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最終章 零(ゼロ)の賢者
第323話 深淵との茶会
王国騎士団との奇妙な追いかけっこが始まってから数ヶ月が過ぎた。
俺たち、零の活動はより巧妙に、そしてより深く王国の闇へと浸透していた。
ルナの未来予知によって騎士団の包囲網を事前に察知し、アルヴィンの戦術分析で標的の弱点を正確に突く。そして、俺とカイランが光と闇の力でその計画を完璧に遂行する。
民衆の零への支持はもはや熱狂的な信仰に近いものへと変わり、若き国王ライオネルの権威はその足元から静かに、しかし確実に揺らぎ始めていた。
***
その日、俺は一人、エルフェンリートの森の外れにある静かな湖畔に立っていた。
月に一度、こうして密かに森を訪れ、エルンと束の間の言葉を交わすこと。それが、俺の心が闇に堕ちるのを防ぐ、唯一の錨となっていた。
まだ待ち合わせの時間には早い。
鏡のような湖面が空を映し、風が木々の葉を優しく揺らす。このあまりにも穏やかな光景と、俺が身を置く殺伐とした世界の隔たりに、俺はふと乾いた笑みを浮かべた。
「――良い顔をするようになったな、カイン」
その声は背後からではなかった。
まるで最初からそこにいたかのように、俺のすぐ隣、湖畔の岩に腰かけた男の口から静かに放たれた。
漆黒の礼服に月光のごとき蒼白の肌。そして、全てを見透かすような真紅の瞳。
吸血鬼の王、マルヴェス・ブラッドロック。世界最強の魔物の一柱。
かつての俺ならば、その圧倒的な気配に戦慄し、即座に武器を構えていただろう。だが、今の俺は違った。
『……警戒は無用だ』
俺の内側でカイランが静かに、そして余裕を含んだ声で囁く。
『闇の理を解析し、その本質を理解した今なら分かる。彼に敵意はない。……ただのお客様の来訪だ。茶でも出すつもりで構えていろ』
その頼もしい言葉に、俺の身体から余計な力が抜けた。
俺は武器に手をかけることもなく、ただゆっくりと振り返った。
「……何の用だ。俺はお前の機嫌を取るために動いているわけじゃない」
俺の落ち着き払った態度にマルヴェスは意外そうに、しかし嬉しそうに眉を上げた。
「ほう。私の気配に気づきながら、眉一つ動かさぬか。……なるほど、肝が据わったな」
彼は満足げに湖面を眺めた。
「なに、心配せずとも戦いに来たわけではない。ただ、君の働きぶりに感心していたところだ。セイオンを討ち、世界を覆っていたあの醜悪な騒音を終わらせた。その功績、私は高く評価している。おかげで世界は実に美しい静寂を取り戻した」
マルヴェスはそこで言葉を切り、真紅の瞳で俺を見た。
「そして、君が始めたこの新たなざわめき。これもまた、実に興味深い。セイオンのそれとは違い、君の混沌には明確な美学がある。腐敗した部分だけを正確に切り取り、無に還す。……実にエレガントだ」
マルヴェスはそう言うと、何もない空間にそっと手をかざした。
ズズズ……と彼の足元から影が生き物のように伸び、小さなテーブルと二脚の椅子、そして湯気を立てる上質な茶器一式を音もなく形成していく。
「まあ、立ち話もなんだ。茶でもどうかな?」
その人知を超えた魔法制御。だが、俺 (カイラン)の目にはその術式の構成が手に取るように見えていた。
俺たちは影で作られた椅子に腰を下ろし、静かに茶をすする。
「君がやっていることは秩序の破壊だ。だがその根底にあるのは、より高次の秩序を求める純粋な願い。……実に矛盾していて美しい」
「お前に褒められても、あまり嬉しくはないな」
「そう言うな。君はこの世界の停滞という名の病を治療しようとしているのだろう? その手法がいささか荒療治なだけで」
マルヴェスは茶器を置き、真紅の瞳を細めた。その奥に王としての冷徹な光が宿る。
「だが、気をつけたまえ、賢者よ。病巣を切り取ることに夢中になるあまり、健康な肉体まで傷つけてしまっては元も子もない。君のざわめきが、いつか私の愛する静寂をも脅かすような無粋な騒音になれば……」
彼はそこで一度言葉を切り、絶対的な冷気を伴って微笑んだ。
