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第40話 新たな揺り籠
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『怨嗟の記録』は、単なる一冊の本ではなくなった。
それは、社会現象であり、現代に生まれた、最も生々しい怪談だった。鈴木一郎という、誰にも知られず死んでいった男の三十数年分の絶望は、活字となって日本中を駆け巡り、人々の心に消えることのない、冷たい染みとなって広がっていった。
その伝説の流布は、呪いの性質を、ゆっくりと、確実に変質させていった。
伊東健太は工房の椅子に座り、窓の外を眺めていた。彼の両足は、あの日以来、動くことはない。しかし、夜ごと彼を苛んでいた、あの能面のような悪霊は、もう、現れることはなかった。
渡辺恵子は鏡の前で、ウィッグをつけずに、自らの頭を静かに見つめていた。髪は、一本も生えてこない。子供たちも同じだ。だが、あの、全てを凍てつかせるような冷気と、頭の中に響き渡る罪状の朗読は、ぴたりと、止んでいた。
呪いは消え去ってはいない。
彼らの身に刻まれた罰は、その生涯をかけて背負い続けなければならない、消えることのない十字架だ。しかし、それ以上、進行することはなくなった。彼らの苦しみは、もはや、個人的なものではなく、あの、日本中を震撼させている『怨嗟の記録』という伝説を裏付ける、生きた証拠として、この世に固定されたのだ。
彼らは救われたのではない。ただ、執行猶予を与えられたに過ぎない。
その事実を蓮城桔梗だけが理解していた。
その頃、定年を間近に控えた刑事、本田宗一郎は、深夜の安酒場で、一人、焼酎を呷っていた。テレビのワイドショーが、例の『怨嗟の記録』について、したり顔の文化人たちを招いて特集を組んでいる。
「これは、現代社会が抱える、歪んだコミュニケーションの象徴ですよ」
「いじめという構造的な問題が、一人の人間を、ここまで追い詰めた……」
本田は、その薄っぺらい言葉の数々を、冷めた目で見つめていた。
(……何も、分かっていない)
彼は誰よりも、この事件の闇の深さを知っていた。鈴木一郎という男の常軌を逸した周到さ。そして彼の死後、まるでパズルのピースがはまるかのように、次々と起きた、元同級生たちの不可解な悲劇。それらは、人間の世界の法律では、到底、裁くことのできない領域の出来事だった。
彼は、あの日、公園で見た、鈴木一郎の最後の顔を思い出していた。
それは狂気でも、絶望でもなかった。ただ、三十数年分の計画を完璧に終えようとする、機械のような、冷たい満足感に満ちた、歪んだ笑み。
あの男は自分の死すらも、復讐の、一つの駒として、計算していたのだ。
本田は焼酎を一気に飲み干した。
胸の中に苦々しい、敗北感にも似た感情が広がっていく。自分は刑事として、一体、何を追いかけていたのだろうか。法では決して届かない、人の心の底なしの闇を前に、自分は、あまりに無力だった。
蓮城桔梗は再び、あの忌澤村へと続く、険しい山道を、一人、登っていた。
かつて、一歩足を踏み入れるだけで、魂が凍てつくようだった禍々しい気は、今は、薄れていた。そこにあったのは、ただ、深く、どこまでも深い静寂と、まるで、氷河期の氷のように、決して溶けることのない、哀しみの気配だけだった。
祠の前に、たどり着く。
扉は開かれたままだ。
桔梗が、その暗闇の中を覗き込む。
そこにいたのは、一人の男ではなかった。
鬼神と化した、鈴木一郎が、ただ静かに、そこに座っていた。その姿は以前のような、攻撃的な怨念を放ってはおらず、まるで悠久の時を、そこで過ごしてきた、古い神像のようだった。
彼の復讐は終わった。
