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最終章 零(ゼロ)の賢者
第309話 揺らぐ正義
賢者の住居の書斎は深夜の静寂に満ちていた。
かつては仲間たちの声や、古文書をめくる音で満たされていたこの場所も、今では俺一人の重い沈黙が支配している。
窓の外では月光が森を青白く照らし出していた。
(……俺は間違っていたのか……?)
その問いがここ数十年、鉛のように重く心にのしかかっている。
水晶球を通して見た人間領の姿。活気を失い、富める者はさらに富み、貧しい者は希望すら持てずに生きる緩やかな腐敗。それは俺が憎んだ元の世界――あの閉塞感に満ちた現代社会の縮図そのものだった。
争いをなくした代わりに、俺はこの世界から変化という名の熱を奪ってしまったのではないか。
その、答えの出ない問いに苛まれ、俺の足は自然と書斎の隣にある客室へと向かっていた。
そこには今、アルヴィンが来ているはずだ。
扉を叩くと、「どうぞ」という落ち着いた声が返ってくる。
部屋の中は彼の父であるカズエルが使っていた頃と変わりなかった。
その中心で、アルヴィンは父の遺した書物を静かに読み解いていた。
「……賢者殿。まだ起きておられましたか」
俺の姿を認めると、アルヴィンは書物を閉じ、静かに立ち上がった。
その背筋は剣士らしく伸び、どこまでも礼儀正しい。だがその距離感が、今は少しだけ寂しくもあった。
「いや……少し、お前の考えが聞きたくなってな」
俺は部屋の椅子に腰を下ろした。
「アルヴィン。お前は聡明だ。父君から多くの知識を学び、母君からこの森の心を受け継いだ。……そんなお前から見て、今のこの世界はどう映る?」
俺の、あまりにも漠然とした問い。
だが、アルヴィンはその問いの裏にある俺の苦悩を正確に読み取っていたようだった。
彼はしばらくの間、窓の外に広がる完璧なまでに平穏な森を見つめていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……美しい、と思います。そして、……悲しいほどに、静かすぎるとも」
その答えは俺の心を静かに、しかし深く抉った。
「父上はよく話してくれました。あなた方、英雄たちが、いかにしてこの平和を勝ち取ったのか。その戦いはあまりにも壮絶で尊いものだったと。……ですが」
彼は俺の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳は父カズエルのように全てを見透かすような、鋭い光を宿していた。
「父上なら、きっとこうも考えたでしょう。平和とはゴールではない。次なる時代へと向かうためのスタートラインに過ぎないと」
「……」
「今の世界はあまりにも長くそのスタートラインに立ち尽くしているように見えます。誰もがゴールテープを切った後の心地よい疲労感に浸り、次の一歩を踏み出すことを忘れてしまっている」
アルヴィンの言葉は刃のように、俺が目を背けていた現実を切り裂いていく。
「賢者殿。あなたは自らがセイオンを討ったことを後悔しておられるのですか?」
「……後悔ではない。だが、迷っている」
俺は正直な気持ちを吐露した。
「奴の思想は狂気だ。だが、奴が言っていた、行き過ぎた秩序は腐敗を生むという言葉だけが、二百年の時を経て、まるで真実であったかのように俺の心を縛るんだ……」
「これは父上の受け売りなのですが」
アルヴィンは静かに、しかし揺るぎない確信を込めてその言葉を紡いだ。
「問題があるのなら解決策を探せばいい。既存のルールで解決できないのなら新しいルールを作ればいい、と。……父上はそういう人でした」
アルヴィンの声に熱がこもる。
「世界の理そのものを、より良いものへと書き換えるためなら、いかなる努力も惜しまない。……時には既存の秩序を自らの手で破壊してでも」
その言葉が雷撃のように俺の魂を貫いた。ああ、そうだ。松尾とはそういう男だった。
諦めることを知らない。常に最適解を探し続ける。そのために常識という名の壁をいとも容易く乗り越えていく。
俺は親友の死という喪失感と、長すぎた平和に浸りすぎて、その最も大切な本質を忘れかけていたのだ。
「……ありがとう、アルヴィン」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「お前の言葉で、少しだけ霧が晴れた気がするよ」
「いいえ。私は父上から聞いた話をお伝えしただけです」
アルヴィンは静かにそう言って一礼した。その表情には役割を果たした者の安堵がにじんでいた。
俺は彼の部屋を後にした。だが、俺の心はもはや、以前のようには静まっていなかった。
アルヴィンの言葉が、停滞していた俺の思考に新たな、そして危険な火を灯したのだ。
既存の秩序を破壊してでも、前に進む。その、あまりにも魅力的で、そしてあまりにもセイオンの思想に近い言葉が、俺の中で大きな渦となってざわめき始めていた。
かつては仲間たちの声や、古文書をめくる音で満たされていたこの場所も、今では俺一人の重い沈黙が支配している。
窓の外では月光が森を青白く照らし出していた。
(……俺は間違っていたのか……?)
