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最終章 零(ゼロ)の賢者
第320話 最初の壁
港町ポルトスでの最初の剪定を終えてから、数ヶ月が過ぎた。
謎の義賊、零の噂は風に乗ってロルディア王国の各地へと広がり、虐げられた民衆の間で、密かな希望の灯となっていた。俺たちはその話題の中心として、次なる標的を求めて旅を続けていた。
次なる目的地は王都から西へ向かった場所にある地方都市グレイヘイブン。
広大な麦畑に囲まれたこの街は王国でも有数の穀倉地帯であり、その小麦の集積地として栄えていた。街道沿いには黄金色の穂が波のように揺れ、収穫を間近に控えた豊かな実りが、穏やかな風にそよいでいる。
一見、平和そのものの光景。だが、この豊かさの裏にこそ、最も深い闇が巣食っていることを俺たちは知っていた。
「……見える」
丘の上から街を見下ろしながら、ルナが静かにつぶやいた。
彼女の黄金の瞳には現実の風景ではない、未来の光景が焼き付いている。
それは、あまりにも悲惨なビジョンだった。
「街の大きな倉庫……あそこに小麦が山みたいに積まれてる。でも、誰もそれに手をつけられない。鍵がかかってるから。……みんな、お腹を空かせて死んでいっちゃう……」
ルナの星読の力が未来に起こる悲劇の原因を正確に指し示していた。
この街の穀物取引を独占する巨大商会、金色の麦穂。彼らが来るべき冬を見越して小麦を買い占め、意図的に価格を高騰させることで人為的な飢饉が引き起こされるのだ。
「……父上が生きておられたら、市場原理を悪用した最も悪質な搾取、と断じたでしょう」
アルヴィンが、父カズエル譲りの冷静な目で街の構造を分析する。
「商会の拠点は街の中央にある時計塔のすぐ隣。警備も厳重ですが、金の流れを追う限り、その富は、不当な取引によって得られたものであることに間違いありません」
標的は定まった。
その夜、商会長ゲオルグの執務室の机に、一枚の黒い羊皮紙が音もなく置かれた。
『その行いを改め、三日以内に汝が不当に蓄えた富を民に還元せよ。さもなくば、汝はその全てを失うことになるだろう――零』
だが、ゲオルグはその警告を鼻で笑った。
彼は地方役人を買収し、街の衛兵すらも意のままに操る、この地の影の支配者だった。正体不明の義賊など、彼にとってはただの鬱陶しい虫けらに過ぎない。
***
三日後の夜。
警告が無視されたことを確認した俺たちは行動を開始した。
作戦はこれまで通りだ。ルナの情報収集、アルヴィンの計画立案、そして俺とカイランによる実行。勝利の方程式は完成しているはずだった。
「――空間転移」
カイランの声と共に俺とアルヴィンは商会の巨大な金庫室の影の中に姿を現した。
警備の兵士たちは、カイランの認識阻害によって、自らの役目すら忘れて眠りについている。
「……これが民から搾取した富か」
金庫の中に山と積まれた金貨と宝石を前にアルヴィンが静かな怒りを込めてつぶやいた。
俺はその富の山に静かに手をかざした。
(――汚れた金だ。この世にあってはならない)
俺の瞳が蒼く染まり、カイランが冷徹な声で告げる。
「――虚無転送」
金貨も宝石も、その全てが音もなく影の中へと吸い込まれ、消え失せていった。それはどこかへ転送されたのではない。この世界の理から切り離され、文字通り無へと還されたのだ。
そして、最後の仕上げとして、会長ゲオルグ本人の元へと向かった。
「――全てを無に還す」
俺の瞳が蒼く染まり、カイランの冷徹な声が響く。
ゲオルグの魂から悪行の記憶と富への執着が綺麗さっぱりと洗い流されていった。
***
作戦は完璧に成功したはずだった。
翌朝、金色の麦穂商会は一夜にして機能不全に陥り、その莫大な資産は跡形もなく消滅した。悪徳会長は記憶を失い、ただの老人となった。めでたしめでたし。……そうなるはずだった。
だが、その数日後。俺たちは自らが犯した決定的な過ちに気づかされることになる。
「……どういうことだ……?」
俺は街の広場で繰り広げられる光景に言葉を失った。
そこでは人々がパン屋の前で怒号を上げ、商品を奪い合っていた。
金色の麦穂商会が管理していた巨大な穀物倉庫は主を失い、完全に閉鎖されている。
街のパン屋や食料品店は小麦の供給を断たれ、店頭の在庫は瞬く間に底をついた。
街の経済は金色の麦穂商会という、あまりに巨大な存在によって歪な形で支えられていたのだ。
その柱を俺たちが何の準備もなく、ただ引き抜いてしまった。
結果として、街の穀物流通は完全に麻痺し、人々はパニックに陥っていた。
『……なんということだ』
俺の内側でカイランが呻くようにつぶやいた。
『我々は腐った柱を切り倒すことだけに気を取られ、その柱が屋根を支えていたことを失念していた……。代わりの支えを用意せずに柱を抜けば家が潰れるのは道理だ』
ルナが予知した飢饉。
それは商会の悪行によってではなく、俺たちのあまりに浅はかな正義によって、今まさに引き起こされようとしていた。
「……これが俺たちのやったことの結果……」
俺は目の前の混沌を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
悪を排除する。それは正しいことのはずだ。
だが、ただ悪を消し去るだけでは真の救済にはならない。その悪によって歪められた社会の構造そのものを立て直さなければ意味がないのだ。
俺は世直しの本当の難しさをこの街で初めて痛感させられた。
