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第九章 光と闇を抱いて
第164話 森の賢者と静かなる刻限
エクリプスと呼ばれた古の災厄との死闘から数ヶ月が過ぎた。
エルフェンリートの森は、まるで長い悪夢から覚めたかのように、穏やかで満ち足りた生命力に溢れていた。精霊たちの歌声は風に乗り、木々の葉は陽光を浴びて瑞々しく輝いている。賢者としてこの森に迎え入れられた俺の日常もまた、平穏なものになった。
「カイン、こっちの古文書、面白い絵が描いてある!」
「お茶が入りましたよ。少し休憩にしましょう」
書斎の扉からひょっこりと顔を出すルナと、丁寧にお盆を運んでくるエルン。この光景もすっかり見慣れたものになった。俺は山と積まれた羊皮紙から顔を上げ、苦笑しながら背を伸ばす。
「ああ、ありがとう。ルナ、それは古代薬草学の論文だぞ。面白いっていうより、ひたすら眠くなるやつじゃないか?」
「えー、だって『魂を揺さぶる果実』っていう絵が気になるんだもん! どんな味かなって!」
「……それは比喩表現というものよ、ルナ」
エルンが優しく窘める。俺は彼女が淹れてくれたハーブ湯を一口すすった。鼻腔を抜ける爽やかな香りが、凝り固まった思考を少しだけ解きほぐしてくれる。
賢者としての仕事は戦いだけではない。エルドレアと協力しながら、膨大な資料を整理し、失われた伝承の再編纂をする。それは地道で、果てのない作業だったが、俺はこの森の本当の歴史と向き合う時間に不思議な充実感を覚えていた。
「レオナルドの奴は、また訓練場か?」
「ええ。エクリプスとの戦いの後、森の戦士たち全体の練度を上げる必要があると、以前にも増して稽古に熱が入っているようです」
レオナルドも、今では森の防衛の中核を担う存在として、多忙な日々を送っていた。王都へ向かったカズエルとセリスのことも気にはなるが、彼らならうまくやっているだろう。
この平穏が、ずっと続けばいい。心の底から、そう願っていた。
だからこそ、俺は身体に現れ始めた最初の兆候を、ただの疲労だと片付けてしまったのだ。
***
その日の午後、俺は書斎でインク壺の蓋を開け、ペン先にインクをつけた。
エルドレアから預かっていたメモの解読も佳境に入っている。
集中力を高め、羊皮紙に文字を書きつけようとした、その瞬間だった。
ふっと、指先から力が抜けた。
ペンが手から滑り落ち、ぽつり、と真新しい羊皮紙に黒い染みを作る。
「……ん?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。ただ、自分の指が、ほんの一瞬だけ自分の意志から離れたような奇妙な感覚。
「……疲れてるのか」
俺は小さく息を吐き、染みになった箇所を指でなぞった。
立て続けの戦いと、慣れない賢者の仕事。無理もなかったのかもしれない。
俺は気を取り直し、再びペンを握った。
だが、その違和感は夜になっても消えなかった。
夕食後、レオナルドに誘われて軽い剣の手合わせをしていた時のことだ。彼の鋭い剣閃をいなし、反撃のために踏み込もうとした足が、わずかにもつれた。
たった一瞬の、しかし致命的な隙。レオナルドの木剣が俺の喉元でぴたりと止まる。
「……どうした、カイン。らしくないな。集中力が欠けているぞ」
レオナルドの訝しげな視線が俺に突き刺さる。
「いや……すまん。少し考え事をしていた」
嘘だった。考え事などしていない。身体が、ほんの少しだけ思考よりも鈍く反応したのだ。まるで、薄い水の膜を通して手足を動かしているような、もどかしい感覚。
その夜、俺は一人、自室で月明かりを浴びながら自身の手に視線を落としていた。
魔力を流してみる。流れは正常だ。精霊との繋がりも、いつもと変わらない。
やはり、ただの気のせいか。そう思い、ベッドに入ろうと立ち上がった、その時だった。
――ぐらり、と世界が揺れた。
いや、揺れたのは世界じゃない。俺の魂そのものだ。
心臓を直接鷲掴みにされ、生命力を根こそぎ引き抜かれるような強烈な虚脱感。息が詰まり、視界の端が黒くにじんでいく。
俺は壁に手をつき、荒い息を繰り返した。
「……な……んだ、これは……っ」
数秒後、その感覚は嘘のように消え去った。だが、全身には嫌な冷や汗が噴き出している。
恐る恐る、部屋に置かれた姿見を覗き込んだ。そこに映るのは見慣れたエルフの賢者の姿。
しかし――。
一瞬、自分の瞳の奥に別の顔が浮かんだ気がした。憎悪と狂気に満ちた、あのダークエルフの顔が。
『この痛みも、この怒りも、全部……あなたに返してあげる』
ネフィラの最期の言葉が耳の奥で不気味に反響した。全身の血が急速に冷えていくのを感じた。
あれは、ただの捨て台詞ではなかった。
俺の身体に刻み込まれた、何かの魔術だったのだ。
