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第一章 ジョン・コルトレーン「ブルートレイン」

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 結局、ジャズカフェ「ビハインド・ザ・ビート」に来たのは、お昼をまわってからだった。

 不本意ながら10時に行こうと思っていたのだが、母のカウンセラーから連絡が入ってこんな時間になってしまったのだ。

 遅れると有栖川に連絡を入れようとしたんだけれど、連絡先がわからなかった。

 店の名前をネットで検索しても、出てくるのはジャズアーティストのページばかり。

 というわけで約束の時間から2時間が過ぎ、俺は紙袋に入れた8枚のレコードを片手にビハインド・ザ・ビートのオレンジの扉を開いた。

 ちりんと小さな鈴の音が、店内から流れ出してきたリズミカルなジャズのビートに乗る。

 間接照明で落ち着いた雰囲気を出している店内には、ぽつぽつとお客の姿があった。

 若い客はおらず、全員が年配のようだ。


「……おや?」


 L字カウンターに身を乗り出して客と話していた東さんがこちらに気づいた。


「こんにちは」

「ええっと、住吉くん……だったっけ? また来たんだね」


 どこか面倒くさそうに言う。

 この人は本当に接客する気がないようだ。

 というか、店長(だと思うのだが)なのに、やる気が無くて大丈夫なのだろうか。

 オーディオ機器も相当お金をかけているように見えるし、有栖川のバイト代だって安くはないはず。


「それで、今日は?」

「有栖川さんと約束を」

「ちひろなら、ご飯を食べに行っているよ」


 時計の針はもうすぐ1時を指す。


「というか、今日は学校じゃないよね?」

「え?」

「キミの服。休みの日に学生服を着ているから、不思議に思ってさ」

「……あ」


 指摘されて少し恥ずかしくなった。


「実は昨晩、間違って着替えを全部洗濯してしまったんです」

「それは、少々おっちょこちょいなお母さんだね」

「あ、いえ、洗ったのは俺です」

「へぇ、君が?」


 東さんは感心したように嘆息を漏らす。


「若いのに偉いね」

「別に、偉くなんてないですよ」

「謙遜しなくてもいいよ。しかし、人は見かけによらないものだね。どこかの息子とは大違いだと思わないか?」


 東さんはカウンターに座っている、丸い眼鏡をかけた客に話を振った。

 彼は困ったように肩をすくめている。

 あの客にも、俺くらいの息子がいるのかもしれない。


「ここで有栖川さんを待っていてもいいですか?」

「もちろんだ。来るもの拒まず、去る者追わずがこの店の信条だからね。飲み物は?」

「じゃあ、アイスカフェオレをひとつください」


 注文して、ターンテーブルが良く見えるカウンターの端の席に座った。

 おろした針がゆらゆらと少し揺れながらレコードの溝をなぞっているのがよくわかる。


「その紙袋は?」


 東さんが綺麗な木製のカップを差し出した。

 木目が美しい、白木のカップだ。


「レコードですよ。ジョン・コルトレーンの」

「ジャズは嫌いだって言ってなかったっけ?」

「嫌いですよ。これは俺のじゃなくて、父のコレクションです」

「ああ、そういえば言っていたね。お父さんにコルトレーンを聴かされていたとかなんとか」

「そうですね」

「じゃあ、住吉くんにとってそのレコードが思い出の一枚というわけだ」

「違いますよ。このレコードがどんな曲だったのかすら覚えてないですし」

「……ふむ。そうか」


 東さんが少し寂しそうな顔をした気がした。

 少し気まずくなったので、話題を変えることにした。


「東さんには、あるんですか?」

「ん?」

「思い出の一枚ですよ。東さんにも、そういうものがあるんですか?」


 何気ない会話のつもりだった。

 東さんも有栖川と同じジャズマニアだったら、そういう話題に喜んで食いついてくるはずだと思っていた。

 だが、東さんの口から出てきたのは、予想していたものとは大きく違っていた。


