50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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第九章 光と闇を抱いて

第167話 生きるための戦い

 俺は森の奥にある古い石碑の前に一人、立っていた。
 かつてリゼリアが「ことわりの歪み」について語ってくれた、あの場所だ。
 風が木々の葉を揺らす音だけが静かに響いている。

 もう決めたのだ。俺が死ねば全てが終わる。

 仲間を生贄に差し出すという、人として、賢者として、決して犯してはならない罪から逃れられる。
 エルンも、ルナも、この森も守られる。それが唯一の、そして最も合理的な答えのはずだった。
 俺のような異邦人が最後にこの世界のためにできる、たった一つの正しいことだ。
 そう自分に言い聞かせていた。心を殺し、感情を捨て、ただの結論として、死を受け入れようとしていた。

「……こんな所にいたのか」

 背後から聞こえたのはレオナルドの低い声だった。
 振り返ると、そこには彼だけでなく、エルンとルナも立っていた。
 三人の目は真っ直ぐに俺を射抜いている。

「……一人にしてくれ。もう話すことはない」

 俺は背を向けたまま、冷たく言い放った。だが、誰もその場を動こうとしない。

 最初に沈黙を破ったのはルナだった。その声は涙と怒りで震えていた。

「……バカ! カインのバカ!」

 彼女は俺の背中に駆け寄り、その小さな拳で何度も叩いた。

「勝手に決めないでよ! カインがいなくなって、それでみんなが幸せになるなんて、そんなの間違ってる! ルナは嫌だ! 昔みたいに、また一人になるのはもう嫌なの!」

 彼女の悲痛な叫びが俺の心の壁にひびを入れる。あの日、悪夢の中で孤独に震えていた彼女を俺は確かに救ったはずだった。なのに、今度は俺が彼女を一人にしようとしている。

「ルナ……」

「黙って!」

 ルナの叫びに今度はレオナルドが重々しく口を開いた。

「みっともないぞ、カイン。ヴァルディスを討ち、グロムを退けた男が、戦いもせずに死を選ぶのか。それは、お前がこれまで打ち破ってきた全ての敵に対する侮辱ぶじょくだ。そして、お前と共に戦った我々への裏切りでもある」

 彼の言葉は剣のように鋭く、俺の覚悟の脆さをえぐり出した。

「賢者としての責任? 違うな。それはただの自己満足だ。死んで責任が取れるなどと考えるのは臆病者おくびょうもののすることだぞ」

「……じゃあ、どうしろって言うんだ!」

 俺はたまらず叫んだ。

「お前たちを、この手で生贄に差し出せとでも言うのか!?」

「そうは言っていません」

 静かだが芯の通った声。エルンだった。彼女はゆっくりと俺の前に回り込み、俺の目を見据えた。

「あなたは私に教えてくれました。過去に囚われるのではなく、今を生きるべきだと。カイラン様の幻影を追っていた私をあなたは現実に引き戻してくれた」

 彼女は一歩、俺に近づく。

「なのに、今のあなたはどうです? 起こりうる最悪の未来だけを見て、生きることを諦めている。それはあなたがかつて否定した、弱い心そのものではありませんか」

 エルンの言葉が、深く、深く突き刺さる。

「私は……あなたに救われた。だから今度は私があなたを救う番です。あなたがもし死を選ぶというのなら、それはあなた自身を捨てるだけではない。私たちを、あなたが与えてくれた希望を、すべて見捨てることと同じです」

 彼女は震える手で俺の腕を掴んだ。

「お願いです、カイン。自分を否定しないで。私たちはあなたに生きていてほしい」

 ルナの涙。レオナルドの叱咤しった。そして、エルンの祈り。
 仲間たちの想いが、濁流のように俺の中に流れ込んでくる。
 死を受け入れるという、冷たく乾いたはずの決意が、ぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。

 合理的? 正しいこと?

 違う。俺がやろうとしていたのは、ただの逃避だ。
 仲間たちの心から、その想いから、目を背けて逃げ出すだけの卑怯な行いだ。

「……俺は……」

 言葉が続かなかった。

「俺は……どうすればいいんだ……」

 絞り出した声は無職だったあの頃のように、ひどく情けなく震えていた。
 俺はその場に膝から崩れ落ち、顔を覆った。
 仲間たちが、そんな俺を静かに、しかし力強く囲んでいた。

 まだ答えは見えない。
 だが、死を選ぶという選択肢は、もう俺の中にはなかった。
 彼らがそれを許してはくれなかったからだ。
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