「その時は私も君を治療せねばならなくなる」
それは冗談の形をしていたが、その実、絶対的な強者からの死の宣告にも等しい警告だった。
だが、俺は怯まなかった。俺の意志に応じ、魂の奥底から最強の相棒が表層へと浮上する。
フッ、と俺の気配が変わる。瞳の色が深い蒼色へと染め上げられた。
「――無用な心配だ、夜の王よ」
俺の口から紡がれるのはカイラン・フェルシスの理知と自信に満ちた声だった。
「私の演算に無粋という変数は存在しない。我々が起こす混沌は全て計算され尽くした上での調律だ」
カイランはマルヴェスの真紅の瞳を正面から見据え、不敵に笑って見せた。
「貴公の愛する静寂を乱すつもりはない。むしろ、我々の剪定が終わった暁には、より洗練された、極上の静寂が訪れることを約束しよう。……だから、貴公は特等席で黙って見ていればいい」
一歩も引かぬ、対等な物言い。
マルヴェスは一瞬きょとんとし、次の瞬間、声を上げて笑った。
「くくっ……ははははッ! 面白い! まさか、この私に黙って見ていろと言うとは!」
彼は楽しげに膝を叩いた。
「二つの魂が一つの器で共鳴し、光と闇を統べるか。……いいだろう。その自信、買おうじゃないか」
マルヴェスは静かに立ち上がった。影の調度品が霧のように消えていく。
「では、私はこれで失礼する。これからの展開、楽しみにしているよ。二人の賢者殿」
そう言い残すと、彼は再び影の中へと溶けるようにその姿を消した。後に残されたのは心地よい風の音だけ。
俺の瞳が元の色に戻る。
身体の主導権が戻ってきたが、そこには以前のような恐怖による冷や汗はなかった。ただ、強者との対話を乗り越えた、心地よい高揚感だけがある。
「……やったな、カイラン」
『ああ。あれほどの存在と対峙しても、私の理は揺らがなかった。……我々は強くなったな』
魂の中で相棒と拳を合わせる。
俺たちはこの世界の理の外側にいる存在とも、渡り合えるところまで来たのだ。
「カイン……?」
茂みの向こうからエルンの心配そうな声がした。俺は振り返り、満面の笑みで彼女を迎えた。
「ああ、エルン。待たせたな」
俺の心はこれまでにないほど晴れやかだった。
俺たち、零の活動はより巧妙に、そしてより深く王国の闇へと浸透していた。
ルナの未来予知によって騎士団の包囲網を事前に察知し、アルヴィンの戦術分析で標的の弱点を正確に突く。そして、俺とカイランが光と闇の力でその計画を完璧に遂行する。
民衆の零への支持はもはや熱狂的な信仰に近いものへと変わり、若き国王ライオネルの権威はその足元から静かに、しかし確実に揺らぎ始めていた。
***
その日、俺は一人、エルフェンリートの森の外れにある静かな湖畔に立っていた。
月に一度、こうして密かに森を訪れ、エルンと束の間の言葉を交わすこと。それが、俺の心が闇に堕ちるのを防ぐ、唯一の錨となっていた。
まだ待ち合わせの時間には早い。
鏡のような湖面が空を映し、風が木々の葉を優しく揺らす。このあまりにも穏やかな光景と、俺が身を置く殺伐とした世界の隔たりに、俺はふと乾いた笑みを浮かべた。
「――良い顔をするようになったな、カイン」
その声は背後からではなかった。
まるで最初からそこにいたかのように、俺のすぐ隣、湖畔の岩に腰かけた男の口から静かに放たれた。
漆黒の礼服に月光のごとき蒼白の肌。そして、全てを見透かすような真紅の瞳。
吸血鬼の王、マルヴェス・ブラッドロック。世界最強の魔物の一柱。
かつての俺ならば、その圧倒的な気配に戦慄し、即座に武器を構えていただろう。だが、今の俺は違った。
『……警戒は無用だ』
俺の内側でカイランが静かに、そして余裕を含んだ声で囁く。
『闇の理を解析し、その本質を理解した今なら分かる。彼に敵意はない。……ただのお客様の来訪だ。茶でも出すつもりで構えていろ』
その頼もしい言葉に、俺の身体から余計な力が抜けた。
俺は武器に手をかけることもなく、ただゆっくりと振り返った。
「……何の用だ。俺はお前の機嫌を取るために動いているわけじゃない」
俺の落ち着き払った態度にマルヴェスは意外そうに、しかし嬉しそうに眉を上げた。