「まぁ、あることにはある。死ぬまでにもう一回聴きたいと思っているレコードだ。だが……忘れてしまったほうが、ちひろのためにも良いと思っている」

「有栖川のため? どうしてですか?」


 東さんは何かに気づいたような素振りを見せ、バツが割るように頭を掻いた。


「……すまない。今のは聞かなかったことにしてくれないか?」

「え? あ、はい」


 そう言われると余計に気になってしまう。

 だが、詮索することはできなかった。

 話すつもりはないという硬い意思を東さんに感じたからということもあるが、待ち人が店に現れたからだ。


「……あっ」


 有栖川は、昨日と同じグレーのシャツにエプロンというシックな格好だった。


「住吉さん」

「悪い。色々あって遅れてしまった」

「て、てっきり、今日は来ないのかと思っていました」


 有栖川が少し恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。


「もしかして、無理をさせてしまいましたか?」

「いや、平気。依頼したのは俺のほうだし。これ」


 レコードが入った紙袋を有栖川に見せた。

 途端に有栖川の目の色が変わる。


「例のレコードですね? 拝見させていただいても?」

「もちろん」


 紙袋を受け取った有栖川は、慎重に8枚のレコードを取り出しカウンターに並べていった。

 一見、まったく同じに見えるブルートレインのレコードが8枚。

 東さんや彼と話していた客も興味深げにこちらを覗いている。

 有栖川は一枚一枚、じっくりとジャケットを見比べていった。

 表をひと通り見たかと思うと、裏面へ。


「……ふ~む」


 今度は中身を取り出して盤面を見はじめる。

 盤面に顔が触れてしまいそうなくらいの距離で、レコードの中心部分のラベルを見ている。

 流れていたリズミカルなジャズが静かに終わった。

 客が東さんに「次もデイヴ・ブルーベックを聴きたいね」とリクエストを出した。
 東さんが「『タイム・アウト』は?」と返し、客が「いいね」と笑った。


「おまたせしました」


 スピーカーから流れ出したピアノの音に乗るように、有栖川の声が運ばれてきた。


「大体、わかりました」

「……え? わかった? もう?」

「はい。これは……ほんなこつ音抜けの良か謎でした」

「……? 音抜け?」

「あ……なんでもなかです」


 バツが悪そうに身をすくめる有栖川。

 よくわからないので、話を進めることにした。


「それで、一体どんな理由なんだ?」

「あ、ちょっと待ってください。お話する前に質問があります。お父様の部屋に何かメモのようなものが残されていませんでしたか? なんというか、奇妙な暗号みたいな感じだと思うのですが」

「暗号のメモ? ……あ」


 そういえば、レコードジャケットの中にメモが入っていたっけ。

 そういえば、どこにやっただろう。

 母に見せて、遺書じゃないかと言われて──そうだ、学生服の内ポケットにしまったんだ。

 運良く学生服で来てよかった。


「もしかして、これのことか?」

「はい。それです」


 有栖川はメモをさっと見て、納得したように頷いた。


「そのメモはなんなんだ? というか、なんでメモがあるってわかったんだ?」

「8枚も買うくらいですから、何か残していると思ったんです。そうしないと、まだ同じものを買ってしまいますから」


 思わず首をかしげてしまった。

 同じものを買ってしまうもなにも、すでに8枚も買っているじゃないか。


「住吉さんのお父様は、ブルートレインのオリジナル盤を探していたんだと思います」

「ブルートレインの、オリジナル盤?」

「はい。レコードには『オリジナル盤』と『再発盤』の二種類があるんです。そのレコードが発売されたときに生産されたもののことを『オリジナル盤』と呼びます。一般的に『オリジナル盤』のほうが価値が高くなる傾向にあります」

「どうしてなんだ?」

「理由は単純で、音質が良いからです。少し技術的な話になってくるのですが、昔は録音をする際に磁気テープを使っていました。磁気テープとは、磁性体を塗布したテープのことで、カセットテープやビデオテープがそれにあたります」


