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第29話 不条理の天秤
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伊東健太は祈っていた。
工房の片隅に、彼が昨日ホームセンターで買ってきたばかりの、粗末な神棚が祀られている。そこに置かれているのは、神社の札でも、仏像でもない。ただ、一枚の真っ白な和紙だけ。彼は、もはや、特定の神仏を信じてはいなかった。ただ、この世の理を超えた、何か、大いなる存在に、祈ることしかできなかったのだ。
「……どうか、お助けください……。これ以上、私たち家族に災いを為さぬよう、あの者を、お鎮めください……」
柏手を打ち、深々と頭を下げる。だが、その心は祈りとは程遠い、黒い感情で満たされつつあった。
偽りの霊媒師が目の前で焼き殺されてから、数週間。伊東と渡辺は連絡を取り合うこともなく、ただ、それぞれの檻の中で、見えざる死刑執行人の足音に怯え続ける日々を送っていた。
伊東は、毎日、息子の雄太の部屋を訪れる。しかし、そこに、かつての息子の姿はなかった。両手を失った雄太は、生きる気力そのものを失い、ただベッドの上で、天井の染みを数えるだけの抜け殻になっていた。その姿を見るたびに、伊東の心は罪悪感で引き裂かれそうになり、そして、同時に、どす黒い怒りが腹の底から湧き上がってくるのを感じていた。
(なぜ、俺たちが、こんな目に……)
神棚に向き直り、彼は心の中で叫んだ。
(そうだ、俺は悪いことをしたのかもしれない。だが、それは、三十数年も前の、ほんの些細な子供の悪ふざけじゃないか!その程度のことで、息子の未来が、人生が、全て奪われていいのか!こんな不条理があってたまるか!)
それは、恐怖を乗り越えた先にある、開き直りにも似た怒りだった。
この呪いは不当だ。罰が、罪に対して重すぎる。その不条理の天秤が、彼の心をじわじわと蝕んでいた。
その、彼の怒りが頂点に達した、その瞬間だった。
工房の空気が一変した。
木の香りが消え失せ、代わりに、あの、墓場のような黴臭く、湿った冷気が、彼の肌を刺した。壁に掛けてあった工具がカタカタと共鳴するように震え始める。
伊東は振り返った。
彼の背後、工房の入り口に音もなく、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現していた。
以前よりも、さらに、その輪郭は、はっきりとしている。まるで、この世の闇を全て吸い込んで凝縮したかのような、圧倒的な存在感。
だが、今の伊東の心にあったのは恐怖だけではなかった。
「……また、来たのか、鈴木」
彼は震える声を怒りで押し殺し、悪霊を睨みつけた。
「まだ足りないのか。俺の息子をあんな姿にしておいて、まだ俺たちから、何を奪うつもりだ!」
悪霊は答えなかった。
ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。
そして、ページをめくる、乾いた音が、伊東の頭の中に、直接、響き渡った。
一郎の平坦な声が、新たな罪状を読み上げ始めた。
「昭和六十三年五月十二日。木曜日。天気、快晴。体育祭の予行演習の日。お前は、木村や佐藤たちと、俺を取り囲んだ。そして、はやし立てたな。『貧乏神!』『暗黒魔人!』と。お前たちが勝手につけた、あだ名で」
伊東の脳裏に、忘却の彼方にあったはずの光景が蘇る。
そうだ。そんなことも、あった。クラスの悪ふざけの延長で、自分も一緒になって、彼をからかった。皆が笑っていた。ただの悪乗りだったはずだ。
「俺が、やめろ、と、俯きながら呟くと、お前は俺の肩を突き飛ばし、こう言った。『何だよ、その目は!気に入らねえのか!』と。そして、俺の胸ぐらを掴み、皆の前で引きずり回した。教師も、他の生徒も、ただ遠巻きに、それを見て笑っていた。あの日の太陽は、やけに眩しかった」
「……もう、やめろ!」
伊東は絶叫した。その声は怒りに震えていた。
「そうだ、やったかもしれねえ!だが、そんなこと、ただの、ガキの悪ふざけじゃねえか!お前だって、やり返せばよかったんだ!それを、三十年も、四十年近くも、根に持って、こんな陰湿な真似をしやがって!お前の方が、よっぽど異常だ!」
