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第七章 森のざわめき
第149話 静けさと、新たなざわめき
あの日以来、エルフェンリートの森は、まるで長い冬の眠りから覚めたかのように生命力に満ち溢れていた。
精霊たちの歌声が風に乗り、木々の葉は陽光を浴びて鮮やかに輝いている。俺たちが住居として与えられた家の窓から見える景色は昨日までとは比べ物にならないほど生き生きとしていた。
「わぁ……っ! 見てカイン、蝶々だよ! 森の空気が、なんだかキラキラしてる!」
ルナは庭を駆け回りながら、弾けるような笑顔を見せた。
その無邪気なはしゃぎ声を聞くだけで、胸の奥にあった重たいものが解けていくようだ。彼女の未来視で見た、あの色褪せた絶望の森はもうどこにもない。
「ええ。精霊たちが、心から喜んでいるのが分かります。こんなにも清浄な魔力の流れ、私も久しぶりに感じます」
窓辺に立つエルンは目を閉じ、森の息吹を全身で受け止めるように深く呼吸をした。その横顔には、役目を果たした安堵と故郷が蘇ったことへの静かな感動が滲んでいた。
一方、住居の書斎では、カズエルが羊皮紙の山に埋もれながら、狂気じみた集中力でペンを走らせていた。
「……なるほど。『記憶』をトリガーとする魔力循環システムか。創始者の発想は現代の理式魔術の枠を超えている。面白い……これは解析しがいがある」
ブツブツとつぶやきながら、彼は完全に自分の世界に入り込んでいた。根っからの研究者気質が爆発しているその姿に、俺は苦笑しつつも頼もしさを感じていた。
夕刻、森の戦士たちとの訓練を終えたセリスが戻ってきた。
額に汗を浮かべた彼女は、どこか晴れやかな、それでいて少しだけ複雑な表情をしていた。
「長老会はエルドレア様を中心に、失われた伝承の再編纂を始めています。皆、自らの過ちと向き合い、森の真の歴史を取り戻そうと必死です」
「そうか。……なら、森も少しずつ変わっていけるな」
「はい。ですが……」
セリスは言葉を濁し、わずかに視線を伏せた。
「ヴィンドール様を信奉していた者たちの一部は今回の出来事を『異界の者がもたらした偽りの奇跡』だと囁いているようです。彼らは沈黙していますが、その静けさが……かえって不気味です」
彼女の拳が膝の上でギュッと握りしめられる。同胞の中に残るしこりに彼女自身も心を痛めているのだ。
「……分かっていたことだ。俺がこの森にいる限り、変化を恐れる者たちとの軋轢は避けられない」
俺は努めて明るく振る舞った。セリスの不安を少しでも和らげるために。
その夜、俺は一人、住居の屋根に上って満天の星空を眺めていた。
数々の戦い、出会い、そして別れ。
50代の無職だった男が、今やエルフの森の賢者として、この星空を見上げている。
頬を撫でる夜風が心地よいのに、なぜか胸のざわめきが収まらない。
今の状況が幸せすぎて、どこか夢のように感じられるからだろうか。
(……これで、本当によかったんだろうか)
ふと漏れた弱音。
すると、頭の奥で静かな、けれど底冷えするような声が響いた。
『何を感傷に浸っている。お前が選び、成し遂げた結果だろう』
久しぶりに語りかけてきたカイランの声はどこか面白がっているようにも聞こえた。
(カイランか。……なあ、聞きたいんだが)
俺は心の中で問いかけた。
(賢者としての仕事ってのは、いつもこんなふうに世界の存亡がかかった問題ばかりなのか? 正直、俺の心臓はもう、ストレスでやられちゃいそうだよ)
その問いにカイランは少しの間を置いて、ふっと息を漏らすように答えた。
『……いいや。本来の賢者の仕事はそんなものではない』
(じゃあ、なんなんだよ)
『……本来の森とは、人間の感覚で言えば、すぐにでも死にたくなるほどに、退屈なものだ』
(……は?)