しかし、彼の怨念は、その魂から解放されてはいなかった。
桔梗は悟った。
彼の魂が、三十数年の絶望から、本当に解放されるには、人々が、この伝説を語り継ぎ、彼の、あまりに深すぎる孤独に、寄り添う、さらに、悠久の時が必要なのだと。彼の絶望の深さは、一過性のブームで癒えるほど、浅いものではなかったのだ。
この祠は、もはや、呪いの震源地ではない。鎮まらぬ魂が、その身を休める、静寂の揺り籠となっていた。
桔梗は祠に、静かに、一礼した。
そして、彼女は決意した。
持ち帰った、あの黒いノートを、燃やすことを、やめた。
あれは、もはや、呪いの設計図ではない。この世界が、二度と同じ過ちを繰り返さないための、戒めそのものなのだ。
彼女は山を下り、自らの一族が、代々、管理してきた、禁断の書庫へと向かった。
そして、その何十冊もの『怨嗟の記録』の原本を、桐の箱ごと、最も清浄な結界が張られた、棚の奥深くへと、厳重に封印した。
それは、呪いを終わらせるためではない。
この世界に必要な、「警鐘」として、永劫に保存するためだった。
全てを終え、桔梗は古美術店へと戻る、夜の高速道路を、一人、車で走っていた。
ラジオからは、どこかの評論家が、『怨嗟の記録』の社会学的考察を、したり顔で語っているのが聞こえる。
(……これで、よかったのだろうか)
彼女は自問した。
その瞬間だった。
彼女の研ぎ澄まされた霊感が、何かを捉えた。
それは、遠い、どこか別の街で生まれた、新たな、しかし、よく似た絶望の、ほんの、かすかな産声だったのかもしれない。
学校の、教室の隅で、声を殺して、泣いている、誰か。
会社の、デスクの下で、屈辱に、拳を握りしめている、誰か。
家庭という、密室の中で、心を、殺されている、誰か。
新たな鬼神が生まれる土壌は、この世界のどこにでもある。
鈴木一郎の物語は、終わった。
だが、この世界から、不条理が、なくならない限り。
物語は、決して、終わらない。
― 完 ―
それは、社会現象であり、現代に生まれた、最も生々しい怪談だった。鈴木一郎という、誰にも知られず死んでいった男の三十数年分の絶望は、活字となって日本中を駆け巡り、人々の心に消えることのない、冷たい染みとなって広がっていった。
その伝説の流布は、呪いの性質を、ゆっくりと、確実に変質させていった。
伊東健太は工房の椅子に座り、窓の外を眺めていた。彼の両足は、あの日以来、動くことはない。しかし、夜ごと彼を苛んでいた、あの能面のような悪霊は、もう、現れることはなかった。
渡辺恵子は鏡の前で、ウィッグをつけずに、自らの頭を静かに見つめていた。髪は、一本も生えてこない。子供たちも同じだ。だが、あの、全てを凍てつかせるような冷気と、頭の中に響き渡る罪状の朗読は、ぴたりと、止んでいた。
呪いは消え去ってはいない。
彼らの身に刻まれた罰は、その生涯をかけて背負い続けなければならない、消えることのない十字架だ。しかし、それ以上、進行することはなくなった。彼らの苦しみは、もはや、個人的なものではなく、あの、日本中を震撼させている『怨嗟の記録』という伝説を裏付ける、生きた証拠として、この世に固定されたのだ。
彼らは救われたのではない。ただ、執行猶予を与えられたに過ぎない。
その事実を蓮城桔梗だけが理解していた。
その頃、定年を間近に控えた刑事、本田宗一郎は、深夜の安酒場で、一人、焼酎を呷っていた。テレビのワイドショーが、例の『怨嗟の記録』について、したり顔の文化人たちを招いて特集を組んでいる。
「これは、現代社会が抱える、歪んだコミュニケーションの象徴ですよ」
「いじめという構造的な問題が、一人の人間を、ここまで追い詰めた……」
本田は、その薄っぺらい言葉の数々を、冷めた目で見つめていた。