それは零の前に立ちはだかる、高い現実の壁だった。
謎の義賊、零の噂は風に乗ってロルディア王国の各地へと広がり、虐げられた民衆の間で、密かな希望の灯となっていた。俺たちはその話題の中心として、次なる標的を求めて旅を続けていた。
次なる目的地は王都から西へ向かった場所にある地方都市グレイヘイブン。
広大な麦畑に囲まれたこの街は王国でも有数の穀倉地帯であり、その小麦の集積地として栄えていた。街道沿いには黄金色の穂が波のように揺れ、収穫を間近に控えた豊かな実りが、穏やかな風にそよいでいる。
一見、平和そのものの光景。だが、この豊かさの裏にこそ、最も深い闇が巣食っていることを俺たちは知っていた。
「……見える」
丘の上から街を見下ろしながら、ルナが静かにつぶやいた。
彼女の黄金の瞳には現実の風景ではない、未来の光景が焼き付いている。
それは、あまりにも悲惨なビジョンだった。
「街の大きな倉庫……あそこに小麦が山みたいに積まれてる。でも、誰もそれに手をつけられない。鍵がかかってるから。……みんな、お腹を空かせて死んでいっちゃう……」
ルナの星読の力が未来に起こる悲劇の原因を正確に指し示していた。
この街の穀物取引を独占する巨大商会、金色の麦穂。彼らが来るべき冬を見越して小麦を買い占め、意図的に価格を高騰させることで人為的な飢饉が引き起こされるのだ。
「……父上が生きておられたら、市場原理を悪用した最も悪質な搾取、と断じたでしょう」
アルヴィンが、父カズエル譲りの冷静な目で街の構造を分析する。
「商会の拠点は街の中央にある時計塔のすぐ隣。警備も厳重ですが、金の流れを追う限り、その富は、不当な取引によって得られたものであることに間違いありません」
標的は定まった。
その夜、商会長ゲオルグの執務室の机に、一枚の黒い羊皮紙が音もなく置かれた。
『その行いを改め、三日以内に汝が不当に蓄えた富を民に還元せよ。さもなくば、汝はその全てを失うことになるだろう――零』
だが、ゲオルグはその警告を鼻で笑った。
彼は地方役人を買収し、街の衛兵すらも意のままに操る、この地の影の支配者だった。正体不明の義賊など、彼にとってはただの鬱陶しい虫けらに過ぎない。
***
三日後の夜。
警告が無視されたことを確認した俺たちは行動を開始した。
作戦はこれまで通りだ。ルナの情報収集、アルヴィンの計画立案、そして俺とカイランによる実行。勝利の方程式は完成しているはずだった。
「――空間転移」
カイランの声と共に俺とアルヴィンは商会の巨大な金庫室の影の中に姿を現した。
警備の兵士たちは、カイランの認識阻害によって、自らの役目すら忘れて眠りについている。
「……これが民から搾取した富か」
金庫の中に山と積まれた金貨と宝石を前にアルヴィンが静かな怒りを込めてつぶやいた。
俺はその富の山に静かに手をかざした。
(――汚れた金だ。この世にあってはならない)
俺の瞳が蒼く染まり、カイランが冷徹な声で告げる。
「――虚無転送」
金貨も宝石も、その全てが音もなく影の中へと吸い込まれ、消え失せていった。それはどこかへ転送されたのではない。この世界の理から切り離され、文字通り無へと還されたのだ。
そして、最後の仕上げとして、会長ゲオルグ本人の元へと向かった。
「――全てを無に還す」
俺の瞳が蒼く染まり、カイランの冷徹な声が響く。
ゲオルグの魂から悪行の記憶と富への執着が綺麗さっぱりと洗い流されていった。
***
作戦は完璧に成功したはずだった。
翌朝、金色の麦穂商会は一夜にして機能不全に陥り、その莫大な資産は跡形もなく消滅した。悪徳会長は記憶を失い、ただの老人となった。めでたしめでたし。……そうなるはずだった。
だが、その数日後。俺たちは自らが犯した決定的な過ちに気づかされることになる。
「……どういうことだ……?」
俺は街の広場で繰り広げられる光景に言葉を失った。
そこでは人々がパン屋の前で怒号を上げ、商品を奪い合っていた。
金色の麦穂商会が管理していた巨大な穀物倉庫は主を失い、完全に閉鎖されている。
街のパン屋や食料品店は小麦の供給を断たれ、店頭の在庫は瞬く間に底をついた。
街の経済は金色の麦穂商会という、あまりに巨大な存在によって歪な形で支えられていたのだ。
その柱を俺たちが何の準備もなく、ただ引き抜いてしまった。
結果として、街の穀物流通は完全に麻痺し、人々はパニックに陥っていた。
『……なんということだ』
俺の内側でカイランが呻くようにつぶやいた。
『我々は腐った柱を切り倒すことだけに気を取られ、その柱が屋根を支えていたことを失念していた……。代わりの支えを用意せずに柱を抜けば家が潰れるのは道理だ』
ルナが予知した飢饉。
それは商会の悪行によってではなく、俺たちのあまりに浅はかな正義によって、今まさに引き起こされようとしていた。
「……これが俺たちのやったことの結果……」
俺は目の前の混沌を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
悪を排除する。それは正しいことのはずだ。
だが、ただ悪を消し去るだけでは真の救済にはならない。その悪によって歪められた社会の構造そのものを立て直さなければ意味がないのだ。
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それは零の前に立ちはだかる、高い現実の壁だった。
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