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第九章 光と闇を抱いて
第168話 エルンの決意
あの森で、互いの想いをぶつけ合ってから一夜が明けた。
俺の心は仲間たちの言葉によって死の淵から引き戻されたものの、未だ晴れることはなかった。
賢者の住居に戻ってからも俺は書斎にこもり、ただひたすらに古文書の山と向き合っていた。
何か道があるはずだ。闇の契約を無効化する、あるいはノクスを退ける、そんな奇跡のような方法が。
「……カイン」
静かな声に顔を上げるとエルンがハーブ湯の入ったカップを手に入り口に立っていた。その瞳には深い憂いと、そして、どこか覚悟を決めたような静かな光が宿っていた。
「少し休んでください。あなたが倒れてしまっては元も子もありません」
「……ああ、すまない」
俺は彼女からカップを受け取った。湯気と共に立ち上る穏やかな香りが、張り詰めた神経をわずかに和らげる。
エルンは俺の向かいの椅子に静かに腰を下ろし、ただ黙って俺が湯を飲むのを見守っていた。彼女のその沈黙が、今の俺には何よりもありがたかった。励ましの言葉も、慰めの言葉も、今の俺には重すぎる。
「……何か見つかりましたか?」
「いや……何も。どの本を読んでも、答えは同じだ」
俺は力なく首を振った。
「結局、俺が死ぬか、誰かが犠牲になるか。その二つしか道はないらしい」
自嘲気味につぶやく俺にエルンは何も言わなかった。ただ、その翡翠色の瞳が悲しげに揺れただけだった。
その日の午後、エルンは一人、森の奥深くへと分け入っていた。
カインを説得するだけでは彼の心は救えない。彼が抱える「選択」という名の責め苦から解放するには、その選択肢そのものを彼の手から奪うしかない。
彼女はそう決意していた。
「……ごめんなさい、カイン。でも、私はあなたに生きていてほしい」
彼女はかつてカイランから教わった薬草学の知識を頼りに、強力な眠りを誘うとされる『月光草』と、精神を深く鎮める『静寂の苔』を摘み取っていく。誰にも気づかれぬよう、それはまるで、いつもの薬草摘みのように静かに行われた。
あなたが私を悪夢から救ってくれたように。今度は私があなたを絶望から救う。たとえ、その代償が私の魂であったとしても。
その夜、書斎の蝋燭の火が尽きかけ、俺の集中力も限界に達していた。何時間も文字を追い続けた目は霞み、思考は同じ場所をぐるぐると回り続けている。
コン、コン。
控えめなノックの音と共にエルンが部屋に入ってきた。その手には二つのカップが乗ったお盆があった。
「夜分にすみません。眠りを助けるお茶を淹れました。あなたも、少し休むべきです」
「……エルン」
「今夜はもう、休みにしましょう。きっと、明日になれば、また新しい道が見つかります。私……いいえ、私たちはそれを信じていますから」
彼女の穏やかな声と優しい微笑みに俺は無意識に張り詰めていた肩の力を抜いた。そうだ、俺は一人じゃない。焦る必要はない。
「……ああ。そうだな。ありがとう」
俺は彼女が差し出したカップを受け取り、その温かい液体をゆっくりと口に含んだ。ハーブの柔らかな香りが疲弊した心と体に染み渡っていく。
一杯を飲み干す頃には重かった瞼が心地よい眠気によって自然と落ちてきた。
「少し……眠くなってきた……」
「ええ。今夜は、どうか安らかな夢を」
エルンの声が、だんだんと遠くなっていく。
俺は机に突っ伏すようにして、深い、深い眠りへと落ちていった。
静かに眠る俺の顔をエルンはそっと見つめていた。その頬を一筋の涙が静かに伝う。
「……ごめんなさい、カイン」
彼女はそっと俺の頬に触れ、そして囁いた。
「でも、あなたのいない世界で生きていくことの方が、私にとっては、ずっと辛いのです」
エルンは書斎の扉を静かに閉め、鍵をかけた。
誰にも邪魔されず、そして何より、眠るカインの側で全ての儀式を完遂するために。
彼女は部屋の中央に膝をつくと、懐から黒曜石の儀式用短剣を取り出した。
「深淵に座し、闇を統べる御霊よ……」
彼女は自らの掌を短剣で浅く傷つけ、流れ出る血を触媒に禁断の詠唱を始める。
室内の影が濃くなり、蝋燭の炎が不気味に揺らめき始めた。
カインに代わり、彼女が全ての代償を支払うために。
