ショコラ・ノワール

西崎 仁

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第7章

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 葵が店を辞めた。
 店での騒ぎがあった、半月後のことだった。
 騒動の直後も、葵は鳴海に迷惑をかけたことをひどく気に病んでいた。弁償費用という名目で、鳴海が女に支払った金額を自分に出させてほしいと懇願し、必死にくいさがった。しかし鳴海は取り合わなかった。いくら支払ったのか問われても決して答えず、責任者として当然の対応をしただけのことで、葵が責任を感じる必要はないのだと、葵の申し出をしりぞけた。客の手前きつい態度を取ったが、葵に非がないことも承知している。そう説いて聞かせた。
「客商売をつづけていけば、今日のようなことはこの先も必ずある。今回はたまたま、それが君の顔見知りだったというだけのことだ。だから気にしなくていい」
 根気強く言い含めた結果、葵はようやく折れて引き下がった。それでも最後まで、鳴海に対する申し訳なさと自責の念を、拭い去ることはできないようだった。その葵の心を完全に挫いたのが、それからほどなくしてネットに書き込まれるようになった、店に対する誹謗中傷の数々だった。
 商品や店員に対する批判はもちろんのこと、その書き込みは次第にエスカレートし、いつしか鳴海の過去について、おもしろおかしく書き立てられるようになっていった。
 鳴海がかつて、都内でも有数の進学率を誇る大手有名予備校で数学の講師をしていたこと。人気講師として生徒から絶大な支持を得ていたにもかかわらず、教え子である女子生徒のひとりが鳴海に想いを寄せたことで、その後の講師人生は長くつづかずに終わったこと。鳴海に対する思慕を募らせるあまり勉強が手につかなくなったその女生徒は、やがて受験に失敗し、追いつめられた末に鳴海の妻子を逆恨みして殺害するという凶行に及んだこと――
 未来ある教え子を恋に狂わせ、その人生をだいなしにしたフェロモン講師。挙げ句、自分の妻と子に生命の代償を払わせた魔性の男。そんな危険人物が、現在チョコレート専門店を開いて、客や従業員を相手に『甘い』誘惑を繰り広げている。
 匿名であるとしながらも、確実に個人が特定できてしまう意図的な書かれかた。そこに、葵の過去がいっさい触れられていないことで、その裏にある悪意が逆に浮き彫りとなり、葵を打ちのめした。
 葵の側に、責めを負うべき理由などひとつもない。落ち度はなにもないのだからと引き留める鳴海の言葉に、葵はもはや、耳を傾けることさえできなくなっていた。
 自分を傷つける目的のためだけに、鳴海まで巻き添えにしてしまった耐えがたい事実。そればかりか、鳴海が心の裡に秘めていたつらい過去が、あんなかたちで暴き立てられる結果となってしまった。
 コンビニで自分の凶行を止めたとき、鳴海はいったい、どんな気持ちだったのか。どんな思いでその後に店に連れてきたのか。
 よりによって鳴海のまえであんな真似をしようとした自分の軽率さが許せない。葵はそう言って、鳴海の足もとにひれ伏すようにして泣き崩れた。
 鳴海がただ一度示した嫌悪と拒絶の理由を、葵はみずからの犯した過ちに繋げて自責の念に苛まれることとなった。
「ごめんなさい。ごめんなさいっ。あたしは鳴海さんの好意に甘えるべきじゃなかったんです。鳴海さんがせっかくこれまで築いてきたものが、あたしのせいでなにもかもメチャクチャになっちゃった。あたしのせいで鳴海さんが嫌な目に遭って、つらい思いをすることになっちゃったっ。どうしてこんな……っ。本当に申し訳ありませんでした!」
 打ちひしがれる葵に、鳴海はかける言葉が見つからなかった。
 こんなかたちで深く傷つけることになるならば、最初から関わるべきではなかったのだ。
 鳴海の心に、苦い後悔が押し寄せる。
 あんないきさつがなければ、鳴海は葵を受け容れることはなかった。だが、だからこそ余計に、もっと慎重になるべきだったのかもしれない。
 こうなってみてはじめてわかる。最初に難色を示した旭は正しかった。葵の抱える痛みがわかるからこそ、なんの覚悟もないまま、安易に手など差し伸べるべきではなかったのだ――
 謝罪の言葉を繰り返しながら土下座するその姿は、五年前の自分と重なった。義理の両親から、最愛の娘と孫を同時に奪ってしまった自分。彼らのまえで、鳴海はただ、ひれ伏すように頭を下げ、詫びることしかできなかった。そしていまもまた、変わらずおなじことを繰り返している。
 泣き濡れる葵の姿を思い出しながら、鳴海は数年ぶりに訪れた妻の実家で、その両親をまえに深々と頭を下げていた。

