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最終章 零(ゼロ)の賢者
第328話 最後の標的
ドワーフの国からの使者、グレンダが闇の中へと去っていった後、その場には重苦しい静寂が残されていた。
俺たちはしばらくの間、彼女が消えた森の奥を見つめていた。
「……停滞、か」
俺のつぶやききにアルヴィンが静かにうなずく。
「はい。平和ボケ、という言葉で片付けるにはあまりにも根深い問題のようです。人間領だけでなく、ドワーフの国までもが魂をすり減らすような、静かなる死に侵されているとは」
「……グレンダさん、すっごく悲しそうな顔してた」
ルナも、いつになく真剣な表情で言葉を継いだ。
この世界全体を覆う病理。マルヴェスが愛した静寂。それは俺たちが考えていたよりも遥かに広範囲に、そして深刻に広がっている。
だが、だからといって、今ここで手を広げ過ぎれば、全てが中途半端に終わるだろう。
「……まずはここだ」
俺は視線を森から手元の地図へと戻し、自分自身に言い聞かせるように言った。
「ドワーフの国のことは忘れない。だが、まずはこのロルディア王国の剪定を終わらせる。……全てはそれからだ」
俺たちは隠れ家の中へと戻り、テーブルを囲んだ。そこにはロルディア王国の精細な地図が広げられている。
この一年間、俺たちが剪定を行ってきた場所には赤いインクで印がつけられていた。
地図は今や、赤い飛沫を浴びたかのように無数の印で埋め尽くされている。
「……見てみろ。これだけの数の悪党を葬り、不正な富を消滅させてきた」
俺は地図上の赤い印を指でなぞった。
「だが、それでも次から次へと新たな腐敗が湧いてくる。一人の悪徳貴族を潰せば、また別の場所で似たような搾取が始まる。……俺たちがいままで対処してきたのは結局のところ、巨大な樹の枝葉に過ぎなかったんだ」
徒労感がないと言えば嘘になる。いくら切っても生えてくる雑草を相手にしているような感覚だ。
俺が深く溜息をついた、その時だった。
『――嘆く必要はない、カイン』
俺の口から、俺のものではない冷徹な声が響いた。
カイランだ。彼が意識の表層に現れ、俺の身体の主導権を一部借り受ける。俺の瞳が一瞬にして深い蒼色へと変わる。
「今までの行いは決して無駄ではなかった。我々が枝葉を切り落とし、その断面を晒したことで、ようやく見えてきたのだよ。……この国を蝕む真の病の正体がな」
カイランの手が地図の上を滑る。
指先から魔力の糸が伸び、地図上の赤い印たちを次々と結んでいく。それは俺たちが潰した組織や貴族たちが、裏で繋がっていた金の流れと命令系統を可視化したものだった。
「見ろ。末端の組織は無秩序に見えて、その養分は全て、ある一点から供給され、そして吸い上げられている」
無数の線が地図上を走り、やがて王都の一点へと収束していく。全ての腐敗は王都に始まり、そして、王都に還る。
「この国の闇にはそれを統べる絶対的な頭が存在する」
カイランは一枚の肖像画をテーブルの上に放り投げた。
そこに描かれていたのは柔和な笑みを浮かべた初老の男だった。白髪交じりの髪を上品に整え、その瞳は慈愛に満ちているように見える。王都にいれば誰もが一度は目にする顔だ。
「……オルダス公爵、ですか」
アルヴィンが驚きと共にその名をつぶやいた。
カイランの示した結論に彼自身の頭脳も即座に追いつき、納得の色を示す。
「なるほど……。表向きは数多くの孤児院や施療院を運営し、民からは王都の聖人とまで呼ばれる大慈善家。……ですが、彼の慈善事業に使われる莫大な資金の出処は常に不透明でした。賢者殿の読み通り、彼こそが全ての黒幕だとすれば辻褄が合います」
「その通りだ。王国最大の奴隷市場を運営し、禁制品の密売を取り仕切り、その富で貴族社会を内側から支配する影の王。……それがこの男の正体だ」
民衆から最も敬愛される人物こそが、民衆を最も苦しめる諸悪の根源。あまりにも残酷で、そして巧妙な真実。
(……おい、カイラン)
俺は心の中で相棒に呆れたような声を送った。
(お前、いつから気づいてたんだ?)