彼女の孤独な戦いが、今、この賢者の住居の中で静かに始まろうとしていた。
俺の心は仲間たちの言葉によって死の淵から引き戻されたものの、未だ晴れることはなかった。
賢者の住居に戻ってからも俺は書斎にこもり、ただひたすらに古文書の山と向き合っていた。
何か道があるはずだ。闇の契約を無効化する、あるいはノクスを退ける、そんな奇跡のような方法が。
「……カイン」
静かな声に顔を上げるとエルンがハーブ湯の入ったカップを手に入り口に立っていた。その瞳には深い憂いと、そして、どこか覚悟を決めたような静かな光が宿っていた。
「少し休んでください。あなたが倒れてしまっては元も子もありません」
「……ああ、すまない」
俺は彼女からカップを受け取った。湯気と共に立ち上る穏やかな香りが、張り詰めた神経をわずかに和らげる。
エルンは俺の向かいの椅子に静かに腰を下ろし、ただ黙って俺が湯を飲むのを見守っていた。彼女のその沈黙が、今の俺には何よりもありがたかった。励ましの言葉も、慰めの言葉も、今の俺には重すぎる。
「……何か見つかりましたか?」
「いや……何も。どの本を読んでも、答えは同じだ」
俺は力なく首を振った。
「結局、俺が死ぬか、誰かが犠牲になるか。その二つしか道はないらしい」
自嘲気味につぶやく俺にエルンは何も言わなかった。ただ、その翡翠色の瞳が悲しげに揺れただけだった。
その日の午後、エルンは一人、森の奥深くへと分け入っていた。
カインを説得するだけでは彼の心は救えない。彼が抱える「選択」という名の責め苦から解放するには、その選択肢そのものを彼の手から奪うしかない。
彼女はそう決意していた。
「……ごめんなさい、カイン。でも、私はあなたに生きていてほしい」
彼女はかつてカイランから教わった薬草学の知識を頼りに、強力な眠りを誘うとされる『月光草』と、精神を深く鎮める『静寂の苔』を摘み取っていく。誰にも気づかれぬよう、それはまるで、いつもの薬草摘みのように静かに行われた。
あなたが私を悪夢から救ってくれたように。今度は私があなたを絶望から救う。たとえ、その代償が私の魂であったとしても。
その夜、書斎の蝋燭の火が尽きかけ、俺の集中力も限界に達していた。何時間も文字を追い続けた目は霞み、思考は同じ場所をぐるぐると回り続けている。
コン、コン。
控えめなノックの音と共にエルンが部屋に入ってきた。その手には二つのカップが乗ったお盆があった。
「夜分にすみません。眠りを助けるお茶を淹れました。あなたも、少し休むべきです」
「……エルン」
「今夜はもう、休みにしましょう。きっと、明日になれば、また新しい道が見つかります。私……いいえ、私たちはそれを信じていますから」
彼女の穏やかな声と優しい微笑みに俺は無意識に張り詰めていた肩の力を抜いた。そうだ、俺は一人じゃない。焦る必要はない。
「……ああ。そうだな。ありがとう」
俺は彼女が差し出したカップを受け取り、その温かい液体をゆっくりと口に含んだ。ハーブの柔らかな香りが疲弊した心と体に染み渡っていく。
一杯を飲み干す頃には重かった瞼が心地よい眠気によって自然と落ちてきた。
「少し……眠くなってきた……」
「ええ。今夜は、どうか安らかな夢を」
エルンの声が、だんだんと遠くなっていく。
俺は机に突っ伏すようにして、深い、深い眠りへと落ちていった。
静かに眠る俺の顔をエルンはそっと見つめていた。その頬を一筋の涙が静かに伝う。
「……ごめんなさい、カイン」
彼女はそっと俺の頬に触れ、そして囁いた。
「でも、あなたのいない世界で生きていくことの方が、私にとっては、ずっと辛いのです」
エルンは書斎の扉を静かに閉め、鍵をかけた。
誰にも邪魔されず、そして何より、眠るカインの側で全ての儀式を完遂するために。
彼女は部屋の中央に膝をつくと、懐から黒曜石の儀式用短剣を取り出した。
「深淵に座し、闇を統べる御霊よ……」
彼女は自らの掌を短剣で浅く傷つけ、流れ出る血を触媒に禁断の詠唱を始める。
室内の影が濃くなり、蝋燭の炎が不気味に揺らめき始めた。
カインに代わり、彼女が全ての代償を支払うために。
彼女の孤独な戦いが、今、この賢者の住居の中で静かに始まろうとしていた。
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