怨嗟の記録

かわさきはっく

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第32話 届かぬ声

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 斎藤正志の世界から、静寂は消えた。
 あの日、夕暮れの校長室で、死んだはずの教え子と対峙してから、彼の耳には常にあの声が響き続けていた。
『昭和六十二年九月十五日。火曜日。天気、曇りのち雨。五時間目、体育……』
 それは、三十数年前の罪状を淡々と克明に読み上げる、鈴木一郎の声。食事をしていても、会議に出ていても、妻と話していても、その声は決して止むことがない。まるで、頭蓋骨の内側に、呪いのラジオが埋め込まれてしまったかのようだった。

 彼は眠れなくなった。目を閉じれば、声はさらに鮮明になり、瞼の裏に、あの教室の光景がありありと映し出される。心療内科で処方された、最も強い睡眠薬を、規定量の倍以上飲まなければ、ほんの数時間、意識を失うことすらできない。

 完璧だったはずの教師人生は、音を立てて崩れ始めていた。授業中に、突然、何かに怯えるように叫び声を上げたり、会議の内容が全く頭に入ってこなかったり。周囲の教師たちは、彼を、定年を前に精神のバランスを崩してしまった、哀れな老人として、遠巻きに見るようになった。彼のプライドはズタズタに引き裂かれていた。

 その夜も、斎藤は自室のベッドの上で膝を抱えていた。
 睡眠薬を飲んだが、一向に眠気は訪れない。耳鳴りのように頭の中に響き続ける、あの声。
(いつまで続くんだ……。俺は、もう、十分に苦しんだじゃないか……)
 彼が、そう、心の中で悲鳴を上げた、その瞬間だった。

 部屋の空気が一変した。
 真冬の夜よりも、さらに冷たい、絶対零度の空気が彼の肌を刺した。そして、ベッドの足元、何もないはずの空間の闇が、ゆっくりと人の形を成していく。
 鈴木一郎の悪霊だった。

「……また来たのか……」
 斎藤の声は恐怖を通り越し、もはや乾いた諦念に満ちていた。
 悪霊は答えなかった。ただ、その感情のない瞳で、斎藤を、じっと見つめている。
 そして、その声が頭の中に直接響き渡った。

『俺の訴えは聞こえたか』

 それは質問ではなかった。
 三十数年の時を経て、突きつけられた、断罪の宣告だった。
「……聞こえた、聞こえたとも!」
 斎藤は半ば、狂乱したように叫んだ。
「毎日、毎晩、お前の声が頭から離れない!もう、分かった!俺が悪かった!だから、もう、やめてくれ!」

『何が、悪かったんだ』
 悪霊は静かに問い返す。

「それは……その……」
 斎藤は言葉に詰まった。彼は心の底から、自分が何をしたのか理解してはいなかった。彼にとって、それは、今もなお、「些細なこと」でしかなかったのだ。
「……いいか、鈴木くん。君の気持ちも分かる。だがな、教師というのは、毎日、何十人、何百人という生徒を見ているんだ。君が悩んでいたことくらいで、いちいち事を荒立てていたら、クラスは、どうなる?学校は、どうなる?教師など続けられなかったんだよ!」
 それは謝罪ではなく、見苦しい自己保身のための言い訳だった。

 その言葉を聞いた、悪霊の能面のような顔が、僅かに歪んだ。
 それは、軽蔑と、そして、底なしの哀れみが入り混じったような表情だった。

『そうか。お前にとっては、今もなお、その程度のことか』
『あの時、あの職員室で、お前は、俺を救うことのできた、唯一の大人だった。俺にとって、最後の希望だった。その希望を、お前は、自らの保身のために踏み潰した。お前のその無関心は、俺に、この世界には助けてくれる大人など一人もいないのだという、絶対的な絶望を教えたのだ』

「……違う!私は、そんなつもりでは……!」

『もう、いい』
 悪霊は斎藤の言葉を遮った。
『お前には、もう、俺の声を聞く資格はない。お前の頭に響く、罪状の朗読は用済みだ』

 その言葉と共に、斎藤の頭の中から、すう、と、あの声が消え去った。
 数ヶ月ぶりに訪れた、完全な静寂。
 斎藤は、一瞬だけ安堵した。終わった。ようやく、この地獄から解放されたのだ、と。

 だが、それは、あまりに甘い幻想だった。
 次の瞬間、彼の全身を、今まで経験したことのない、激烈な痛みが貫いた。

「ぐ……ああああああああああああああ!」
 斎藤はベッドの上を転げ回った。
 それは、まるで、全身の皮膚という皮膚、肉という肉、骨という骨を、内側から、無数の焼けた針で、同時に突き刺されるような、耐え難い痛みだった。
 しかし、彼の体には何の傷も痕跡もない。

『聞こえぬ耳に、声は届かない。ならば、その身に、直接、刻み込んでやろう。お前が見殺しにした、俺の痛みを。お前が俺の訴えを聞き届けなかったように。お前の、その痛みの訴えもまた、誰にも届くことはない。その永遠の苦しみの中で、自らの罪の重さを思い知るがいい』

 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
 部屋には、斎藤の獣のような絶叫だけが、響き渡った。

 翌日、斎藤は憔悴しきった顔で、大学病院の総合受付に立っていた。昨夜から続く、全身を焼くような、しかし、どこにも傷一つない、不可解な痛みに、彼は、一睡もできていなかった。
「……助けてください、先生。体が、体が焼けるように痛いんです!」
 診察室で彼は、初老の医師に必死に訴えた。

 血液検査、レントゲン、MRI。考えうる全ての精密検査が行われた。しかし、結果は、全て「異常なし」。斎藤の体は年齢相応の健康な肉体そのものだった。
 数時間後、医師は困惑したような、それでいて、どこか厄介なものを見るような目で、斎藤に最終的な診断を告げた。

「斎藤さん。検査の結果ですが、あなたの体には何の問題も見当たりませんでした。これほどの痛みを訴える、器質的な原因は、どこにもないのです」
 医師はカルテから顔を上げた。
「あなたの、その訴えは、誰かに信じてもらうのは難しいかもしれません。これは心因性のもの……つまり、ストレスや精神的な問題から来ている痛みだと思われます。下手をすれば、あなたは、ただの虚言癖の狂人だと思われるだけでしょう」

 その言葉は医師による、冷静な医学的見解だった。
 しかし、斎藤の耳には、それは、鈴木一郎による、呪いの宣告の、最終確認のように響き渡った。
 自分の訴えは誰にも届かない。信じてもらえない。
 彼が、かつて、あの少年から、耳を塞ぎ、そして、与えた絶望。
 その絶望が、今、全く同じ形で、彼自身に返ってきたのだ。

 斎藤は診察室の椅子の上で、ただ、ガタガタと震えることしかできなかった。
 痛みは消えない。そして、この痛みは誰にも理解されることはない。
 彼の孤独な地獄が、静かに始まった。
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