怨嗟の記録

かわさきはっく

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第33話 失われた徴(しるし)

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 小林信彦は息子の大輝とキャッチボールをしている時が、一番幸せだった。
「父さん、いくぞ!本気で投げるからな!」
 中学一年生になった大輝が、大人びた口調で叫ぶ。その言葉とは裏腹に、まだあどけなさの残るフォームから放たれる白球。小林は、それを、パン、と乾いた音を立てて、ミットに収めた。
「おう、いい球だ!次は父さんの本気、見せてやろうか!」
 公園に響き渡る、二人の笑い声。それは、どこにでもある、ありふれた、しかし、何物にも代えがたい、幸福な父子の光景だった。

 小林は自分が善良な人間だと信じていた。
 小さな印刷会社で真面目に働き、若くして課長の地位を得た。妻とは今も仲が良い。そして、何よりも、息子の大輝を心から愛していた。三十数年前、自分がどんな子供だったかなど、彼の記憶には、ほとんど残っていなかった。思春期特有の馬鹿な悪ふざけ。クラスの強い奴らに合わせて、誰かをからかったりしたことも、あったかもしれない。だが、それは、成長の過程で誰もが経験する些細な過ち。今の善良な自分とは何の関係もないはずだった。

 鈴木一郎という、暗い顔をした生徒のことも、もちろん覚えてはいなかった。

 その日の夜、小林は、一人、リビングで晩酌をしていた。妻と大輝は先に寝室へと引き上げている。テレビのバラエティ番組の、わざとらしい笑い声を聞きながら、ビールを飲む。一日の疲れが、ゆっくりと溶けていく。
 ふと、彼は奇妙な感覚に襲われた。
 誰もいないはずなのに、誰かに、じっと見られているような。それも、下半身を、値踏みするような、粘つく、冷たい視線。

(……気のせいか。飲みすぎたかな)
 彼は首を振り、その不快な感覚を追い払おうとした。
 しかし、その感覚は消えなかった。むしろ、どんどん強くなっていく。
 その時だった。
 パチッ、と音を立てて、テレビが消えた。同時に部屋の照明が不規則に明滅を始める。
 そして、彼の目の前、ソファの向かいの空間に、ゆらり、と、人の形をした影が現れた。

「……ひっ……」
 小林の喉から、カエルの潰れたような声が漏れた。
 そこに立っていたのは、痩せた背の高い男の悪霊だった。その感情のない瞳が、じっと、小林の下腹部を見つめている。
「お、お前は……誰だ……」
 小林は腰を抜かし、ソファから、ずり落ちそうになった。

 悪霊は答えなかった。
 ただ、その右手に、あの黒いノートを、音もなく現出させる。
 そして、ページをめくる、乾いた音が、小林の頭の中に、直接、響き渡った。
 一郎の平坦な声が、忘却の彼方にあった、おぞましい罪を朗読し始めた。

「昭和六十三年七月一日。金曜日。天気、曇り。昼休み。教室の、一番後ろの隅。お前は木村と佐藤に押さえつけられて、抵抗できないでいる俺を見ていたな」

 小林の脳裏に、錆びついた記憶の扉が、無理やり、こじ開けられていく。
 そうだ。そんなことが、あった。木村たちが、いつものように鈴木をいじめていた。自分は、ただ、それを面白そうに眺めていただけだ。

「木村が言った。『こいつ、女物のパンツでも、履いてんじゃねえの?』と。その言葉に、お前は卑しい笑みを浮かべて、こう言ったな。『じゃあ、確かめてやろうぜ』と」

「や……やめろ……」
 小林は頭を振った。思い出したくなかった。自分の、そんな醜い過去を。

 だが、悪霊の朗読は止まらない。
「お前は俺の抵抗を、せせら笑いながら、俺のズボンと下着を無理やり、引きずり下ろした。そして、クラス中の好奇と嘲笑の視線の前に、俺の無防備な体を晒し者にした。女子生徒たちの甲高い笑い声。男子生徒たちの下品な囃し立て。その全てがナイフとなって、俺の心を切り刻んだ」
「お前は、その中心で、まるで王様のような得意げな顔をして、笑っていたな。俺が、屈辱に涙を流しているのを見下ろしながら」

「……違う……!俺は、ただ調子に乗っていただけで……!」
 小林は見苦しい言い訳を口にした。それは謝罪ではなかった。ただの自己弁護だった。

 悪霊は、ノートを、ぱたん、と閉じた。
「お前は俺から、男としての、人間としての最低限の尊厳を奪い去った。それは、ただの悪ふざけではない。魂の殺人だ」

 悪霊は、一歩、小林に近づいた。その足元から、黒い靄のようなものが滲み出している。
「だから罰を与える。お前が、俺から奪ったものを、お前からも奪い去ってやろう」
「お前だけではない。お前の血を引く、お前が最も愛する、その息子からもな。お前たちの、その、男としての徴(しるし)を、根こそぎ腐らせてやる」

 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
 部屋には元の温度と静寂が戻ってきた。
 小林は、しばらくの間、夢だったのかと自分に言い聞かせようとした。だが、床にこぼれたビールの匂いと、心臓の激しい動悸が、それが、紛れもない現実だったことを彼に告げていた。

 翌朝。
 食卓に、大輝の今まで聞いたこともないような、絶叫が響き渡った。
「父さん!助けて!下っ腹が、痛い!焼けるように痛いんだ!」
 妻が悲鳴を上げて、息子に駆け寄る。小林も、慌ててリビングに飛び込んだ。
 大輝はパジャマのズボンを押さえ、床を転げ回っていた。その顔は苦痛に歪み、真っ青になっている。

「どうした、大輝!しっかりしろ!」
 小林が、息子の体に触れようとした、その瞬間。彼自身の体にも、同じ、灼熱の痛みが、下腹部を貫いた。
「ぐ……うああああああ!」
 彼は、その場にうずくまった。まるで、内側から焼印を押し付けられるような、耐え難い痛み。

 救急車を呼ぶ騒ぎになった。
 病院の診察室で、小林と大輝は並んでベッドに横たわっていた。医師は困惑した表情で、検査の結果を告げた。
「……原因が、分かりません。お二人の体には、何の炎症も、外傷も見当たらない。ですが……」
 医師は言葉を濁した。
「……ですが、お二人の、その……男性器の細胞組織が、急速に壊死を始めています。まるで、血が通わなくなったかのように……」

 その言葉は死刑宣告だった。
 痛みは、数日間、続いた。そして、痛みが引いた時、そこには、さらなる地獄が待っていた。
 黒く、変色し、ミイラのように萎《しな》びてしまった、かつて、男の徴《しるし》だったもの。それは、ある朝、何の感覚もなく、ぽろり、と、崩れ落ちた。

 小林も、大輝も。
 父と子は、二人、同時に、男ではなくなった。

 妻の絶叫。
 そして鏡に映る自分の変わり果てた姿を見て、狂ったように泣き叫ぶ息子の声。
 小林は病室のベッドの上で、ただ、虚空を見つめていた。
 幸福な家庭。愛する息子。善良な自分。その全てが、一夜にして、崩れ去った。
 三十数年前の教室の隅で起きた、ほんの数分間の悪ふざけ。
 その忘却の代償は、あまりに、あまりに、大きすぎた。
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