「ちっぽけなこと、か」
悪霊は初めて、ノートから顔を上げた。その感情のない瞳が伊東を射抜いた。
「お前にとって、それは、ちっぽけな、忘れてしまうような出来事だったのだろう。だが、その、お前たちの、ちっぽけな悪意の積み重ねが、俺の三十数年を地獄に変え、そして、俺を殺したのだ」
その言葉の絶対的な重みに、伊東の怒りは、まるで砂の城のように、ガラガラと崩れ落ちていった。
そうだ。この男は死んだんだ。自分たちの、あの、ちっぽけな悪意のせいで。
その、紛れもない事実に、伊東は、ようやく気づいた。そして、その瞬間、彼の心を支配していた怒りは、純粋な、そして、より深い、恐怖へと変質した。
「……わ、悪かった……」
伊東は、その場に、へなへなと崩れ落ちた。彼は神棚ではなく、目の前の悪霊に向かって土下座をした。
「俺が悪かった!本当に、すまないと思っている!だから、どうか許してくれ!いくらでも謝る!だから、息子だけは……これ以上、苦しめないでくれ……!」
彼は床に額をこすりつけ、見苦しく命乞いを始めた。
悪霊は、その姿を静かに見下ろしていた。
やがて、その平坦な声が、再び、響き渡った。
「……俺も、お前に、同じことを言ったはずだがな」
その声に、伊東は、はっと顔を上げた。
「……あの、鉛筆を折られる前に。俺は、お前に、『やめろ』と、言った。だが、お前は聞き入れなかった」
悪霊は、ノートを、ぱたん、と閉じた。
それは、断頭台の刃が落ちる音だった。
「お前の謝罪は、もう届かない。お前の足は、もう、どこへも、行くことはない。お前は、その足で、二度と、息子のための、温かい木材を、探しに行くことはないのだ」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
工房には元の木の匂いと静寂が戻ってきた。
伊東は、しばらくの間、土下座をしたまま、動くことができなかった。
やがて、彼は自分の体に起きた異変に気づいた。
足が、動かない。
まるで、コンクリートで固められたかのように、感覚が、ない。
恐る恐る、自分の足に目をやると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
彼の両足が、まるで腐った木の根のように、どす黒く、変色し始めている。
「ああ……あああああああああああああ!」
伊東の絶望の絶叫が工房に木霊した。
その魂の絶叫は、見えざる供物となって夜空を駆け、遠く離れた忌澤村《いみさわむら》の祠へと捧げられた。闇の中で、桐の箱が、満足げに、ひときわ強い光を放った。
工房の片隅に、彼が昨日ホームセンターで買ってきたばかりの、粗末な神棚が祀られている。そこに置かれているのは、神社の札でも、仏像でもない。ただ、一枚の真っ白な和紙だけ。彼は、もはや、特定の神仏を信じてはいなかった。ただ、この世の理を超えた、何か、大いなる存在に、祈ることしかできなかったのだ。
「……どうか、お助けください……。これ以上、私たち家族に災いを為さぬよう、あの者を、お鎮めください……」
柏手を打ち、深々と頭を下げる。だが、その心は祈りとは程遠い、黒い感情で満たされつつあった。
偽りの霊媒師が目の前で焼き殺されてから、数週間。伊東と渡辺は連絡を取り合うこともなく、ただ、それぞれの檻の中で、見えざる死刑執行人の足音に怯え続ける日々を送っていた。
伊東は、毎日、息子の雄太の部屋を訪れる。しかし、そこに、かつての息子の姿はなかった。両手を失った雄太は、生きる気力そのものを失い、ただベッドの上で、天井の染みを数えるだけの抜け殻になっていた。その姿を見るたびに、伊東の心は罪悪感で引き裂かれそうになり、そして、同時に、どす黒い怒りが腹の底から湧き上がってくるのを感じていた。
(なぜ、俺たちが、こんな目に……)
神棚に向き直り、彼は心の中で叫んだ。
(そうだ、俺は悪いことをしたのかもしれない。だが、それは、三十数年も前の、ほんの些細な子供の悪ふざけじゃないか!その程度のことで、息子の未来が、人生が、全て奪われていいのか!こんな不条理があってたまるか!)