「本当に、申し訳ありませんでした」
「遼一さん、そんなことはやめてちょうだい。あなたが悪いわけじゃないんだから」
 義母の好江よしえが、痛ましげに鳴海に声をかけてきた。鳴海はそれでも、伏した頭を上げることができなかった。
「あなただって、さんざんつらい思いをしてきたでしょうに。それどころか、わたしたち以上に苦しんできたはずでしょう? そのあなたがどうして責任を感じて、わたしたちに頭を下げなければならないの?」
「いえ、僕の責任です。僕が至らないばかりに、お義父さんとお義母さんにまでこんなご迷惑をおかけすることになってしまって……。本当に、心苦しいかぎりです」
「迷惑なんかじゃないわ。あなたはなにも悪くないんだから」
 気遣うような好江の声が、心に痛かった。
 鳴海の許に、元教え子からの手紙が届いてひと月あまり。開封することさえ苦痛だったその手紙を、鳴海は当然、読み流したまま捨て置くに任せた。だが、三月も終わろうとするころになって好江から突然、電話で問い合わせを受けることとなった。自分たちの許に、例の事件の加害者から謝罪文が届いている。ひょっとしてそちらにも、同様の書面が届いているのではないか、と。
 鳴海の沈黙をどう受け取ったのか、元教え子は、もう一方の被害者である義父母にも、似たような文面の手紙を送りつけていた。己の苦衷を訴えることで憐れみを乞い、許しを得ようとしたことは疑いない。あるいはそうすることで、己の罪をさらに軽くしようという計算が働いたのかもしれない。鳴海はそう推察する。
 なぜ、そっとしておいてくれないのだろう。
 鳴海は口唇を噛みしめる。
 その存在がこの世にあることを思い出すだけで、心が粟立ち、平常心を保つことすら困難になるというのに。
 思い出すことさえ苦痛で、けれども生涯、決して忘れることのできない存在。
 せめてこれ以上、こちらの神経を逆なでするようなことはしないでほしい。相手の代理人である弁護士に、その旨を伝えて一週間。
 立て込んでいた仕事や雑務にようやく区切りをつけ、早々に連絡をつけて対応したはずだった。だが、鳴海の行動は、どうやら後手にまわったらしい。鳴海が先方に連絡したときにはすでに、義父母はくだんの手紙を受け取っていた。鳴海にとって、もっとも多忙を極めるシーズンであることを理解していたからこそ、好江もまた、問い合わせるタイミングを見計らっていたのだ。
 好江からの連絡を受けて三日。定休日になると同時に義父母の許を訪れた鳴海は、こうしてふたりをまえに頭を下げている。
 自分はいつまでこの人たちを苦しめ、深い悲しみを味わわせる不孝を繰り返すのか……。
 ふたりをまえにするたびに、こみあげる自責の念と申し訳なさに、押し潰されそうになる。そんな鳴海の正面で、長らく沈黙を保っていた義父の藤治郎とうじろうがやがて口を開いた。
「遼一くん、帰りなさい。そんなことをするために来たのなら、もう二度とここへは来るんじゃない」
 厳しい言葉とは裏腹に、言い諭すような、しずかな声音こわねだった。
「君はまだ若い。しっかりまえを向いて、自分の将来を歩きなさい。私たちのことは、もう気にしなくていいから」
「お義父さん……」
 驚いて思わず顔を上げた鳴海を、藤治郎は穏やかに見据えていた。
「君がいまだに我々を義父ちちと呼び、義母ははと呼んでくれる。そのことがとても嬉しい。五年経ったいまも変わらず、娘を想いつづけてくれる気持ちが嬉しい。だがね、遼一くん、今回のようなことがあってあらためて思ったんだ。君はいつまでも、過去に囚われているべきじゃない。いつまでも自責の念に駆られつづける君を、娘も決して喜ばんだろう」
「それは……」
「むろん、そう簡単に忘れられるものじゃない。あんな喪いかたをしたんだ、当然だろう」
 藤治郎は、沈鬱な表情で呟いた。
「正直、我々だって心の整理自体、つけることは不可能だ。できることなら、加害者をこの手で八つ裂きにしてやりたい。そんな衝動に駆られて、どうしようもないときもある。はらわたが煮えくりかえって、悔しくて眠れない夜だってある。だが、実際そうしたところで、奪われてしまった生命が取り戻せるわけもない」
 だからこのままではいけないのだ。藤治郎はきっぱりと告げた。
「まえに進みなさい、遼一くん。せっかくこうして新しい道を切り開いたんだ。君はその先に進まなきゃいけない。いつまでも自分を責めたり、我々に負い目を感じて立ち止まっていてはダメだ」
 背中を力強く押そうとする義父の思いに、鳴海は言葉を失った。
「私はね、君を娘婿というより、旭とおなじ、実の息子のように思っているよ。その息子がしがらみから解き放たれて幸せになってくれるなら、こんな嬉しいことはない。だから遼一くん、自分の人生を生きなさい。我々はいつでも、君を応援してるから」
 藤治郎の隣で好江が目もとを拭う。鳴海はただ、いま一度深く頭を下げることしかできなかった。
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