50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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第四章 双冠の英雄

第103話 闇の帳の向こうで

 天蓋に浮かぶは血のように赤い三日月。
 その下、黒曜石で築かれた塔の最上層に重苦しい沈黙が落ちていた。

 部屋の中心には一人の女が膝をつき、衣服の袖を焼かれ、黒き血を垂らしていた。

 ゼノヴィア——夢魔族ナイトメアの眷属。夢と精神の深淵を操る魔族でありながら、いまその姿は痛々しく、威厳すらも剥がれ落ちていた。

「……戻ってきただけ、まだマシだと思うべきかしらね」

 やや高い声が室内の奥から響いた。
 黒銀の髪をゆるく束ねた女、ネフィラが窓辺に立ち、紅い月を背にしてゼノヴィアを見下ろしていた。

 ゼノヴィアは顔を伏せたまま、冷たい床に両手をつく。その指先は微かに震えている。夢魔である彼女にとって「光」は最も忌むべき属性だ。

「……悪夢の領域を貫くような光だった。無理やり干渉してきた……あれは意思の魔法よ」

「ふうん。つまり、お前を退けるに足る意志を奴が持っていたということよね」

 ゼノヴィアは歯を食いしばるように黙り込んだ。悔しさと恐怖、そして何より予想外の敗北が、その姿からにじみ出ている。

 部屋の奥、もう一人の影が立ち上がった。黒と赤の礼服を身にまとい、眼鏡の奥で鋭く光る瞳を持つ男——マルヴェス・ブラッドロック。闇の知を司る者、魔族における知的派閥の筆頭たる存在である。

「ゼノヴィア。あのとき私が言っただろう。相手を見誤るなと」

 その声は淡々としていたが、わずかに棘を含んでいた。

「報告を聞く限り、相手はお前が思っていた以上に夢に対しての理解を持っていた。それに、彼の使った光魔法……あれは通常の聖属性ではない。精神領域に特化した術式が組み込まれていた」

「……奴は意図して私の術域に踏み込んできた。おぞましいまでの意志で」

 ゼノヴィアのつぶやきにマルヴェスは軽く肩をすくめる。

「となれば、ここで手を引くのが上策だ。無理に追えばこちらの情報を晒すことになる」

「つまり、尻尾を切って逃げると?」

 ネフィラが半ば呆れたように言う。

「そうだ。ゼノヴィアにはしばらく姿を消してもらう。このままでは奴らに動機を与えすぎる。次に動くのはもっと『歪んだ者たち』でいい」

 マルヴェスの指が空中に軌跡を描くと、そこに浮かび上がったのは魔族領各地を記した地図だった。いくつかの領域には赤い印がつけられ、そのひとつにはネフィラの印も含まれていた。

「……まさか、彼を動かすつもりなの?」

「選択肢のひとつだよ。ゼノヴィアは今回、情報を引き出すという役割を果たした。カインという名の光使いが、かつての賢者の器を継いでいる——それが事実として証明された」

「情報としては十分ね。けれど……」

 ネフィラはゼノヴィアの前に歩み寄り、その顔を見下ろした

「あなたにしては、ずいぶん情けない姿じゃない?」

「……次に会ったときは……私が彼の夢を壊すわ」

「その言葉、忘れないことね。今度は彼の心だけでなく、その周囲をも喰らう覚悟がなければ意味はないわ」

 紅い月が塔の窓を通じてゼノヴィアの傷口を照らしていた。その痛みが消えぬうちは、彼女は再び姿を現さないだろう。だが、それは敗北ではない。
 それは——次なる闇の目覚めを促す、予兆にすぎないのだった。
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