50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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最終章 零(ゼロ)の賢者

第319話 謎の義賊

 警告から三日目の夜。
 港町ポルトスはいつもと変わらぬ潮の香りと、船乗りたちの陽気な喧騒に包まれていた。
 だがその一画、ボルジア商会の壮麗な屋敷だけは異様なほどの緊張感に満ちていた。

「――どうした! まだ、あの不届き者は現れんのか!」

 商会長ボルジアは自室の窓から眼下の庭を睨みつけ、苛立たしげに叫んだ。

 三日前の夜、彼の机に突如として現れたあの不気味な警告文。彼はそれを一笑に付し、ポルトス中の腕利きの傭兵を金で雇い、屋敷を鉄壁の要塞へと変えていた。
 庭には篝火かがりびが焚かれ、屋根の上には弓兵が配置されている。彼の富と権力の象徴であるこの屋敷に、ネズミ一匹忍び込む隙間などないはずだった。

「ふん、ただの悪戯か、あるいは俺の財産を妬んだどこぞの馬鹿の仕業か。……どちらにせよ現れたが最後、ミンチにしてくれるわ」

 彼はワインをあおり、自らの権勢を再確認するように満足げな笑みを浮かべた。
 だが、彼は気づいていなかった。その鉄壁の警備網を一匹の小さな影がいとも容易くすり抜けていたことに。

 ***

 屋根裏の梁の上を音もなく駆け抜ける小さな金色の影。ルナが変身した小狐の姿だった。
 彼女は獣人としての野生の勘と、魔法による気配遮断を駆使し、傭兵たちの死角を縫うように進んでいく。壁の僅かな隙間を通り抜け、屋敷の内部構造と警備体制をその鋭敏な五感で完璧に把握していた。
 一通りの偵察を終えた彼女は再び影に紛れて屋敷を脱出すると、待機場所である教会の鐘楼へと風のように駆け戻った。

「――カイン! アルヴィン!」

 鐘楼の暗がりに飛び込んできたルナは、ポンッと人の姿に戻り、的確に報告を始めた。

「地下牢獄はやっぱり厨房の地下。見張りは二人で、鍵は腰にぶら下げてる。会長室の周りには特に強そうなのが五人。……でも、みんなちょっと油断してるみたい」

「お疲れ様、ルナ姉さん。完璧な情報だ」

 アルヴィンは地図の上に、ルナからもたらされた情報を素早く書き込んでいく。敵の配置、巡回ルート、そして死角。
 彼の頭の中で、完璧な潜入と離脱の計画が瞬時に構築されていった。

「……賢者殿。準備は整いました」

 アルヴィンは隣で静かに目を閉じていた俺――カインに声をかけた。

 俺はゆっくりと目を開く。魂の内側で、もう一人の賢者が静かにうなずくのが分かった。

(……カイラン。行くぞ)

『うむ。手筈通りにな』

 俺は闇に染まる港町を見下ろした。

 俺の意志に応え、魂の奥底でカイランの意識が浮上する。俺は身体の主導権を静かに明け渡した。
 俺の瞳が一瞬だけ彼の持つ深い蒼色に変わる。

「――空間転移」

 カイランの冷徹な声が俺の唇を通して響いた。その瞬間、俺とアルヴィンの身体が音もなく影に溶けるように消えた。

 次の瞬間、俺たちはボルジアの屋敷、その地下牢獄の最も警備が手薄な通路の隅に立っていた。すぐに身体の感覚が俺に戻る。

「……すごいな。これが闇の賢者の……」

 アルヴィンが息を呑む。

 俺は彼に目配せすると、牢獄の見張りがいる方向を指差した。心の中で強く意志を固める。

(――奴らの記憶を一時的に奪う)

 その意志に呼応し、再びカイランが魂の表層へと現れる。俺の瞳が深い蒼色に染まった。

「――短期記憶消去」

 カイランの静かな声が響く。それはただの言葉ではない。彼の叡智によって構築され、俺の魔力を代償として引き金を引かれた、絶対的な魔術の行使だった。

 目に見えない魔力の波が、二人の見張りの脳に静かに、そして深く浸透していく。

「……あれ? 俺はここで何を……?」

「……なんだかひどく眠いな……」

 二人の見張りは自らが誰で何をしているのか、その記憶の一切を一時的に失い、その場に崩れ落ちるように深い眠りへと落ちていった。

 主導権が俺に戻り、蒼かった瞳も元の色を取り戻す。
 アルヴィンが見張りの腰から鍵を抜き取り、牢獄の扉を一つ、また一つと開けていく。
 中に囚われていたのは、十数人の痩せこけた奴隷たちだった。子供も、老人もいる。その瞳にはもはや希望の光すらなかった。

 俺は彼らに近づき、ただ一言、静かに告げた。

「――道は開かれた」

 それだけを言うと、俺たちは彼らに背を向けた。

 彼らの手枷と足枷はすでにアルヴィンが切り落としている。あとは彼らが自らの足で歩き出すだけだ。
 全ての牢の鍵を開け終えた後、俺たちは最後の仕事に取り掛かった。
 屋敷の最上階、商会長ボルジアの私室。
 俺とアルヴィンは再び音もなくその部屋の影の中に姿を現した。

「……な、貴様ら、どこから……!?」

 ボルジアは驚愕に目を見開き、椅子から転げ落ちる。

 俺はそんな彼をただ冷たい目で見下ろした。

「お前は俺たちの警告を無視した。……それが、お前の犯したたった一つの、そして最後の過ちだ」

「ひっ……! や、やめろ……! 金ならいくらでも……!」

ゼロからやり直せ」

 俺は彼にそっと手をかざした。

(――全てを無に還す。だが、それは終わりじゃない。始まりだ)

 俺の瞳が三度蒼く染まる。その奥には罰を与える者の冷徹さだけでなく、やり直しの機会を与える者の、静かな願いが宿っていた。

「――全記憶抹消」

 カイランの冷徹な声が響き、闇の力が彼の魂を洗い流していく。

 富への執着、人を見下す傲慢さ、積み重ねてきた悪行の記憶。彼をボルジアという悪徳商人たらしめていた全ての記憶が綺麗さっぱりと消え去っていく。
 それは魂を喰らう行為ではない。穢れを浄化し白紙の状態へと戻す、ある種の救済だった。

「……ここは……どこだ……?」

 ボルジアの瞳から理性の光と共に悪意も消えた。

 彼は豪華な自室を初めて見る場所のようにきょろきょろと見回し、ただ子供のように純粋な困惑を浮かべていた。

 ***

 翌朝。
 ポルトスの街は前代未聞の騒動に揺れていた。
 ボルジア商会の地下牢獄はもぬけの殻となり、囚われていたはずの奴隷たちは忽然と姿を消した。屋敷の金庫にあったはずの莫大な富も綺麗さっぱり消え失せていた。
 そして、商会長ボルジアは全てを忘れ、ただ人の良い、しかし何も知らない男として、スラム街の炊き出しに並んでいるのが発見された。
 解放された奴隷たちは、なぜ自分たちが自由になれたのか、誰が助けてくれたのか、何も分からなかった。
 ただ、悪徳商人が一夜にしてその全てを失ったという不可解な事実だけが街に残された。

 やがて、同様の事件がロルディア王国の各地で次々と発生し始める。
 人々はその正体不明の存在を、畏怖と、そして密かな期待を込めてこう呼ぶようになった。

 ゼロ、と。
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