それは、恐怖を乗り越えた先にある、開き直りにも似た怒りだった。
この呪いは不当だ。罰が、罪に対して重すぎる。その不条理の天秤が、彼の心をじわじわと蝕んでいた。
その、彼の怒りが頂点に達した、その瞬間だった。
工房の空気が一変した。
木の香りが消え失せ、代わりに、あの、墓場のような黴臭く、湿った冷気が、彼の肌を刺した。壁に掛けてあった工具がカタカタと共鳴するように震え始める。
伊東は振り返った。
彼の背後、工房の入り口に音もなく、鈴木一郎の悪霊が、その姿を現していた。
以前よりも、さらに、その輪郭は、はっきりとしている。まるで、この世の闇を全て吸い込んで凝縮したかのような、圧倒的な存在感。
だが、今の伊東の心にあったのは恐怖だけではなかった。
「……また、来たのか、鈴木」
彼は震える声を怒りで押し殺し、悪霊を睨みつけた。
「まだ足りないのか。俺の息子をあんな姿にしておいて、まだ俺たちから、何を奪うつもりだ!」
悪霊は答えなかった。
ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。
そして、ページをめくる、乾いた音が、伊東の頭の中に、直接、響き渡った。
一郎の平坦な声が、新たな罪状を読み上げ始めた。
「昭和六十三年五月十二日。木曜日。天気、快晴。体育祭の予行演習の日。お前は、木村や佐藤たちと、俺を取り囲んだ。そして、はやし立てたな。『貧乏神!』『暗黒魔人!』と。お前たちが勝手につけた、あだ名で」
伊東の脳裏に、忘却の彼方にあったはずの光景が蘇る。
そうだ。そんなことも、あった。クラスの悪ふざけの延長で、自分も一緒になって、彼をからかった。皆が笑っていた。ただの悪乗りだったはずだ。
「俺が、やめろ、と、俯きながら呟くと、お前は俺の肩を突き飛ばし、こう言った。『何だよ、その目は!気に入らねえのか!』と。そして、俺の胸ぐらを掴み、皆の前で引きずり回した。教師も、他の生徒も、ただ遠巻きに、それを見て笑っていた。あの日の太陽は、やけに眩しかった」
「……もう、やめろ!」
伊東は絶叫した。その声は怒りに震えていた。
「そうだ、やったかもしれねえ!だが、そんなこと、ただの、ガキの悪ふざけじゃねえか!お前だって、やり返せばよかったんだ!それを、三十年も、四十年近くも、根に持って、こんな陰湿な真似をしやがって!お前の方が、よっぽど異常だ!」
「ちっぽけなこと、か」
悪霊は初めて、ノートから顔を上げた。その感情のない瞳が伊東を射抜いた。
「お前にとって、それは、ちっぽけな、忘れてしまうような出来事だったのだろう。だが、その、お前たちの、ちっぽけな悪意の積み重ねが、俺の三十数年を地獄に変え、そして、俺を殺したのだ」
その言葉の絶対的な重みに、伊東の怒りは、まるで砂の城のように、ガラガラと崩れ落ちていった。
そうだ。この男は死んだんだ。自分たちの、あの、ちっぽけな悪意のせいで。
その、紛れもない事実に、伊東は、ようやく気づいた。そして、その瞬間、彼の心を支配していた怒りは、純粋な、そして、より深い、恐怖へと変質した。
「……わ、悪かった……」
伊東は、その場に、へなへなと崩れ落ちた。彼は神棚ではなく、目の前の悪霊に向かって土下座をした。
「俺が悪かった!本当に、すまないと思っている!だから、どうか許してくれ!いくらでも謝る!だから、息子だけは……これ以上、苦しめないでくれ……!」
彼は床に額をこすりつけ、見苦しく命乞いを始めた。
悪霊は、その姿を静かに見下ろしていた。
やがて、その平坦な声が、再び、響き渡った。
「……俺も、お前に、同じことを言ったはずだがな」
その声に、伊東は、はっと顔を上げた。
「……あの、鉛筆を折られる前に。俺は、お前に、『やめろ』と、言った。だが、お前は聞き入れなかった」
悪霊は、ノートを、ぱたん、と閉じた。
それは、断頭台の刃が落ちる音だった。
「お前の謝罪は、もう届かない。お前の足は、もう、どこへも、行くことはない。お前は、その足で、二度と、息子のための、温かい木材を、探しに行くことはないのだ」
そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
工房には元の木の匂いと静寂が戻ってきた。
伊東は、しばらくの間、土下座をしたまま、動くことができなかった。
やがて、彼は自分の体に起きた異変に気づいた。
足が、動かない。
まるで、コンクリートで固められたかのように、感覚が、ない。
恐る恐る、自分の足に目をやると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
彼の両足が、まるで腐った木の根のように、どす黒く、変色し始めている。
「ああ……あああああああああああああ!」
伊東の絶望の絶叫が工房に木霊した。
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