『確証を得たのは最近だが、疑いは以前から持っていた』
(なら、もっと早く言えよ。説明不足なのは相変わらずだな)
俺は苦笑し、身体の主導権を取り戻した。
言葉は軽いが、そこには全幅の信頼がある。カイランがここまで言うのなら間違いはない。
「民衆にとって、彼は希望そのものだ。彼を攻撃することは民衆を敵に回すことと同義。……国王陛下ですら容易に手出しができない聖域だ」
俺の言葉にアルヴィンも悔しげにうなずく。
完璧なマッチポンプ。自分で生み出した悲劇を自分で救うふりをして名声を得る。
『フフッ……だからこそ、面白いのではないか』
魂の内側でカイランが愉悦に満ちた声を上げた。
『ただ暴力を振るうだけの悪党ならば退屈だが、人の心を利用し、善意の仮面で悪意を隠すとはな。その欺瞞に満ちた手腕、実に興味深い。……崩し甲斐のある敵だ』
どうやら相棒は、この史上最悪の詐欺師に、すっかりやる気を見せているようだ。
「ルナも! そんな酷い奴が親玉なら、そいつをドカンとやっつけちゃえば全部解決だよね!」
ルナもまた、拳を握りしめて立ち上がった。
彼女の言う通りだ。複雑に絡み合った蔦も、根っこを引き抜けば全て枯れる。
俺はテーブルの上の聖人の肖像画を睨みつけた。
この男を倒せば、ロルディア王国の剪定は終わる。
そしてその先にはグレンダたちドワーフの国が待っている。
「……決まりだな」
俺は短剣を抜き、地図の上の王都――オルダス公爵がいる場所へと切っ先を突き立てた。
「人間領での最後の標的はオルダス公爵だ。……国を腐らせる諸悪の根源を俺たちの手で断ち切る」
迷いは消えた。
俺たちの旅の一つの終着点。最後の戦いが幕を開けようとしていた。
俺たちはしばらくの間、彼女が消えた森の奥を見つめていた。
「……停滞、か」
俺のつぶやききにアルヴィンが静かにうなずく。
「はい。平和ボケ、という言葉で片付けるにはあまりにも根深い問題のようです。人間領だけでなく、ドワーフの国までもが魂をすり減らすような、静かなる死に侵されているとは」
「……グレンダさん、すっごく悲しそうな顔してた」
ルナも、いつになく真剣な表情で言葉を継いだ。
この世界全体を覆う病理。マルヴェスが愛した静寂。それは俺たちが考えていたよりも遥かに広範囲に、そして深刻に広がっている。
だが、だからといって、今ここで手を広げ過ぎれば、全てが中途半端に終わるだろう。
「……まずはここだ」
俺は視線を森から手元の地図へと戻し、自分自身に言い聞かせるように言った。
「ドワーフの国のことは忘れない。だが、まずはこのロルディア王国の剪定を終わらせる。……全てはそれからだ」
俺たちは隠れ家の中へと戻り、テーブルを囲んだ。そこにはロルディア王国の精細な地図が広げられている。
この一年間、俺たちが剪定を行ってきた場所には赤いインクで印がつけられていた。
地図は今や、赤い飛沫を浴びたかのように無数の印で埋め尽くされている。
「……見てみろ。これだけの数の悪党を葬り、不正な富を消滅させてきた」
俺は地図上の赤い印を指でなぞった。
「だが、それでも次から次へと新たな腐敗が湧いてくる。一人の悪徳貴族を潰せば、また別の場所で似たような搾取が始まる。……俺たちがいままで対処してきたのは結局のところ、巨大な樹の枝葉に過ぎなかったんだ」
徒労感がないと言えば嘘になる。いくら切っても生えてくる雑草を相手にしているような感覚だ。
俺が深く溜息をついた、その時だった。
『――嘆く必要はない、カイン』
俺の口から、俺のものではない冷徹な声が響いた。
カイランだ。彼が意識の表層に現れ、俺の身体の主導権を一部借り受ける。俺の瞳が一瞬にして深い蒼色へと変わる。
