50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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最終章 零(ゼロ)の賢者

第311話 闇の理を識る者

「カイン!!」

 書斎の扉が勢いよく開け放たれる音で、俺の意識はわずかに現実へと引き戻された。
 だが、視界は悪い。部屋の中はすでに俺自身の体から噴き出したどす黒いもやで埋め尽くされ、異界と化していたからだ。

 俺は床に膝をつき、頭を抱えてうずくまっていた。

 身体の奥底から破壊への渇望がマグマのように込み上げてくる。それを必死に理性の壁でせき止めようとするが、魂がきしむような音が頭の中で響き続けていた。

「う、あぁぁぁ……ッ!」

 口から漏れるのは言葉にならない苦悶の叫びだ。来るな。ここは危険だ。そう叫びたいのに、喉が痙攣して声が出ない。

「しっかりしてください!」

 エルンだ。彼女は肌を焼くような禍々しい魔力の奔流に、一瞬息を呑んだようだったが、次の瞬間にはためらうことなく俺へと駆け寄ってきた。

 彼女が杖を構え、渾身の魔力を練り上げる気配がする。

「光の精霊ルミナよ、我が魔力を代償に彼の魂を守りたまえ――聖なる加護サンクチュアリ!」

 白銀の光がカインを包み込もうとする。

 だが、カインの身体から溢れ出す黒いもやは、その聖なる光をまるで異物として拒絶するかのように弾き返した。

 バヂィッ!!

「きゃあッ!?」

 衝撃波が走り、エルンがたたらを踏む音が聞こえた。

「くっ……! これはただの魔力の暴走じゃない……。魂そのものが光を拒んでいる……!?」

 エルンの悲痛な声が遠くに聞こえる。

 ああ、すまない、エルン。俺の絶望はそれほどまでに深かったらしい。平和という名の停滞。自分が成し遂げたことへの疑念。それらが二百年かけて熟成され、破壊の衝動となって爆発しようとしている。

 黒いもやが鎌首をもたげ、俺の意識を完全に飲み込もうとした、その時だった。

『――静かにしろ』

 その声は雷鳴のように俺の魂を打ち抜いた。

 甘美な闇のささやきも、暴れ狂う魔力の奔流も、そのあまりにも絶対的な響きの前では、まるで主人の前でかしこまる犬のように、ぴたりと動きを止めた。

 一瞬の静寂。

 恐怖にも似た敬意と共に黒いもやがすっと内側へ収まっていくのを感じながら、俺の意識は深い水底へと沈んでいった。

 ***

 私はゆっくりと顔を上げた。

 糸が切れたように身体から力が抜けていく。だが、それは虚脱感ではない。魂の主導権が完全に、そして不可逆的に私へと移り変わったことによる静かな変化だ。

 私は立ち上がった。

 身体の感覚を確かめる。悪くない。二百年の眠りはこのからだをむしろ馴染ませたようだ。
 これまでの彼が持っていた人間臭い不器用さや迷いなど微塵もない。まるで水が流れるかのように自然で、無駄のない完璧な所作で、私は伏せていたまぶたを持ち上げた。

「……カイン……?」

 目の前にいるエルフの娘――エルンが私の変化に戸惑いの声を上げる。
 彼女が見ている私の瞳はもうカインの温かみのある黒色ではないだろう。深く静かで、星の運行すら見通すかのような叡智を湛えた蒼い光。
 そして、全身から放たれる気配は絶対的な静寂そのもの。

「……少々、眠りすぎたか」

 私の口から低く落ち着き払った声が漏れた。

「……カイラン、様……?」

「ああ」

 私は静かにうなずくと、自らの掌を確かめるようにゆっくりと開閉した。指先まで魔力が完全に通っている。

「二百年。闇の大精霊ノクスとの契約をただ眠って受け入れるだけでは芸がない。私はその間、奴のことわりを内側から解析し、完全に解き明かすことにした。……闇とは何か。静寂とは何か。その答えを、ようやくこの身に得ることができたのだ」

 私はもはや、かつての光の賢者ではない。
 闇のことわりり、その在りようを完全に掌握した超越者。
 二百年という永い内なる瞑想は私を全く新しい存在へと変貌させていた。
 私はカインの心の中で起きていた嵐の正体を怯えるエルンに淡々と解説してやった。

「先ほどの暴走はノクスの意志ではない。この男――カインの絶望と変化への渇望が、契約の力を触媒として形を成したに過ぎん。魂の奥底に眠る純粋な願い。それこそが闇の本質なのだよ」

 エルンが息を呑むのが分かる。

 彼女は目の前の私が、自らが知るかつての私とは全く別の次元に至っていることを肌で感じ取っているのだろう。

 私は窓の外で荒れ狂う嵐を静かな瞳で見つめた。そして、指を一本、軽く振るう。
 それだけで、大気中のマナが強制的に整列し、窓の外の暴風雨が嘘のように止んだ。雲間から月光が差し込む。
 世界そのものに命令を下す。今の私にはそれくらいのことは造作もない。

「だが、彼の苦悩も理解できる。この停滞した世界は確かに醜い」

 私は月光を浴びながら、ゆっくりとエルンに向き直った。

「故に対話が必要だ。この身体に宿る、もう一人の賢者と。……そして、この世界の未来をどう再構築デザインしていくべきか決めねばなるまい」

 私の声には揺るぎない意志が宿っていたはずだ。

 エルンはその圧倒的な存在感を前に、ただ平伏しそうになるのをこらえ、祈るように私を見つめることしかできていなかった。

 二百年の沈黙を破り、真の賢者が今、この森に再び降臨したのだ。
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