怨嗟の記録

かわさきはっく

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第30話 閉ざされた光

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 渡辺恵子は逃げた。
 夫と子供たちを連れ、慣れ親しんだ街を、家を、そして、そこに染みついた呪いを、全て捨てて。それは、夜逃げにも等しい、唐突で、計画性のない逃亡だった。

 新しい住まいは都心から遠く離れた、知らない街の、ありふれた賃貸マンションだった。真新しい壁紙の匂いが、まだ残っている。恵子は必死に自分に言い聞かせていた。
(大丈夫。ここなら、もう大丈夫なはず)

 彼女の心の中には、一つの、都合の良い思い込みがあった。
 幽霊というものは、特定の土地や建物に縛られるものだ。だから、あの家から、あの街から、物理的に距離を取れば、呪いの手は、もう届かないのではないか。それは科学的根拠のない、ただの藁にもすがるような願望だった。しかし、そう思い込むことでしか、彼女は、かろうじて、精神の平衡を保つことができなかったのだ。

 彼女は狂ったように新しい生活を始めた。
 家具を新調し、子供たちを無理やり新しい学校に転校させた。携帯電話の番号も変え、伊東健太をはじめ、過去を思い起こさせる全ての人間との連絡を、一方的に断ち切った。過去を完全にリセットするのだ。そうすれば、きっと、元の、あの、幸せだった日常に戻れるはずだと。

 しかし、その願いが、いかに脆く、儚いものであったか。
 子供たちの姿が、それを無言で物語っていた。
 息子の翔太も、娘の美咲も、あの日以来、髪の毛一本、生えてこない。学校では、その異様な見た目から、遠巻きにされ、陰で心ない言葉を囁かれている。二人は、すっかり口数を減らし、その瞳からは子供らしい輝きが消え失せていた。
 恵子は、そんな二人を見るたびに、胸が張り裂けそうになりながらも、作り笑顔で励まし続けた。
「大丈夫よ。きっと、また生えてくるから。ね?ここは新しい場所なんだから、心機一転、頑張りましょう」

 その言葉が、誰よりも自分自身に言い聞かせているものであることに、彼女は、気づかないふりをしていた。

 その夜も、渡辺家には、ぎこちない夕食の時間が流れていた。
 新しいテーブル、新しい食器。しかし、そこに、かつてのような温かい笑い声は、ない。ただ、食器がカチャカチャと、虚しく触れ合う音だけが響いていた。

「……ごちそうさま」
 子供たちが小さな声で言うと、そそくさと自分たちの部屋へと戻っていった。
 リビングに、夫の隆宏と二人きりになる。隆宏は何も言わずに、ただ黙々と、テレビのニュースを眺めていた。彼の心もまた、見えない恐怖と、妻のヒステリックな逃避行に疲れ果てていた。

(でも、これで、いいのよ。静かでも、平穏なら……)
 恵子が自分を納得させようとした、その瞬間だった。

 部屋の空気が一変した。
 新しいはずの、この部屋に、あの、忘れようとしても忘れられない、古い墓場のような、黴臭く湿った冷気が満ちていく。
 パチッ、と音を立てて、リビングの照明が消えた。テレビの画面も真っ暗になる。

「……またか」
 隆宏が絶望に顔を歪ませた。
 恵子の心臓が、氷の塊に鷲掴みにされたかのように、激しく痛んだ。
(嘘……。どうして……。ここまで来たのに……)

 そして、リビングの中央、何もないはずの空間に、すう、と、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現した。
 その姿は以前よりも、さらに濃く、はっきりとしている。まるで、彼らの恐怖を道標にして、どこまでも追いかけてきたかのように。

「……なぜ……」
 恵子の喉から、かすれた声が漏れた。
「なぜ、私たちのことを放っておいてくれないの……!」

 悪霊は答えなかった。
 ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。
 そして、ページをめくる、乾いた音が、恵子の頭の中に、直接、響き渡った。
 一郎の平坦な声が、新たな罪状を読み上げ始めた。

「昭和六十三年六月二十二日。水曜日。天気、雨。六時間目の後、掃除の時間。俺は、木村と佐藤に、三階の女子トイレの一番奥の個室に閉じ込められた。鍵を外から、かけられて」

 恵子の脳裏に、忘却の彼方にあったはずの、忌まわしい記憶が蘇る。
 そうだ。そんなことが、あった。掃除の時間、女子トイレの中から、誰かがドアを叩く、微かな音が聞こえていた。

「俺は何度もドアを叩き、助けを求めた。『誰か、開けてくれ!』と。その声は、お前の耳にも届いていたはずだ。お前は友人たちと、すぐそばの廊下で談笑していたのだから」
「だが、お前は、その声に気づかないふりをした。友人との、くだらないお喋りを優先した。そして、何も言わずに、その場を立ち去った。俺は、その後、最終下校時刻を過ぎるまで、あの、暗く冷たい個室の中で、一人、膝を抱えていた」

「……違う……」
 恵子は首を振った。
「私は気づかなかった……。本当に……」

「嘘をつくな」
 悪霊の声が、鋭い響きを帯びた。
「お前は気づいていた。そして見殺しにしたのだ。面倒なことに関わり合いたくない、という、お前の、その、ちっぽけな自己保身のために。お前のその沈黙は、暴力と同義だ。お前のその無関心は、俺の心をゆっくりと窒息させた」

 一郎は、ノートを、ぱたん、と閉じた。
「お前は、俺の助けを求める光を、その手で閉ざした。だから罰を与える」
「お前が、最も愛する者たちの、その瞳から、全ての光を奪い去ってやろう」

 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
 部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
 しかし、恵子の心には、絶対的な絶望だけが残されていた。

 その時だった。
 子供部屋の方から、二つの甲高い絶叫が、同時に響き渡った。
「ママ!目が見えない!」
「お母さん!真っ暗だよ!何も、見えないよぉ!」

 恵子と隆宏が、リビングを飛び出し、子供部屋のドアを開ける。
 そこには、ベッドの上で、自分の目を両手で覆い、泣き叫ぶ、翔太と美咲の姿があった。
 部屋の明かりは、ついている。
 しかし、二人の瞳には、その光は、もう、届いていなかった。
 その目は大きく見開かれているのに、まるで、ガラス玉のように、何の光も映してはいなかったのだ。

 失明。
 彼女の都合の良い思い込みは、打ち砕かれた。いくら遠くに逃げようとも、この呪いからは逃れられない。髪の次に奪われたのは、子供たちの永遠の光だった。

「ああ……あああああああああああああ!」
 恵子の狂ったような絶叫が、新築の冷たいマンションに虚しく響き渡った。

 その魂の絶叫は、見えざる供物となって夜空を駆け、遠く離れた忌澤村《いみさわむら》の祠へと捧げられた。闇の中で、桐の箱が、満足げに、ひときわ強い光を放った。
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