予想外の言葉に俺は眉をひそめる。カイランは冷徹な響きで言葉を続けた。
『何事もなく、ただゆるやかに時が流れる。精霊は歌い、木々は育ち、エルフは千年の時を生きる。それだけだ。お前がここに来てから立て続けに起こっている事件は、すべてが異常なのだ。ヴァルディスも、グロムも、そして今回の契約の忘却も。……それはこの世界が自然な静けさを失い、何者かによって意図的にざわつかされている証拠に他ならん』
その言葉に俺は背筋が凍りつくのを感じた。
平和を取り戻したと思っていた。だが、それは誰かの手の上で踊らされているだけなのかもしれない。
失踪したヴィンドール、目的不明のマルヴェス。俺に分からない事はこの世界にまだまだ、たくさんある。
(……終わってない、ってことか)
『ああ。だが、恐れることはない。お前には仲間がいる』
カイランの気配が、ふっと遠ざかる。
俺は大きく息を吐き出し、星空に手を伸ばした。
この指の先には、まだ見ぬ闇が広がっているのかもしれない。けれど——。
「おーい、カイン! 降りてこないと、お夜食食べちゃうよー!」
庭からルナの明るい声が聞こえた。見下ろせば、エルンとセリスも微笑んでこちらを見上げている。
その光景を見た瞬間、俺の胸にあった恐怖は守るべき決意へと変わった。
俺の賢者としての本当の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。
だが、この美しい世界で仲間たちと共に楽しく過ごす。その「退屈な幸せ」のためならば、俺は歩みを止めない。
そう改めて胸に刻み、俺は仲間たちの待つ灯火のもとへと降りていった。
第七章・完
精霊たちの歌声が風に乗り、木々の葉は陽光を浴びて鮮やかに輝いている。俺たちが住居として与えられた家の窓から見える景色は昨日までとは比べ物にならないほど生き生きとしていた。
「わぁ……っ! 見てカイン、蝶々だよ! 森の空気が、なんだかキラキラしてる!」
ルナは庭を駆け回りながら、弾けるような笑顔を見せた。
その無邪気なはしゃぎ声を聞くだけで、胸の奥にあった重たいものが解けていくようだ。彼女の未来視で見た、あの色褪せた絶望の森はもうどこにもない。
「ええ。精霊たちが、心から喜んでいるのが分かります。こんなにも清浄な魔力の流れ、私も久しぶりに感じます」
窓辺に立つエルンは目を閉じ、森の息吹を全身で受け止めるように深く呼吸をした。その横顔には、役目を果たした安堵と故郷が蘇ったことへの静かな感動が滲んでいた。
一方、住居の書斎では、カズエルが羊皮紙の山に埋もれながら、狂気じみた集中力でペンを走らせていた。
「……なるほど。『記憶』をトリガーとする魔力循環システムか。創始者の発想は現代の理式魔術の枠を超えている。面白い……これは解析しがいがある」
ブツブツとつぶやきながら、彼は完全に自分の世界に入り込んでいた。根っからの研究者気質が爆発しているその姿に、俺は苦笑しつつも頼もしさを感じていた。
夕刻、森の戦士たちとの訓練を終えたセリスが戻ってきた。
額に汗を浮かべた彼女は、どこか晴れやかな、それでいて少しだけ複雑な表情をしていた。
「長老会はエルドレア様を中心に、失われた伝承の再編纂を始めています。皆、自らの過ちと向き合い、森の真の歴史を取り戻そうと必死です」
「そうか。……なら、森も少しずつ変わっていけるな」
「はい。ですが……」
セリスは言葉を濁し、わずかに視線を伏せた。
「ヴィンドール様を信奉していた者たちの一部は今回の出来事を『異界の者がもたらした偽りの奇跡』だと囁いているようです。彼らは沈黙していますが、その静けさが……かえって不気味です」
彼女の拳が膝の上でギュッと握りしめられる。同胞の中に残るしこりに彼女自身も心を痛めているのだ。
「……分かっていたことだ。俺がこの森にいる限り、変化を恐れる者たちとの軋轢は避けられない」
俺は努めて明るく振る舞った。セリスの不安を少しでも和らげるために。
その夜、俺は一人、住居の屋根に上って満天の星空を眺めていた。
数々の戦い、出会い、そして別れ。
50代の無職だった男が、今やエルフの森の賢者として、この星空を見上げている。
頬を撫でる夜風が心地よいのに、なぜか胸のざわめきが収まらない。
今の状況が幸せすぎて、どこか夢のように感じられるからだろうか。
(……これで、本当によかったんだろうか)
ふと漏れた弱音。
すると、頭の奥で静かな、けれど底冷えするような声が響いた。
『何を感傷に浸っている。お前が選び、成し遂げた結果だろう』
久しぶりに語りかけてきたカイランの声はどこか面白がっているようにも聞こえた。
(カイランか。……なあ、聞きたいんだが)
俺は心の中で問いかけた。
(賢者としての仕事ってのは、いつもこんなふうに世界の存亡がかかった問題ばかりなのか? 正直、俺の心臓はもう、ストレスでやられちゃいそうだよ)
その問いにカイランは少しの間を置いて、ふっと息を漏らすように答えた。
『……いいや。本来の賢者の仕事はそんなものではない』
(じゃあ、なんなんだよ)
『……本来の森とは、人間の感覚で言えば、すぐにでも死にたくなるほどに、退屈なものだ』
(……は?)
予想外の言葉に俺は眉をひそめる。カイランは冷徹な響きで言葉を続けた。
『何事もなく、ただゆるやかに時が流れる。精霊は歌い、木々は育ち、エルフは千年の時を生きる。それだけだ。お前がここに来てから立て続けに起こっている事件は、すべてが異常なのだ。ヴァルディスも、グロムも、そして今回の契約の忘却も。……それはこの世界が自然な静けさを失い、何者かによって意図的にざわつかされている証拠に他ならん』
その言葉に俺は背筋が凍りつくのを感じた。
平和を取り戻したと思っていた。だが、それは誰かの手の上で踊らされているだけなのかもしれない。
失踪したヴィンドール、目的不明のマルヴェス。俺に分からない事はこの世界にまだまだ、たくさんある。
(……終わってない、ってことか)
『ああ。だが、恐れることはない。お前には仲間がいる』
カイランの気配が、ふっと遠ざかる。
俺は大きく息を吐き出し、星空に手を伸ばした。
この指の先には、まだ見ぬ闇が広がっているのかもしれない。けれど——。
「おーい、カイン! 降りてこないと、お夜食食べちゃうよー!」
庭からルナの明るい声が聞こえた。見下ろせば、エルンとセリスも微笑んでこちらを見上げている。
その光景を見た瞬間、俺の胸にあった恐怖は守るべき決意へと変わった。
俺の賢者としての本当の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。
だが、この美しい世界で仲間たちと共に楽しく過ごす。その「退屈な幸せ」のためならば、俺は歩みを止めない。
そう改めて胸に刻み、俺は仲間たちの待つ灯火のもとへと降りていった。
第七章・完
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