50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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最終章 零(ゼロ)の賢者

第304話 賢者の憂鬱

 セリスとアルヴィンが森に帰還してから、さらに幾星霜いくせいそうの時が流れた。

 エルフェンリートの森は、永い、あまりにも永い平和の只中にあった。
 季節は時計の針のように規則正しく巡る。木々は芽吹き、青々と茂り、燃えるように紅葉し、そして静かに枯れ落ちる。精霊たちは変わらぬ調べを歌い、民は健やかに、昨日と同じ今日を、そして今日と同じ明日を紡いでいく。

 その完璧なまでに完成された調和の中心に、俺、カインはいた。

 賢者としての日々は穏やかすぎた。
 森の統治はシステムとして完成されており、賢者の裁定を必要とするような事件は何一つ起こらない。俺の役割と言えば、年に一度の祭祀で大精霊エルメノスに祈りを捧げることと、時折訪れる民に象徴として穏やかに微笑みかけることだけ。
 誰もが俺を『カイン様』と呼び、敬い、崇める。だが、そこに切実な願いはない。
 俺はこの森にとって、棚に飾られた美しい置物のような存在となっていた。

 俺の心はその腐るほどに穏やかな日常の中でゆっくりと、しかし確実に色を失っていった。

 ***

 その日も俺は賢者の書斎で、ただ窓の外を眺めていた。
 かつてはエルドレアが遺した膨大な記録の解読に熱中したこの場所も、今では全ての作業が終わり、ただ時が過ぎるのを待つだけの空白の空間となっている。インクの匂いも、羊皮紙の乾いた感触も、遠い記憶の彼方だ。

(……また、一日が終わる)

 窓の外では夕陽が森を茜色に染め上げていた。
 息を呑むほど美しい光景のはずなのに、その色彩が俺の心には届かない。
 二百年前。親友カズエルが死んだあの日から、俺の世界はどこか薄い膜が張ったように彩度を失っていた。

 居間に戻るとエルンが温かい夕食を用意して待っていてくれた。
 テーブルには森の恵みをふんだんに使ったサラダと焼きたてのパン、湯気の立つシチューが並んでいる。
 そのかたわらで、ルナとすっかり精悍な青年へと成長したアルヴィンが、何やら魔法理論について熱っぽく議論を交わしていた。

「だからねアルヴィン、炎の魔力はただ大きくすればいいってもんじゃないの! 高密度に圧縮して、一点を焼き切るのが美学なんだって!」

「ですがルナ姉さん、それではエネルギー効率が悪い。父上の遺した理式によれば、広範囲を均一な熱量で飽和させる方が、総消費魔力に対する撃破率は……」

「むぅ、これだから頭でっかちは!」

 ハーフエルフであるアルヴィンは人間よりも遥かに遅く、しかしエルフよりは早い速度で時を重ね、今や父カズエルを彷彿とさせる立派な研究者となっていた。
 微笑ましい光景だ。平和そのものだ。
 だが、俺はその輪の中に、どうしてもうまく溶け込むことができなかった。

「カイン、どうかしましたか? 顔色が……」

 エルンが心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女の翡翠色の瞳には深い愛情と、そして拭いきれない憂いの色が滲んでいる。

 俺は反射的に仮面のような笑みを作った。

「いや、何でもない。少し、昔のことを思い出していただけだ」

 嘘だった。俺は何も考えてなどいない。ただ、胸に開いた空洞を冷たい風が吹き抜けているだけだ。

 ***

 食事を終え、俺は一人、夜の森を歩いていた。
 月明かりが静まり返った木々を銀色に照らし出している。
 この森は何も変わらない。百年前も、二百年前も。そしておそらく、千年後も。

 二百年の時は、多くのものを変えた。
 レオナルドは森の守護者としての役目を次代に譲り、今は自らの道場を開いて若者たちの育成に励んでいる。
 セリスもまた一線を退き、アルヴィンの成長を静かに見守る母となった。
 彼らはそれぞれの時の流れを受け入れ、穏やかに、しかし確実に変化している。
 だが、俺だけが、あの日のまま取り残されている。 