(……何も、分かっていない)
彼は誰よりも、この事件の闇の深さを知っていた。鈴木一郎という男の常軌を逸した周到さ。そして彼の死後、まるでパズルのピースがはまるかのように、次々と起きた、元同級生たちの不可解な悲劇。それらは、人間の世界の法律では、到底、裁くことのできない領域の出来事だった。
彼は、あの日、公園で見た、鈴木一郎の最後の顔を思い出していた。
それは狂気でも、絶望でもなかった。ただ、三十数年分の計画を完璧に終えようとする、機械のような、冷たい満足感に満ちた、歪んだ笑み。
あの男は自分の死すらも、復讐の、一つの駒として、計算していたのだ。
本田は焼酎を一気に飲み干した。
胸の中に苦々しい、敗北感にも似た感情が広がっていく。自分は刑事として、一体、何を追いかけていたのだろうか。法では決して届かない、人の心の底なしの闇を前に、自分は、あまりに無力だった。
蓮城桔梗は再び、あの忌澤村へと続く、険しい山道を、一人、登っていた。
かつて、一歩足を踏み入れるだけで、魂が凍てつくようだった禍々しい気は、今は、薄れていた。そこにあったのは、ただ、深く、どこまでも深い静寂と、まるで、氷河期の氷のように、決して溶けることのない、哀しみの気配だけだった。
祠の前に、たどり着く。
扉は開かれたままだ。
桔梗が、その暗闇の中を覗き込む。
そこにいたのは、一人の男ではなかった。
鬼神と化した、鈴木一郎が、ただ静かに、そこに座っていた。その姿は以前のような、攻撃的な怨念を放ってはおらず、まるで悠久の時を、そこで過ごしてきた、古い神像のようだった。
彼の復讐は終わった。
しかし、彼の怨念は、その魂から解放されてはいなかった。
桔梗は悟った。
彼の魂が、三十数年の絶望から、本当に解放されるには、人々が、この伝説を語り継ぎ、彼の、あまりに深すぎる孤独に、寄り添う、さらに、悠久の時が必要なのだと。彼の絶望の深さは、一過性のブームで癒えるほど、浅いものではなかったのだ。
この祠は、もはや、呪いの震源地ではない。鎮まらぬ魂が、その身を休める、静寂の揺り籠となっていた。
桔梗は祠に、静かに、一礼した。
そして、彼女は決意した。
持ち帰った、あの黒いノートを、燃やすことを、やめた。
あれは、もはや、呪いの設計図ではない。この世界が、二度と同じ過ちを繰り返さないための、戒めそのものなのだ。
彼女は山を下り、自らの一族が、代々、管理してきた、禁断の書庫へと向かった。
そして、その何十冊もの『怨嗟の記録』の原本を、桐の箱ごと、最も清浄な結界が張られた、棚の奥深くへと、厳重に封印した。
それは、呪いを終わらせるためではない。
この世界に必要な、「警鐘」として、永劫に保存するためだった。
全てを終え、桔梗は古美術店へと戻る、夜の高速道路を、一人、車で走っていた。
ラジオからは、どこかの評論家が、『怨嗟の記録』の社会学的考察を、したり顔で語っているのが聞こえる。
(……これで、よかったのだろうか)
彼女は自問した。
その瞬間だった。
彼女の研ぎ澄まされた霊感が、何かを捉えた。
それは、遠い、どこか別の街で生まれた、新たな、しかし、よく似た絶望の、ほんの、かすかな産声だったのかもしれない。
学校の、教室の隅で、声を殺して、泣いている、誰か。
会社の、デスクの下で、屈辱に、拳を握りしめている、誰か。
家庭という、密室の中で、心を、殺されている、誰か。
新たな鬼神が生まれる土壌は、この世界のどこにでもある。
鈴木一郎の物語は、終わった。
だが、この世界から、不条理が、なくならない限り。
物語は、決して、終わらない。
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