50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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最終章 零(ゼロ)の賢者

第312話 二人の賢者の対話

 賢者の住居の書斎。
 先刻まで窓を打ちつけていた激しい嵐は嘘のように去っていた。
 雲間から差し込む穏やかな月光が、静まり返った室内を青白く照らし出している。

 俺の身体は俺の意志とは無関係に動いていた。
 まるで特等席で極上の演劇を見せられているかのような不思議な感覚だ。
 俺の身体を借りて顕現したもう一人の賢者――カイラン・フェルシスは、まるで衣についた埃を払うかのような気軽さで、俺から溢れ出していた禍々しい気配を霧散させた。そして、俺の心の中で荒れ狂っていた絶望の嵐を、ただ一言、『静かにしろ』という意志だけで鎮めてみせたのだ。

 エルンが息を呑んでこちらを見つめているのが分かる。
 カイランの蒼い瞳を通して見る彼女の姿はどこか懐かしく、そして愛おしかった。

「……少々、眠りすぎたか」

 俺の口が勝手に動き、俺のものではない、深く落ち着いた声が紡がれる。
 その圧倒的な格の違いを見せつけられながら、俺の意識は身体の主導権を彼に預けたまま、魂の深層へと深く潜っていった。

 ***

 そこは光も闇もない純粋な思考だけの空間だった。
 上下の感覚すらない虚無の中で俺は膝を抱えていた。
 目の前に光の粒子が集まり、人の形を成す。俺と同じ姿、けれど決定的に違う威厳を纏った男。カイランが静かにそこに立っていた。

『……二百年の停滞は人間であるお前の魂には、あまりに毒が強すぎたか』

 カイランが語りかけてくる。その声には嘲笑の色はなく、むしろ親が子を諭すような慈愛がにじんでいた。

「……お前には分かるのか。この、どうしようもない虚しさが」

『ああ、分かるさ。私もまた、かつて永劫の孤独と退屈から逃れるために、異世界からお前を呼んだのだからな』

 彼は自嘲気味に笑い、そして真剣な眼差しで俺を見据えた。

『だが、カインよ。お前が今、囚われようとしているその絶望は、かつての宿敵・セイオンが望んだものと何ら変わりはないぞ』

「……なんだって?」

 俺は顔を上げた。

『セイオンの思想を思い出せ。行き過ぎた秩序は停滞を生み、停滞は緩やかな腐敗だと。お前は今、その言葉を真実だと受け入れ、彼と同じ結論――破壊による再生を選ぼうとしていた。違うか?』

 カイランの指摘は俺の心の最も痛い部分を容赦なくえぐった。
 そうだ。俺は二百年の時を経て、俺が討ち果たしたはずの敵と同じ場所に立ち、同じ過ちを犯そうとしていたのだ。

「じゃあ、どうしろって言うんだ! このまま世界が腐っていくのを、ただ指をくわえて見ていろと言うのか! 俺には……耐えられない!」

 俺の魂の叫びにカイランは静かに首を横に振った。

『誤解するな。私はセイオンの出した問い自体は間違っていないと言っている。だが、彼の出した答えは下劣だ』

「下劣……?」

『セイオンは世界の進化などという大義を掲げていたが、その本質は違う。彼はただ、自らの知的好奇心を満たすためだけに、この世界を壮大な実験場としか見ていなかった。停滞は悪だが、混沌による強制的な進化は善である……そんなものは彼の加虐的な趣味を正当化するための詭弁に過ぎん』

 カイランはかつての協力者であった男の本質を冷徹に断じた。

『そして、カイン。最も危険なのは、今のままで闇に堕ちるお前自身だ』

「……俺が?」

『ああ。お前にはセイオンと違い、民を想う心がある。だからこそ厄介なのだ。お前が正義のために破壊を行えば、それは誰にも止められない聖戦となる。お前はこの世界で最も慈悲深く、そして最も残酷な魔王になるだろう』

 その言葉に俺は戦慄した。平和を守るための力が平和を壊すための刃になる。その境界線はあまりにも脆い。

『破壊などという安易な道に逃げるな、カイン』

 カイランが俺の胸を指差した。

『お前の友人の息子……アルヴィンと言ったか。彼がお前に望んだ行為。それは破壊ではなく更新だ』

「……更新」

『そうだ。光の秩序を保ったまま、闇の力で熱を注ぐ。既存の世界を壊すのではなく、土台とした上で、より高次な世界へと書き換えるのだ。……それはセイオンが選ばなかった、そしてお前だけが選べる第三の道だ』

 俺の中で霧が晴れていくような感覚があった。
 停滞か混沌か。その二択ではない。 俺たちが目指すべきはその先にある進化だ。

『我々は二人で一人の賢者だ。私が理を担おう。だからお前はその人間らしい情熱で世界を動かせ。……できるな?』

 カイランが手を差し出してくる。俺はその手を強く握り返した。

「……ああ。やってやるさ」

 カイランは満足げに微笑むと、その姿が光の粒子となって俺の魂に溶け込んでいった。

 ***

 ふわり、と意識が浮上する。
 カイランの蒼い瞳の光が、すっとその奥へと沈んでいくのを感じた。
 身体が一度だけ大きく揺らめき、次に目を開いた時――そこにあったのはいつもの、しかし以前より遥かに澄んだ視界だった。

「……カイン……?」

 エルンが、おずおずと俺の名を呼ぶ。俺は彼女に向かって、ニッと笑って見せた。

「……ああ。心配かけたな、エルン。もう大丈夫だ」

 俺の心の中にカイランの存在が確かに感じられる。
 彼はもう眠ってはいない。俺の背中を支える最強の相棒として共に在る。
 俺は窓の外の月を見上げた。

「エルン。俺は決めたよ。……この世界を更新しに行く」

 その言葉にエルンの瞳から涙が溢れ出した。それは悲しみの涙ではない。彼女が待ち望んでいた英雄の帰還を喜ぶ涙だった。
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