50代無職、エルフに転生で異世界ざわつく

かわさきはっく

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最終章 零(ゼロ)の賢者

第324話 闇の力と光の心

 月明かりだけが、寂れた街道を銀色に照らしていた。

 その道を一台の豪華な馬車が主を失ったまま、ゆっくりと進んでいる。
 御者台には記憶を失い、ただ虚ろな目で手綱を握る男――かつて子爵と呼ばれた者。

 荷台の檻の中では、ついさっきまで商品として扱われていた獣人の子供たちが、まだ信じられないといったように静かに夜空を見上げていた。

 街道を見下ろす丘の上。俺はその光景をただ静かに見届けていた。
 俺の隣にはアルヴィンが、その背後にはルナが、音もなくたたずんでいる。

「……終わったな」

 俺がつぶやくと、アルヴィンが静かにうなずいた。

「はい。人身売買を行っていた子爵の記憶と財産はこれで完全に無に還りました。解放された子供たちも、近くの街の教会が保護してくれる手筈になっています」

 また一つ、この世界の理不尽を俺たちは消し去った。

 カイランが行使する闇の力。人の記憶を消し去り、存在そのものを世界から希薄にさせる、神の領域に踏み込むかのような絶対的な魔術。

 この力を使うことに俺はもはや何の葛藤も覚えていなかった。

(……罪悪感など、ない)

 俺は自らの掌を見つめた。そこから微かに立ち上る黒いもやは俺の魂の一部だ。
 だが、それは俺を苛む呪いなどではない。むしろ、俺の心をより強く、より冷徹に研ぎ澄ませてくれる、鋼の意志そのものだった。

 脳裏をよぎるのは元の世界での記憶。竹内悟志として生きた、あの灰色の時代。
 就職氷河期。努力しても報われない。生まれ持った環境やタイミングという、ただそれだけの理由でスタートラインにすら立てない者たちがいた。俺もその一人だった。社会の都合で歯車にすらなれずに切り捨てられた、名もなき存在。

 そしてこの世界。

 貴族というだけで民から搾取し、その命すらも弄ぶ者たちがいる。奴隷というだけで人としての尊厳を奪われ、ただの商品として扱われる者たちがいる。

 構造は何も変わらない。

 生まれによって、努力では決して覆せない理不尽な状況に置かれる。その光景を見るたびに、俺の心の中のあの頃の怒りが静かに、そして熱く燃え上がるのだ。

『面白いな、カイン』

 魂の内側でカイランの声が響いた。その声には感心したような響きがあった。

『お前の魂は実に興味深い。竹内悟志としてのお前が抱えてきた五十余年分の無念や後悔。その負の感情が闇の力と結びつき、今や世界を正すための強大な原動力となっている。……闇がこれほどまでに純粋な正義の形を取りうるとは、私の二百年の探求をもってしても予測できなかった』

(正義、か。……そんな大げさなものじゃないさ)

 俺は心の中で静かに応える。

(俺はただ、気に入らないだけだ。俺が経験したあの理不尽をこの世界の誰にも味わわせたくない。……ただ、それだけだ)

 その時、ふと胸元のペンダントのひんやりとした感触に気づいた。
 それはエルンが俺が森を出る時に、お守りとして渡してくれたものだった。彼女の清らかな魔力が微かに込められている。

 俺はそのペンダントをそっと握りしめた。

(……ああ、そうか)

 俺はようやく理解した。
 俺がこの強大な闇の力に飲まれず、正気でいられる理由。それはカイランの理知的な助言でも、俺自身の強い意志ですらない。ただ、この光があるからだ。

 俺が帰るべき場所。俺が本当に守りたい温かい世界。
 その存在をこのペンダントが、エルンの想いが、絶えず俺に教え続けてくれる。
 彼女が森で守ってくれているあの穏やかな日常。それを思い出すたびに俺の心に宿る闇は決して暴走することなく、ただ俺が振るうべき刃としてその鋭さを増すのだ。