平穏な日々の水面下で、ネフィラが遺した闇の魔術は、静かに、しかし確実に進行していた。
エルフェンリートの森は、まるで長い悪夢から覚めたかのように、穏やかで満ち足りた生命力に溢れていた。精霊たちの歌声は風に乗り、木々の葉は陽光を浴びて瑞々しく輝いている。賢者としてこの森に迎え入れられた俺の日常もまた、平穏なものになった。
「カイン、こっちの古文書、面白い絵が描いてある!」
「お茶が入りましたよ。少し休憩にしましょう」
書斎の扉からひょっこりと顔を出すルナと、丁寧にお盆を運んでくるエルン。この光景もすっかり見慣れたものになった。俺は山と積まれた羊皮紙から顔を上げ、苦笑しながら背を伸ばす。
「ああ、ありがとう。ルナ、それは古代薬草学の論文だぞ。面白いっていうより、ひたすら眠くなるやつじゃないか?」
「えー、だって『魂を揺さぶる果実』っていう絵が気になるんだもん! どんな味かなって!」
「……それは比喩表現というものよ、ルナ」
エルンが優しく窘める。俺は彼女が淹れてくれたハーブ湯を一口すすった。鼻腔を抜ける爽やかな香りが、凝り固まった思考を少しだけ解きほぐしてくれる。
賢者としての仕事は戦いだけではない。エルドレアと協力しながら、膨大な資料を整理し、失われた伝承の再編纂をする。それは地道で、果てのない作業だったが、俺はこの森の本当の歴史と向き合う時間に不思議な充実感を覚えていた。
「レオナルドの奴は、また訓練場か?」
「ええ。エクリプスとの戦いの後、森の戦士たち全体の練度を上げる必要があると、以前にも増して稽古に熱が入っているようです」
レオナルドも、今では森の防衛の中核を担う存在として、多忙な日々を送っていた。王都へ向かったカズエルとセリスのことも気にはなるが、彼らならうまくやっているだろう。
この平穏が、ずっと続けばいい。心の底から、そう願っていた。
だからこそ、俺は身体に現れ始めた最初の兆候を、ただの疲労だと片付けてしまったのだ。
***
その日の午後、俺は書斎でインク壺の蓋を開け、ペン先にインクをつけた。
エルドレアから預かっていたメモの解読も佳境に入っている。
集中力を高め、羊皮紙に文字を書きつけようとした、その瞬間だった。
ふっと、指先から力が抜けた。
ペンが手から滑り落ち、ぽつり、と真新しい羊皮紙に黒い染みを作る。
「……ん?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。ただ、自分の指が、ほんの一瞬だけ自分の意志から離れたような奇妙な感覚。
「……疲れてるのか」
俺は小さく息を吐き、染みになった箇所を指でなぞった。
立て続けの戦いと、慣れない賢者の仕事。無理もなかったのかもしれない。
俺は気を取り直し、再びペンを握った。
だが、その違和感は夜になっても消えなかった。
夕食後、レオナルドに誘われて軽い剣の手合わせをしていた時のことだ。彼の鋭い剣閃をいなし、反撃のために踏み込もうとした足が、わずかにもつれた。
たった一瞬の、しかし致命的な隙。レオナルドの木剣が俺の喉元でぴたりと止まる。
「……どうした、カイン。らしくないな。集中力が欠けているぞ」
レオナルドの訝しげな視線が俺に突き刺さる。
「いや……すまん。少し考え事をしていた」
嘘だった。考え事などしていない。身体が、ほんの少しだけ思考よりも鈍く反応したのだ。まるで、薄い水の膜を通して手足を動かしているような、もどかしい感覚。
その夜、俺は一人、自室で月明かりを浴びながら自身の手に視線を落としていた。
魔力を流してみる。流れは正常だ。精霊との繋がりも、いつもと変わらない。
やはり、ただの気のせいか。そう思い、ベッドに入ろうと立ち上がった、その時だった。
――ぐらり、と世界が揺れた。
いや、揺れたのは世界じゃない。俺の魂そのものだ。
心臓を直接鷲掴みにされ、生命力を根こそぎ引き抜かれるような強烈な虚脱感。息が詰まり、視界の端が黒くにじんでいく。
俺は壁に手をつき、荒い息を繰り返した。
「……な……んだ、これは……っ」
数秒後、その感覚は嘘のように消え去った。だが、全身には嫌な冷や汗が噴き出している。
恐る恐る、部屋に置かれた姿見を覗き込んだ。そこに映るのは見慣れたエルフの賢者の姿。
しかし――。
一瞬、自分の瞳の奥に別の顔が浮かんだ気がした。憎悪と狂気に満ちた、あのダークエルフの顔が。
『この痛みも、この怒りも、全部……あなたに返してあげる』
ネフィラの最期の言葉が耳の奥で不気味に反響した。全身の血が急速に冷えていくのを感じた。
あれは、ただの捨て台詞ではなかった。
俺の身体に刻み込まれた、何かの魔術だったのだ。
平穏な日々の水面下で、ネフィラが遺した闇の魔術は、静かに、しかし確実に進行していた。
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