50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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最終章 零(ゼロ)の賢者

第318話 零(ゼロ)の誕生

 エルフェンリートの森に背を向け、俺たちは人間領へと続く荒野を歩いていた。

 エルンは森の守護者として、そして俺たちがいつでも帰ってこられる家を守る者として故郷に残った。
 彼女は別れ際に涙を見せず、ただ賢者である俺への絶対的な信頼を込めた聖母のような笑みで送り出してくれた。
 その温かい残像を胸に、俺は新たな仲間たちと共に修羅の道を行く。

 俺の隣を歩くのは、真紅の衣装をなびかせるルナと、母の剣を携えたアルヴィン。
 俺たち三人はもはやただの冒険者ではない。この停滞し、腐敗した世界に健全なざわめきを取り戻すための執行者だ。

 ***

 最初の目的地はロルディア王国の南方に位置する港町、ポルトス。
 活気ある貿易港として知られるこの街は、その華やかな光の裏で、王国で最も深く、暗い闇を抱えている場所でもあった。

「……ここが最初の標的の巣窟か」

 俺は丘の上から、港に停泊する豪華な商船と、そのすぐ隣に広がるドブ川のようなスラム街を冷たい目で見下ろした。
 今回の標的はこのポルトスを裏で牛耳る王国最大の奴隷商、ボルジア商会。
 表向きは真っ当な貿易商を装いながら、裏では借金に苦しむ貧しい民を騙し、家族ごと商品として売りさばく、この世の癌細胞だ。

「アルヴィン、調査は済んでいるな」

「はい、賢者殿」

 アルヴィンは父カズエル譲りの明晰な頭脳で調べ上げた羊皮紙を広げた。そこには商会の金の流れ、警備体制、そして奴隷たちが囚われている地下牢獄の構造までもが完璧に記されていた。

「警備は厳重です。特に商会長ボルジアの私室と地下牢獄へ続く道は、高額で雇われた私兵団が昼夜を通して固めています」

「うん。それにね、カイン」

 ルナが黄金の瞳を細め、鼻に皺を寄せた。

「あの屋敷、すごく嫌な感じがする。たくさんの人が暗い場所で泣いてるの。心がぎゅーって押しつぶされそうなのがここまで伝わってくるよ」

 彼女の感覚はどんな探知魔法よりも正確に悪意を捉える。

 俺は静かに魂の内側にいるもう一人の賢者に語りかけた。

(……カイラン。どう思う?)

『典型的な循環不全だ。富と労働力を不当に溜め込み、社会の血流を阻害している。……剪定に値する』

 二人の賢者の意見は一致した。

 俺たちは動き出す。ただし、無秩序に暴れるのではない。あくまで警告を与え、彼らに選択の機会を与えた上で、裁きを下すのだ。
 俺は懐から一枚の黒い羊皮紙を取り出し、警告文を認めようとした。

 その時だ。

「ねえ、ちょっと待ってカイン」

 横から覗き込んでいたルナが不満げに口を尖らせた。

「差出人の名前、どうするの? まさか世界更新チームって書くつもり?」

「む? そのつもりだが……。分かりやすくて良い名前だろう?」

「ダサい。すっごくダサいよそれ!」

 ルナの直球すぎるダメ出しに俺は筆を止めて固まった。

 ダサいのか。結構気に入っていたんだが……。

「なんかこう、役所の手続きみたいで全然怖くないし、ワクワクしないもん。もっとこう、正体不明の強者感というか、闇の組織っぽいカッコいい名前がいい!」

「闇の組織っぽい名前、か……」

 俺が唸っていると、それまで黙考していたアルヴィンが、眼鏡の位置を直しながら口を開いた。

「……では、ゼロというのはどうでしょうか」

「ゼロ?」

「はい。私たちの警告に従わなければ、彼らが積み上げてきた富も、権力も、全て失われる。全てを無に還し、ゼロにする執行者……という意味を込めて」

 アルヴィンの提案に俺は思わず膝を打った。

「……なるほど。始まりでもあり、終わりでもある数字。全てを無に還す者、か。……それはまた、カッコいいな」

 俺の中の少年心が疼く響きだ。ルナも「それなら合格!」と親指を立てている。

「よし、採用だ。今日から俺たちはゼロだ」

 俺は羊皮紙の末尾に署名の代わりに一つの紋様を描いた。始まりも終わりもない、完全なる円環。

 『ゼロ』の印を。

 ***

 その夜。
 ボルジア商会の主、肥え太った男ボルジアは自室の豪華な椅子にふんぞり返り、上質なワインを味わっていた。
 彼の前には今日競り落としたばかりの幼い奴隷の少女が震えながら立っている。

「ふん。悪くない。今宵の慰みものにはちょうどいいだろう」

 彼がその脂ぎった手を少女へと伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。

 ズズズ……ッ。

 重厚なマホガニーの机から、突如として黒い影が湧き上がった。影は瞬く間に凝固し、一枚の黒い羊皮紙となって実体化する。

「……な、なんだ……!?」

 ボルジアは驚き、椅子から転げ落ちそうになった。

 羊皮紙には血のように赤いインクで、ただ一行だけこう記されていた。

『その行いを改め、三日以内に汝が囚えし全ての魂を解放せよ。さもなくば、汝は富も、権力も、その命さえも……無へと還ることになるだろう』

 そして署名の代わりに、あの円環の紋様が妖しく輝いていた。

「……ふ、ふざけおって……!」

 ボルジアは最初こそ狼狽うろたえたものの、すぐにその顔を怒りに歪ませ、羊皮紙をくしゃくしゃに丸め捨てた。

「どこのどいつだか知らんが、この俺を脅すとはいい度胸だ! おい、警備を固めろ! どんなネズミだろうと一匹たりともこの屋敷に入れるな!!」

 彼はその警告を一笑に付し、自らの築き上げた富と権力が何者にも揺るがされることはないと信じて疑わなかった。
 それが彼の人生最後の、そして最大の過ちだった。

 ***

 そして、三日後の夜。
 月明かりもない漆黒の闇の中。俺たち三人はボルジアの屋敷を見下ろす教会の鐘楼しょうろうに立っていた。

「……彼は俺たちの警告を無視した」

 眼下に見える屋敷は松明の明かりで昼間のように照らされ、数百人の傭兵が蟻のように巡回している。彼らは力の誇示を選んだのだ。

 俺の言葉にカイランが魂の内側で冷徹に応える。

『慈悲の期間は終わった。これより先は剪定の時間だ』

 俺は静かにうなずいた。
 これから俺たちが為すことは、法に基づいた正義ではない。俺たちのエゴによる一方的な断罪だ。
 だが、誰かがやらねば、この腐敗は止まらない。
 俺は闇に染まる港町を見下ろし、仮面のような冷たい表情で新たな組織の名を口にした。

「――我々はゼロ。この世界の理不尽を無に還す者だ」

 俺の手から放たれた魔法の光が夜空に音もなく吸い込まれていった。

 開戦の合図だ。
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