「今までの行いは決して無駄ではなかった。我々が枝葉を切り落とし、その断面を晒したことで、ようやく見えてきたのだよ。……この国を蝕む真の病の正体がな」
カイランの手が地図の上を滑る。
指先から魔力の糸が伸び、地図上の赤い印たちを次々と結んでいく。それは俺たちが潰した組織や貴族たちが、裏で繋がっていた金の流れと命令系統を可視化したものだった。
「見ろ。末端の組織は無秩序に見えて、その養分は全て、ある一点から供給され、そして吸い上げられている」
無数の線が地図上を走り、やがて王都の一点へと収束していく。全ての腐敗は王都に始まり、そして、王都に還る。
「この国の闇にはそれを統べる絶対的な頭が存在する」
カイランは一枚の肖像画をテーブルの上に放り投げた。
そこに描かれていたのは柔和な笑みを浮かべた初老の男だった。白髪交じりの髪を上品に整え、その瞳は慈愛に満ちているように見える。王都にいれば誰もが一度は目にする顔だ。
「……オルダス公爵、ですか」
アルヴィンが驚きと共にその名をつぶやいた。
カイランの示した結論に彼自身の頭脳も即座に追いつき、納得の色を示す。
「なるほど……。表向きは数多くの孤児院や施療院を運営し、民からは王都の聖人とまで呼ばれる大慈善家。……ですが、彼の慈善事業に使われる莫大な資金の出処は常に不透明でした。賢者殿の読み通り、彼こそが全ての黒幕だとすれば辻褄が合います」
「その通りだ。王国最大の奴隷市場を運営し、禁制品の密売を取り仕切り、その富で貴族社会を内側から支配する影の王。……それがこの男の正体だ」
民衆から最も敬愛される人物こそが、民衆を最も苦しめる諸悪の根源。あまりにも残酷で、そして巧妙な真実。
(……おい、カイラン)
俺は心の中で相棒に呆れたような声を送った。
(お前、いつから気づいてたんだ?)
『確証を得たのは最近だが、疑いは以前から持っていた』
(なら、もっと早く言えよ。説明不足なのは相変わらずだな)
俺は苦笑し、身体の主導権を取り戻した。
言葉は軽いが、そこには全幅の信頼がある。カイランがここまで言うのなら間違いはない。
「民衆にとって、彼は希望そのものだ。彼を攻撃することは民衆を敵に回すことと同義。……国王陛下ですら容易に手出しができない聖域だ」
俺の言葉にアルヴィンも悔しげにうなずく。
完璧なマッチポンプ。自分で生み出した悲劇を自分で救うふりをして名声を得る。
『フフッ……だからこそ、面白いのではないか』
魂の内側でカイランが愉悦に満ちた声を上げた。
『ただ暴力を振るうだけの悪党ならば退屈だが、人の心を利用し、善意の仮面で悪意を隠すとはな。その欺瞞に満ちた手腕、実に興味深い。……崩し甲斐のある敵だ』
どうやら相棒は、この史上最悪の詐欺師に、すっかりやる気を見せているようだ。
「ルナも! そんな酷い奴が親玉なら、そいつをドカンとやっつけちゃえば全部解決だよね!」
ルナもまた、拳を握りしめて立ち上がった。
彼女の言う通りだ。複雑に絡み合った蔦も、根っこを引き抜けば全て枯れる。
俺はテーブルの上の聖人の肖像画を睨みつけた。
この男を倒せば、ロルディア王国の剪定は終わる。
そしてその先にはグレンダたちドワーフの国が待っている。
「……決まりだな」
俺は短剣を抜き、地図の上の王都――オルダス公爵がいる場所へと切っ先を突き立てた。
「人間領での最後の標的はオルダス公爵だ。……国を腐らせる諸悪の根源を俺たちの手で断ち切る」
迷いは消えた。
俺たちの旅の一つの終着点。最後の戦いが幕を開けようとしていた。
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