次は、私たち、なんでしょうか」
その声は、ほとんど音になっていなかった。
「ああ、間違いないだろうな」
伊東は窓の外の流れていく景色から、目を逸らさずに答えた。
「あいつの復讐は、俺たちが完全に壊れるまで終わらない」
「そんな……。どうして私たちが、こんな目に……。ただ、あの時、あの場所に、いただけなのに……」
渡辺の瞳から、涙が、とめどなく溢れ出した。ウィッグで隠された頭皮が、じくり、と痛むような気がした。
「理由なんて、あいつにとっては、どうでもいいんだ」
伊東は固く拳を握りしめた。息子の腐り落ちていく両手が脳裏をよぎる。
「俺たちは、あいつの記録の中では、死刑を宣告された罪人だ。執行を待っているだけのな。だが……このまま黙って殺されるのを待つつもりはねえ」
伊東の目に絶望とは違う、暗い光が宿った。それは、追い詰められた獣が放つ、最後の抵抗の光だった。
「何か手がかりがあるはずだ。あいつが、どうして、あんな化け物になっちまったのか。そして、どうすれば、この呪いを止められるのか。何か、方法があるはずなんだ」
その言葉に、渡辺も、はっとしたように顔を上げた。そうだ、このまま泣いているだけでは何も変わらない。子供たちを守らなければ。
「でも、どうやって……?」
「あいつの実家だ」
伊東は言った。
「同窓会の名簿に鈴木の実家の住所が載っていた。もう、誰も住んでいないかもしれない。だが、何か、ほんの些細なことでも分かるかもしれない。あいつの人となりが。あいつが何を考え、何に苦しんでいたのかが」
それは、あまりに、か細い希望だった。しかし、今の二人にとっては暗闇の中に差し込んだ唯一の光に見えた。
数日後、彼らは、再び、会っていた。伊東が名簿から探し出した、鈴木一郎の実家があったとされる、古い住宅街に、二人の姿はあった。
彼らの目の前に現れたのは、昭和の面影を色濃く残す、古びた木造モルタルの二階建てアパートだった。「常盤荘」と書かれた錆びついた看板が傾きかけている。外壁は所々剥がれ落ち、鉄製の外階段は雨風に晒されて赤黒く変色していた。
「……ここ、なのか」
伊東は名簿の住所とアパートの名前を見比べた。間違いない。
二人は軋む階段を上り、二階の一番奥の部屋、201号室の前で立ち止まった。ドアには古いタイプの鍵穴と、郵便受けの差し込み口があるだけ。しかし、そのドアは異様な雰囲気を放っていた。郵便受けはガムテープで内側から固く塞がれ、ドアノブには、一枚の札がワイヤーでくくりつけられている。
『告知事項あり』
不動産業界で「事故物件」を意味する、その不吉な言葉に、二人は息を呑んだ。
伊東がドアノブに手をかけようとした、その時だった。
「……もし、そこのお部屋に御用でしたら、無駄ですよ」
背後から、しわがれた声がした。振り返ると、隣の部屋のドアが、わずかに開いており、そこから老婆が、こちらを覗き見ていた。
「すみません、昔、こちらに住んでいた、鈴木さんという方を探しておりまして……」
伊東が当たり障りなく答える。
老婆は、その名前を聞くと、途端に顔を曇らせた。
「ああ、一郎くんのことかい……。あの子なら、もう、ここにはいないよ。ずいぶん前に警察が大勢やってきてねえ。何でも世間を騒がせた、大きな事件の犯人だったとかで……。それ以来、この部屋は事故物件扱いさ。気味が悪いって、誰も借り手がつかないんだよ」
老婆は記憶をたどるように目を細めた。
「あの子、昔から、本当に影の薄い子でねえ。お父さんもお母さんも、相次いで亡くなられて……。その後、一人で住んでいたはずだけど、ほとんど誰とも口を利かないし、家からも、あまり出なかったんじゃないかしら。まさか、そんな大それたことをするなんてねえ……」
結局、得られたのは、それだけだった。
鈴木一郎は復讐を始めるずっと前から、社会との繋がりを自ら断ち切っていたのだ。彼の孤独の闇は、隣人ですら覗き込むことのできないほど、深いものだった。そして、彼が人間として最後に過ごしたこの場所もまた、彼の痕跡を何一つ残してはくれなかった。
二人は近くの喫茶店に入り、力なく椅子に座った。
テーブルの上には手つかずのコーヒーが湯気を立てている。
「……だめだ。何も、ない」
伊東は頭を抱えた。
「あいつは亡霊になる前から、亡霊みたいに生きてきたんだ。俺たちが、あいつについて、知ることができることなんて、何一つ……」
「もう、無理なのかしら……」
渡辺の震える声が静寂を破った。
「私たちも、佐藤くんのように……子供たちまで巻き込んで……。ただ待つしかないの……?」
その時だった。
渡辺が何かに、はっとしたように顔を上げた。
「……待って。普通の方法じゃ、無理だとしたら……」
彼女は自分の言葉に、自分で驚いているようだった。
「普通じゃない方法なら……どうかしら」
「普通じゃない、方法……?」
伊東が聞き返す。
「ええ……」
渡辺は震える指で、スマートフォンを取り出した。その目は、もはや、正気と狂気の境界線をさまよっていた。
「だって、そうでしょう?私たちを苦しめているのは、死んだ人間なのよ。お化けなのよ。だったら……それを退治してくれる人が、いても、おかしくないんじゃないかしら……?」
彼女は検索窓に、震える指で、いくつかのキーワードを打ち込んでいった。
『呪い 解決』
『悪霊 除霊 本物』
『超常現象 専門家』
伊東は、その画面を、ただ、黙って見つめていた。
馬鹿げている、と思った。非科学的だ、と。
だが、息子の腐りゆく両手。渡辺の抜け落ちた髪。そして佐藤の悲惨な末路。
それらは科学では決して説明できない、紛れもない現実だった。
藁《わら》にも、すがるしかない。
たとえ、その藁が、どんなに胡散臭く、頼りないものだったとしても。
伊東もまた、自分のスマートフォンを取り出した。
そして、渡辺と同じように、現実から逸脱した、未知の世界への扉を、自らの手で検索し始めた。
二人の虚ろな巡礼は終わった。
そして、今、彼らは、最後の、そして、最も危険な賭けに出ようとしていた。
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