その問いがここ数十年、鉛のように重く心にのしかかっている。
水晶球を通して見た人間領の姿。活気を失い、富める者はさらに富み、貧しい者は希望すら持てずに生きる緩やかな腐敗。それは俺が憎んだ元の世界――あの閉塞感に満ちた現代社会の縮図そのものだった。
争いをなくした代わりに、俺はこの世界から変化という名の熱を奪ってしまったのではないか。
その、答えの出ない問いに苛まれ、俺の足は自然と書斎の隣にある客室へと向かっていた。
そこには今、アルヴィンが来ているはずだ。
扉を叩くと、「どうぞ」という落ち着いた声が返ってくる。
部屋の中は彼の父であるカズエルが使っていた頃と変わりなかった。
その中心で、アルヴィンは父の遺した書物を静かに読み解いていた。
「……賢者殿。まだ起きておられましたか」
俺の姿を認めると、アルヴィンは書物を閉じ、静かに立ち上がった。
その背筋は剣士らしく伸び、どこまでも礼儀正しい。だがその距離感が、今は少しだけ寂しくもあった。
「いや……少し、お前の考えが聞きたくなってな」
俺は部屋の椅子に腰を下ろした。
「アルヴィン。お前は聡明だ。父君から多くの知識を学び、母君からこの森の心を受け継いだ。……そんなお前から見て、今のこの世界はどう映る?」
俺の、あまりにも漠然とした問い。
だが、アルヴィンはその問いの裏にある俺の苦悩を正確に読み取っていたようだった。
彼はしばらくの間、窓の外に広がる完璧なまでに平穏な森を見つめていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……美しい、と思います。そして、……悲しいほどに、静かすぎるとも」
その答えは俺の心を静かに、しかし深く抉った。
「父上はよく話してくれました。あなた方、英雄たちが、いかにしてこの平和を勝ち取ったのか。その戦いはあまりにも壮絶で尊いものだったと。……ですが」
彼は俺の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳は父カズエルのように全てを見透かすような、鋭い光を宿していた。
「父上なら、きっとこうも考えたでしょう。平和とはゴールではない。次なる時代へと向かうためのスタートラインに過ぎないと」
「……」
「今の世界はあまりにも長くそのスタートラインに立ち尽くしているように見えます。誰もがゴールテープを切った後の心地よい疲労感に浸り、次の一歩を踏み出すことを忘れてしまっている」
アルヴィンの言葉は刃のように、俺が目を背けていた現実を切り裂いていく。
「賢者殿。あなたは自らがセイオンを討ったことを後悔しておられるのですか?」
「……後悔ではない。だが、迷っている」
俺は正直な気持ちを吐露した。
「奴の思想は狂気だ。だが、奴が言っていた、行き過ぎた秩序は腐敗を生むという言葉だけが、二百年の時を経て、まるで真実であったかのように俺の心を縛るんだ……」
「これは父上の受け売りなのですが」
アルヴィンは静かに、しかし揺るぎない確信を込めてその言葉を紡いだ。
「問題があるのなら解決策を探せばいい。既存のルールで解決できないのなら新しいルールを作ればいい、と。……父上はそういう人でした」
アルヴィンの声に熱がこもる。
「世界の理そのものを、より良いものへと書き換えるためなら、いかなる努力も惜しまない。……時には既存の秩序を自らの手で破壊してでも」
その言葉が雷撃のように俺の魂を貫いた。ああ、そうだ。松尾とはそういう男だった。
諦めることを知らない。常に最適解を探し続ける。そのために常識という名の壁をいとも容易く乗り越えていく。
俺は親友の死という喪失感と、長すぎた平和に浸りすぎて、その最も大切な本質を忘れかけていたのだ。
「……ありがとう、アルヴィン」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「お前の言葉で、少しだけ霧が晴れた気がするよ」
「いいえ。私は父上から聞いた話をお伝えしただけです」
アルヴィンは静かにそう言って一礼した。その表情には役割を果たした者の安堵がにじんでいた。
俺は彼の部屋を後にした。だが、俺の心はもはや、以前のようには静まっていなかった。
アルヴィンの言葉が、停滞していた俺の思考に新たな、そして危険な火を灯したのだ。
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