 その時、俺は心の底から理解した。賢者カイランが、かつて俺に語った言葉の真の意味を。

『本来の森とは、人間の感覚で言えば、すぐにでも死にたくなるほどに、退屈なものだ』

 それは単なる暇などではなかった。
 目的を失い、変化を失い、ただ永劫の時の中を漂い続けること。魂が摩耗し、自分が自分でなくなっていくような、静かなる絶望。
 俺はこの完璧な平和の中で、緩やかに死につつあったのだ。

 ふと、脳裏をよぎる記憶があった。
 この森のいしずえとなるために、自らの命を捧げた大精霊エルメノス。そして、森の未来を俺に託し、去っていった賢者エルドレア。
 かつてはその自己犠牲の精神を、ただ崇高なものだと感じていた。だが、今の俺には彼らの心の奥底にあった別の感情が手に取るように分かる気がした。
 永すぎる生への疲れ。変わらぬ日々への渇き。彼らは未来を託すことで、自らの物語に、終わりという幕を引きたかったのではないか。

(俺は……死に場所を求めているのか?)

 その自問が冷たい刃物のように胸に突き刺さった。平和を愛しているはずなのに、心のどこかで、命を燃やし尽くせるような終わりを渇望している自分がいる。その矛盾が何よりも恐ろしかった。

「カイン」

 背後から衣擦れの音がした。エルンが薄いショールを羽織り、俺の隣に静かに立つ。

「……また、カズエルたちのことを考えていたのですか?」

 その問いに、俺はもう嘘をつく気力が残っていなかった。

「……ああ」

 俺は振り返り、月光に照らされた彼女の美しい顔を見つめた。そして、二百年間、心の奥底に沈殿させていたおりを、初めて言葉にした。

「なあ、エルン。……俺のこの身体はエルフだが、魂は、やっぱり人間なんだと思い知らされたよ」

「カイン……?」

「二百年だ。カズエルが亡くなってから、もう二百年が過ぎた。お前たちにとっては人生の季節が二つ三つ巡った程度の時間かもしれない。だが俺にとっては……あまりにも永すぎた」

 俺は自分の震える手を見た。

「人間の寿命は百年にも満たない。その先があるなんて、考えたこともなかった。毎日が同じことの繰り返し……戦いも、危機も、大きな変化もないこの穏やかな日々が、人間である俺の心を少しずつ殺していくのが分かるんだ。……俺はこの果てしない時間をどうやって生きていけばいいのか、分からなくなってきている」

 それは賢者でも英雄でもない、ただの竹内悟志としての、魂の悲鳴だった。

 エルンは俺の告白を身じろぎもせずに聞いていた。
 やがて彼女は俺の冷たくなった手を、その両手でそっと包み込んだ。

「……ええ。私には、あなたのその痛みの本当の深さは分からないのかもしれません。私たちは永い時を生きることに慣れすぎていますから」

 彼女の声は静かだったが、その瞳には海のような深い受容と、揺るぎない愛情が宿っていた。

「ですが、カイン。一つだけ忘れないでください。あなたは一人ではありません」

 彼女は一歩、俺に近づき、その体温を伝えてくる。

「あなたが人間としての心を持つからこそ、私たちは救われました。その心が、時の流れに悲鳴を上げているのなら……私があなたの隣でその手を引き続けます。千年でも、一万年でも。……あなたがあなたを見失わないように」

 その、あまりにも温かい言葉。
 俺は目頭が熱くなり、喉が詰まって何も答えられなかった。ただ、彼女が握ってくれた手の温かさだけを頼りに、強く握り返した。
 しばらくそうしていると、エルンは俺の心を察したように、ふわりと微笑んだ。

「……今夜は冷えます。あまり、長く外にいてはなりませんよ」

 そう言い残し、彼女は静かに賢者の住居へと戻っていった。その背中には、俺を一人にして考える時間を与える優しさと、それでもなお拭いきれない憂いがにじんでいた。

 残された俺は天を仰いだ。星々は二百年前と何も変わらず、ただ冷たく輝いている。
 俺が命を懸けて守ったはずの、この平和な世界。
 それが今、俺を閉じ込める美しくも残酷な檻となって、その壁の冷たさだけを俺に突きつけていた。
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