50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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第九章 光と闇を抱いて

第165話 闇の大精霊の宣告

 心臓を鷲掴わしづかみにされたような強烈な虚脱感。
 呼吸さえままならず、床に膝をついた俺の脳裏に鮮烈な記憶がフラッシュバックした。
 ――それは、あの『ヴァルディノア』での戦いの最後。
 ダークエルフのネフィラが自らの命を燃やし尽くして放った最期の言葉だ。

『……この痛みも、この怒りも、全部……あなたに返してあげる』

 血の涙を流しながら、彼女は笑っていた。その瞳の奥には狂気と、そして底知れぬ暗い意志が渦巻いていた。
 そして――あの戦いからしばらく経ち、俺たちが日常を取り戻し始めた頃。ふと、カイランが漏らした言葉もまた、脳裏に蘇る。

『問題は……ネフィラが最後に唱えたあの闇の魔法。あれが何だったのか、私にも解けぬ。おそらく、まだ終わっていない』

 そうだ。あの時、カイランですら正体を見抜けず、胸の奥に引っかかっていた違和感。その答えが今、目の前にある。
 部屋の空気が凍りついていく。月明かりすら、窓の外でその輝きをひそめたかのように室内の闇が一層その深さを増していく。

 あれはただの捨て台詞じゃなかった。俺の身体に刻み込まれた、何かだったのだ。

「……これは……なんだ?」

 俺は喉の奥から絞り出すようにつぶやいた。
 部屋の隅、影が最も濃い場所。そこが、まるで意思を持ったかのようにうごめき始めた。それは黒いインクを水に垂らしたように、ゆっくりと、しかし確実に輪郭を成していく。

 やがて姿を現したのは人型の幻影だった。

 夜そのものを編み上げて作ったかのような滑らかなローブ。顔立ちは中性的で、冷たい大理石のように美しいが、その瞳は星ひとつない夜空のように空虚だった。感情というものが、そこには一切存在しなかった。

 その存在が放つ絶対的な圧力に俺の魂が悲鳴を上げる。立っていることすらできず、俺は壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

『……ようやく、我が声に応える準備ができたか。賢者の器よ』

 声は直接頭の中に響いてきた。男でも女でもない、ただ深く、冷たい響き。

「お前は……誰だ……。ネフィラが遺した呪いか?」

『我はノクス。闇を司る大精霊。ネフィラ・ヴァレリオがその命を代償に我をこの地に呼び寄せた』

 ノクスの幻影は微動だにしない。だが、その視線は俺の魂の芯まで見透かしているようだった。

『そして、彼女の最後の魂の輝きは、お前との契約を強制するくさびとなった。……魂縛の闇契約こんばくのやみけいやく。お前はもう、我がことわりから逃れることはできん』

「契約……だと……?」

『そうだ。契約者、カイン。お前が履行りこうすべき契約だ』

 ノクスは淡々と、まるで世界の法則を読み上げるかのようにその内容を告げた。

『期日は次の新月。それまでに、お前の同族――エルフの魂を一つ、我に捧げよ』

 全身の血が凍る。仲間たちの顔が脳裏をよぎり、俺は反射的に叫んでいた。

「ふざけるな! そんなこと、できるわけがないだろう!」

『……これは交渉ではない。決定事項だ』

 ノクスの声色には何の揺らぎもなかった。

『契約が履行りこうされれば、お前は強大な闇の力を得る。だが、闇と光は相容れぬ。お前の中にある光の属性は消え去り、二度と光の精霊と交信することはできなくなるだろう』

 光の力を失う。それは、エルンやルナを悪夢から救った、あの力の喪失を意味する。仲間を守るための最も強い武器を自ら手放せというのか。

「……もし、履行りこうしなかったら、どうなる?」

 俺の声は震えていた。

『契約不履行。その場合、お前の魂は代償として我に捧げられる。命ではない、魂そのものがだ。この世界のことわりから完全に消滅し、蘇生そせいの望みも絶たれる。……完全なる無への回帰だ』

 絶望という言葉ですら生ぬるい。
 仲間を生贄にして光を失って生きるか、あるいは魂ごと消滅するか。
 ネフィラが俺に突きつけたのは、どちらを選んでも心が壊れる究極の選択だった。

(カイラン……! どうすればいい、何か手はないのか!?)

 俺は必死に心の奥底にいるもう一人の自分に呼びかけた。だが、返ってくるのは、これまで感じたことのないほどの深い沈黙だけ。ノクスの放つ闇の力がカイランの魂をも縛り、その意識を封じ込めているかのようだった。頼みの綱だった導き手は今や完全に沈黙している。

『時間はあまり残されていないぞ』

 ノクスの幻影がゆっくりと影の中へと溶け始めていく。

「待て! 他に方法はないのか! 俺の命や魂でいいなら、今すぐくれてやる! だから、仲間だけは……!」

『契約は覆らぬ。捧げられるのは、お前ではない、同族の魂。それが、ネフィラがお前のために用意した、最後の贈り物だ』

「選べ、賢者の器よ。お前の手で仲間を殺すか、あるいは、お前が静かに消え去るか」

 その言葉を最後にノクスの気配は完全に消え失せた。

 部屋には、ただ俺一人が残される。
 俺は力なく床に手をついた。冷たい石の感触だけが、ここが現実であることを告げていた。

 新月まで、あと十日もない。
 仲間を殺すか、自分が死ぬか。

 ネフィラの遺した最悪の遺産は俺の心臓に突き立てられた。
 それは、決して抜けない刃となって、深く、静かに、俺の魂を蝕み始めていた。
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