「……ふぅ」

 俺はペンダントから手を離し、小さく息を吐いた。

 仲間たちに向き直ると、アルヴィンが地図を広げ、次の行程を確認していた。だが、その表情はどこか晴れない。

「……どうした、アルヴィン」

 俺が声をかけると、彼は沈痛な面持ちで顔を上げた。

「いえ……。周辺の調査結果を見ていたのですが、剪定すべき対象があまりにも多すぎて」

 彼は地図上の無数の赤い印――悪徳貴族や犯罪組織の拠点――を指でなぞり、深く溜息をついた。

「人を騙し、奪い、自らの腹を満たすことしか考えない輩が、この国にはこれほどまでに溢れています。正直……人という生き物に失望してしまいそうです。父が守ろうとした世界は本当に守るに値するのでしょうか」

 真面目な彼らしい悩みだ。人間の醜悪な一面ばかりを見せつけられれば、そう思うのも無理はない。

 だが、その言葉に真っ先に反応したのはルナだった。

「えー? アルヴィンってば真面目すぎ」

 ルナは近くの木の枝にぶら下がりながら、ケラケラと笑った。

「人間って強欲だけど、私はそこまで嫌いじゃないよ? だって、その欲があるから美味しいパンが焼けるし、キラキラした宝石も磨かれるし、面白いお祭りも開かれるんでしょ?」

「ルナ……?」

「もっと美味いものが食いたい、もっと楽がしたい、もっと凄くなりたい。そういう欲がなかったらさ、世界はずーっと退屈なままだよ。森のエルフみたいにね!」

 彼女の奔放な言葉に俺は思わず苦笑した。だが、それは真理だ。

「ルナの言う通りだ、アルヴィン」

 俺は若き騎士の肩に手を置いた。

「人間の欲は諸刃の剣だ。それが暴走すれば、今回の子爵のように他人を犠牲にする悪になる。だが同時にそれは、この世界に嬉しさや楽しさ、そして進歩をもたらす原動力でもある」

 元の世界の歴史もそうだった。
 争いや競争が技術を生み、富への渇望が文化を育てた。清廉潔白なだけでは世界は回らない。

「俺たちがやるべきは人間の欲そのものを否定することじゃない。欲望という大樹が腐らないように、枯れた枝や病気の葉だけを切り落とすことだ。……健全な欲が正しく育つようにな」

 俺の言葉にアルヴィンはハッとしたように目を見開いた。しばらく考え込み、やがてその表情から迷いが消えた。

「……なるほど。善も悪も、根源は同じエネルギー……。それを正しく導くのが我々の剪定なのですね」

「そういうことだ。だから失望するにはまだ早いさ」

 俺はニヤリと笑い、地図に記された無数の赤い印――まだ残っている標的たち――を指差した。

「さて、次はここだ。このペースで国中の膿を出し切るとなると……あと一年はかかるだろうな」

 俺の見立てに、アルヴィンはキョトンとした顔をし、それからクスリと笑った。

「一年、ですか? 二百年の停滞に比べれば瞬きするような時間ですね。私たちにとっては明日の予定を立てるのと変わりません」

「あはは! たった一年でいいの? 私なんて、あと五十年くらい暴れ回っても全然平気だよ?」

 ルナも、木の枝からぶら下がったまま、けろりと言ってのける。

 やはり、こいつらの時間感覚は人間とは違う。一年など彼らにとっては、ほんの少しの間でしかないのだ。だが、俺は苦笑しながら首を振った。

「俺たちには一瞬でも、助けを待つ人間たちにとっては長く苦しい一年だ。……のんびりとはしていられないぞ」

「……ふふ、そうですね。ではその一瞬を最高に濃密なものにしましょう」

「退屈させないでよね、カイン!」

 俺の心には世界を正すための冷たい闇の力と、それを導く温かい光の心。
 その二つを抱きしめ、俺は零としての次なる一歩を踏み出してゆく。
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