「ほう。私の気配に気づきながら、眉一つ動かさぬか。……なるほど、肝が据わったな」
彼は満足げに湖面を眺めた。
「なに、心配せずとも戦いに来たわけではない。ただ、君の働きぶりに感心していたところだ。セイオンを討ち、世界を覆っていたあの醜悪な騒音を終わらせた。その功績、私は高く評価している。おかげで世界は実に美しい静寂を取り戻した」
マルヴェスはそこで言葉を切り、真紅の瞳で俺を見た。
「そして、君が始めたこの新たなざわめき。これもまた、実に興味深い。セイオンのそれとは違い、君の混沌には明確な美学がある。腐敗した部分だけを正確に切り取り、無に還す。……実にエレガントだ」
マルヴェスはそう言うと、何もない空間にそっと手をかざした。
ズズズ……と彼の足元から影が生き物のように伸び、小さなテーブルと二脚の椅子、そして湯気を立てる上質な茶器一式を音もなく形成していく。
「まあ、立ち話もなんだ。茶でもどうかな?」
その人知を超えた魔法制御。だが、俺 (カイラン)の目にはその術式の構成が手に取るように見えていた。
俺たちは影で作られた椅子に腰を下ろし、静かに茶をすする。
「君がやっていることは秩序の破壊だ。だがその根底にあるのは、より高次の秩序を求める純粋な願い。……実に矛盾していて美しい」
「お前に褒められても、あまり嬉しくはないな」
「そう言うな。君はこの世界の停滞という名の病を治療しようとしているのだろう? その手法がいささか荒療治なだけで」
マルヴェスは茶器を置き、真紅の瞳を細めた。その奥に王としての冷徹な光が宿る。
「だが、気をつけたまえ、賢者よ。病巣を切り取ることに夢中になるあまり、健康な肉体まで傷つけてしまっては元も子もない。君のざわめきが、いつか私の愛する静寂をも脅かすような無粋な騒音になれば……」
彼はそこで一度言葉を切り、絶対的な冷気を伴って微笑んだ。
「その時は私も君を治療せねばならなくなる」
それは冗談の形をしていたが、その実、絶対的な強者からの死の宣告にも等しい警告だった。
だが、俺は怯まなかった。俺の意志に応じ、魂の奥底から最強の相棒が表層へと浮上する。
フッ、と俺の気配が変わる。瞳の色が深い蒼色へと染め上げられた。
「――無用な心配だ、夜の王よ」
俺の口から紡がれるのはカイラン・フェルシスの理知と自信に満ちた声だった。
「私の演算に無粋という変数は存在しない。我々が起こす混沌は全て計算され尽くした上での調律だ」
カイランはマルヴェスの真紅の瞳を正面から見据え、不敵に笑って見せた。
「貴公の愛する静寂を乱すつもりはない。むしろ、我々の剪定が終わった暁には、より洗練された、極上の静寂が訪れることを約束しよう。……だから、貴公は特等席で黙って見ていればいい」
一歩も引かぬ、対等な物言い。
マルヴェスは一瞬きょとんとし、次の瞬間、声を上げて笑った。
「くくっ……ははははッ! 面白い! まさか、この私に黙って見ていろと言うとは!」
彼は楽しげに膝を叩いた。
「二つの魂が一つの器で共鳴し、光と闇を統べるか。……いいだろう。その自信、買おうじゃないか」
マルヴェスは静かに立ち上がった。影の調度品が霧のように消えていく。
「では、私はこれで失礼する。これからの展開、楽しみにしているよ。二人の賢者殿」
そう言い残すと、彼は再び影の中へと溶けるようにその姿を消した。後に残されたのは心地よい風の音だけ。
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身体の主導権が戻ってきたが、そこには以前のような恐怖による冷や汗はなかった。ただ、強者との対話を乗り越えた、心地よい高揚感だけがある。
「……やったな、カイラン」
『ああ。あれほどの存在と対峙しても、私の理は揺らがなかった。……我々は強くなったな』
魂の中で相棒と拳を合わせる。
俺たちはこの世界の理の外側にいる存在とも、渡り合えるところまで来たのだ。
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