怨嗟の記録

かわさきはっく

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第38話 嘘つきの沈黙

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 高橋雄一は獣になっていた。
 あの日、鈴木一郎の亡霊によって、その貌《かたち》と、人間社会で生きるための匂いを奪われてから、彼は、もはや、人として扱われることはなかった。どす黒く、獣の皮のように硬質化した皮膚。体中から放たれる腐肉の悪臭。彼は、ただ、そこにいるだけで、人々から汚物のように避けられ、石を投げつけられることさえあった。

 しかし、彼の救いがたい魂は、まだ折れてはいなかった。
(……まだだ……。まだ終わらん……)
 彼は公園の片隅や、橋の下を転々としながら、震える手でスマートフォンの画面をタップし続けていた。
(……顔が見えなければ、声が聞こえなければ、まだ騙せる……。ネットの世界なら、俺は、まだ、神に、なれるはずだ……)

 彼は匿名のSNSアカウントを使い、新たな詐欺を企てていた。病気の子供を持つ母親を装い、同情を引いて寄付金を募る。あるいは、将来有望な投資家を演じ、オンラインサロンへと、情報弱者を誘い込む。その、画面の向こう側で、彼は、まだ、かつてのカリスマ詐欺師・高橋雄一でいられた。醜い獣の姿を隠し、指先だけで嘘を紡ぎ、人々を操ることができた。それが、彼の最後のプライドであり、生きるための、唯一の術だった。

 その夜も、彼は橋の下の冷たいコンクリートの上で、盗んだ酒を煽りながら、スマートフォンの画面に、新たな嘘を打ち込んでいた。
『必ず儲かります。私を信じてください』
 その文章を打ち終えた、その瞬間だった。

 周囲の空気が一変した。
 橋の上を通り過ぎる車の走行音が、すう、と消え失せ、代わりに耳鳴りのような、絶対的な静寂が訪れた。そして、川面を渡る風が、まるで氷の刃のように彼の肌を刺した。

(……来たか)
 高橋は顔を上げた。
 彼の目の前、川の対岸の闇が、ゆっくりと、人の形を成していく。
 鈴木一郎の悪霊だった。

「……また来たのかよ、亡霊が」
 高橋の声には、もはや恐怖の色はなかった。あったのは、全てを失った男の乾いた憎悪だけだった。
「てめえのせいで、俺の人生は、めちゃくちゃだ。まだ、何の用だ」

 悪霊は答えなかった。
 ただ、その、感情のない瞳で、高橋のスマートフォンを握りしめる、その手元を、じっと、見つめている。
 そして、その声が、高橋の頭の中に、直接、響き渡った。

『まだ、その指で、嘘を紡ぐか』

 その声は問いかけではなかった。それは、最後の判決だった。
 悪霊は、ノートを取り出すことすらなかった。裁きは、すでに、下されているのだ。

『ならば、その罪深き道具もまた、腐らせてやる』

 そう言い残すと、一郎の姿は闇に溶けるように、かき消えた。
 後に残されたのは、川のせせらぎと高橋の荒い呼吸だけだった。
「……ふん、脅かしやがって……」
 彼は悪態をつき、再び、スマートフォンの画面に視線を落とした。

 その時だった。
 右手の人差し指に、奇妙な違和感を覚えた。
 見てみると、指先が僅かに、黒く変色している。そして、爪が、まるで脆くなった貝殻のように、ぽろり、と、剥がれ落ちた。

「……な……なんだ、これは……?」
 彼が、そう呟いた瞬間、指先から、激烈な痛みが腕を駆け上がった。
「ぐ……ぎゃああああああああ!」
 彼はスマートフォンを取り落とし、自分の指を押さえた。指が内側から腐っていく。まるで、強力な酸に、じわじわと溶かされていくような、耐え難い痛み。

 それは、始まりに過ぎなかった。
 翌日には、人差し指が根元から、ぽとりと落ちた。
 その次の日には、中指が。また次の日には、薬指が。
 彼の嘘を紡ぎ続けた、十本の指は、一本、また一本と、理由もなく、腐り、崩れ落ちていった。

 彼は、もはや、スマートフォンを操作することすら、できなくなった。
 物乞いのために、空き缶を持つことすら、できなくなった。
 生きるための最後の術を、完全に奪われたのだ。

 しかし、彼の絶望は、まだ終わらない。
 指を全て失ってから、数日後。
 今度は、彼の舌に、異変が起きた。
 まるで、鉛でも舐めているかのように、感覚が麻痺していく。そして、鏡で自分の口の中を見ると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
 彼の甘い言葉で、人々を騙し続けた、その舌が、先端から、どす黒く変色し、腐り始めていたのだ。

「あ……う……」
 彼は、もはや、言葉を発することもできなくなった。
 食事を摂ることも、水を飲むことすら、ままならない。

 彼は完全に無力になった。
 ただ、醜い獣の姿で、腐りゆく舌の痛みと、飢えと、渇きに、耐えながら、死を待つだけの肉塊となった。

 最後の夜。
 彼は橋の下で、一人、横たわっていた。
 意識が朦朧とする中、彼の脳裏に、三十数年前、自分が鈴木一郎に言い放った言葉が蘇ってきた。
『鈴木さんのような誠実な方こそ、豊かになるべきなんです』
 あの時、自分は、どんな顔で笑っていたのだろうか。

「……ごふっ……!」
 彼の口から大量の黒い血が溢れ出した。腐りきった内臓が、最後の悲鳴を上げたのだ。
 彼は、数回、痙攣すると、やがて、ぴくりとも動かなくなった。
 その、誰にも看取られることのない孤独な最期は、彼が今まで、多くの人々に与えてきた絶望と全く同じものだった。

 その魂の絶叫は、見えざる供物となって夜空を駆け、遠く離れた忌澤村の祠へと捧げられた。闇の中で、桐の箱が、満足げに、ひときわ強い光を放った。
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