怨嗟の記録

かわさきはっく

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第39話 怨嗟の流布

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 蓮城桔梗は古美術店の奥、清浄な結界を張った茶室で、静かに、桐の箱を見つめていた。
 高橋雄一への最後の復讐。その一部始終を、彼女は、遠く離れたこの場所から、霊視によって見届けていた。飢えと孤独の中、絶望を感じながら死を迎える、あの男の末路。それは、鬼神と化した鈴木一郎の、記録における最後の裁きだった。

 全ての復讐は終わった。
 しかし、桔梗は知っていた。呪いが、終わったわけではないことを。
 むしろ、これから始まるのだと。

 個別のターゲットへの復讐を終えた鬼神の怨念は、その矛先を、より広く、より曖昧なものへと向けていた。それは、もはや、特定の個人への憎悪ではない。自分を、ここまで追い込んだ、この世の全ての「不条理」へ向けた呪詛に変質していた。
 ノートを物理的に破壊しても、もはや意味はない。一度、解き放たれ、多くの恐怖と絶望を喰らった鬼神は、ノートという拠り所がなくとも、この世に存在し続けるだろう。そして、新たな、寄る辺なき魂を喰らい続けるに違いない。

(……ならば……)
 桔梗は覚悟を決めた。
 鬼神を滅するのではない。鎮めるのだ。
 その、あまりに深く、あまりに孤独な怨念を、この世に、「認めさせる」ことによって。

 彼女は桐の箱の中から、数冊のノートを慎重に選び出した。木村雄介への、佐藤和也への、そして、その他の者たちへの、復讐の記録。その最も生々しく、常軌を逸した部分だけを。
 彼女は、それらを、最新のスキャナーで、一枚、一枚、丁寧にデータ化していった。

 数日後。
 都内にある、小さな出版社の編集部に、一人の男がいた。
 神林龍之介《かんばやしりゅうのすけ》。三十代半ばの、気鋭のノンフィクション作家だ。彼は社会の闇に埋もれた、声なき人々の声を拾い上げる作風で、近年、注目を集め始めていた。

 その日、彼の元に、差出人不明の、一通のメールが届いた。
 件名は、『ある殺人犯が遺した、驚くべき手記』。
 本文には何も書かれていない。ただ、一つの、大容量の圧縮ファイルが添付されているだけだった。

(……また、よくある、売り込みか)
 神林は、ため息をつきながら、そのファイルをダウンロードした。どうせ、どこかの自称作家が書いた、稚拙な小説の類だろう。
 しかし、ファイルを開いた瞬間、彼は、その考えが、甘かったことを思い知らされた。

 画面に表示されたのは、スキャンされた古い大学ノートの画像だった。
 そこに、硬質な、しかし、狂気を宿した文字で綴られていたのは、一人の人間の三十数年にわたる、復讐の記録。
『昭和六十二年九月十五日。火曜日。天気、曇りのち雨。五時間目、体育……』
 その、あまりに克明で執拗な記述に、神林は、最初は悪趣味な創作物だと思った。
 だが、読み進めるうちに、彼の背筋を冷たい汗が伝っていった。
 これは創作ではない。
 この文章には、人間の生身の魂が、血と涙と共に、塗り込められている。

 神林は、その日から、何かに取り憑かれたように、その「手記」の裏付け調査を開始した。
 彼は、まず、物語の最後に登場する、鈴木一郎と、木村雄介の、無理心中事件の記事を見つけ出した。日付も、状況も、手記の記述と完全に一致している。
 次に、彼は、手記に登場する、他の名前を、古い新聞記事や、ネットの情報を駆使して調べ始めた。

 佐藤和也。
 彼の娘が、数ヶ月前に自宅で自殺していたこと。そして、佐藤本人もまた、原因不明の奇病で施設に入っていることを突き止めた。
 伊東健太。
 彼の息子が、両手の指が全て壊死するという、奇怪な病にかかっていること。
 渡辺恵子。
 彼女の家族が、一夜にして、全員、髪の毛を失ったという、信じがたい噂。

 調べれば、調べるほど、手記に記された呪いとも思える「罰」が、恐ろしいほどの正確さで、現実と一致していく。
 神林は戦慄した。
 これは、ただの、ノンフィクションではない。これは、この、現代社会の水面下で、確かに起きた、超常的な事件の記録なのだ。

 彼は寝食を忘れ、その手記の書籍化に没頭した。
 そして、半年後。
 一冊の本が全国の書店の片隅に、ひっそりと並べられた。

 タイトルは、『怨嗟の記録』。

 当初、その本は、一部のオカルトマニアや、事件マニアの間で話題になるだけだった。
 しかし、その、あまりに、おぞましく、そして、リアルな内容が、インターネットの匿名掲示板や、SNSで、爆発的に拡散され始めたのだ。

『この本、ヤバすぎる。全部、実話らしい』
『佐藤和也の娘って、俺の、友達の、友達だった……。足が腐ったって、マジだったんだ……』
『これは呪いの本だ。読んだら呪われる』

 真偽を巡る論争。都市伝説的な恐怖。
 それらが一体となって、大きな渦となり、『怨嗟の記録』は社会現象と呼べるほどの、一大ブームを巻き起こした。
 テレビのワイドショーが特集を組み、雑誌が心霊スポットとして、忌澤村や〇〇中学校を取り上げる。

 鈴木一郎という、誰にも知られることのなかった、孤独な男の、三十数年分の、声なき絶叫。
 それは、今、日本中の人々の知るところとなった。
 彼の物語は、もはや、彼個人のものではなく、この世の不条理を語り継ぐ、「伝説」として、独り歩きを始めていた。

 桔梗は、その様を古美術店の奥で、静かに見つめていた。
 彼女の目的は達成された。
 鬼神の孤独な魂は、今、無数の人々の意識の中に受け止められたのだ。

 だが、それは、呪いの、終わりを、意味するのだろうか。
 それとも、新たな、始まりを、意味するのだろうか。
 その答えを、知る者は、まだ、誰もいなかった。
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