 現物は見たことがないが、テレビやネットで見たことがある。

 DVDやCDが出る前に使われていたものだ。


「磁気テープは時間の経過とともに劣化していくんです」

「劣化……つまり、音が悪くなっていくってことか」

「はい。磁気テープは音が劣化していくので、最初に作られたレコードが一番音がいいというわけです。オリジナル盤は限られた数しか生産されていないのでコレクタブルな要素もあるのですが……まあ、そこは今回とは関係ないので割愛しますね。というわけで、メモに戻ります」


 有栖川が例のメモをカウンターに載せた。


「ここに書かれているのは、オリジナル盤かどうかを判別するためのヒントなんです。まず……『47 WEST 63rd・NYC』ですが、これはブルーノートの住所を表しています」

「……ブルーノート?」

「ジャズレーベルの名前です。ブルーノート・レコードはジャズを象徴するメジャーレーベルで、コルトレーンだけではなく、マイルス・デイヴィスやアート・ブレイキー、ハービー・ハンコックにリー・モーガンなど、ジャズの巨匠たちが楽曲を出しています」


 マイルス・デイヴィスとハービー・ハンコックは父も好きだったアーティストだ。

 たしか、マイルス・デイヴィスは「ジャズの帝王」と呼ばれていた。


「これはそのブルーノートの住所なんですが、ここ……ほら、見てください」


 有栖川がレコードの盤面を見せてくれた。中央付近に貼られているラベルに住所が書かれてあった。

 だが──


「あれ? ちょっと違わないか?」


 そこに書かれていたのは『47 WEST 63rd・NYC』ではなく、『NEW YORK USA』だった。


「つまり、このレコードはオリジナル盤ではないということです。再発盤はこのように『NEW YORK USA』になっています。でもこっちは……」


 有栖川が別のレコードを取り出す。


「見てください。『47 WEST 63rd・NYC』になっていますよね」

「本当だ。じゃあ、こっちはオリジナル盤ってことか?」

「残念ながら違います。これだけではオリジナル盤とはいえないんです。他にもメモにかかれていた条件を満たしている必要があります。この『DG両溝』というのは、ラベルの所にある溝のことで、『ディープグルーブ』や『深溝』とも呼ばれています。次の『耳』というのは『イヤーマーク』と呼ばれているものなんですが……あ、これです」


 何枚かレコードを取り出し、その一枚を俺に見せた。


「ここに耳みたいなマークがあるでしょう?」

「確かにあるな」


 言われて気づくレベルなのだが、ラベルと盤面の溝の間、何も溝が掘られていないところに奇妙なマークがあった。


「これはレコードのプレスを請け負ったプラスタイライト社のマークです。あとは、同じ所にエンジニアの『ルディ・ヴァン・ゲルダー』の刻印である『RVG』があればオリジナルに間違いないのですが……この中にすべての条件にあうものはありません」 

「ということは、オリジナル盤は無い?」

「そうですね。残念ながら。お父様はオリジナル盤を探して中古レコードを購入したのですが、結局8枚とも再発盤だったみたいです」


 情報をいつ手に入れたのかわからないが、父はオリジナル盤を示す手がかりを見つけてメモに残していた。

 改行しているのは、追加で情報を得たからだろう。

 正直、なんのひねりもない解答だと思った。

 レコードコレクターの父らしい……いや、面白みに欠ける父らしい解答だ。


「──ただ、これだけで終わりではありません」


 再び有栖川の声が浮かぶ。


「どうしてお父様は8枚もレコードを買われたのか、という謎が残ってます」

「……? どうしてって、オリジナル盤が欲しかったからだろ?」

「では、お聞きしますが、ブルートレイン以外に複数枚レコードが存在している楽曲はありましたか?」


 そう言われ、しばし記憶をたどる。


「……いや、なかったと思う」


 もし他にもあったなら、母が教えてくれるはず。

 それに、複数枚あるのはブルートレインだけだったから母は不思議に思ったのだ。


「もし、お父様ががオリジナル盤のコレクターだったなら、他にも複数枚ある楽曲があっていいはずです。でも、それがなかったということは、お父様は、ということです。さて、どうしてだと思います?」

「好きだったからだろ。だから、音質が良いオリジナル盤を探していた」


 俺がまだ小さいころ、部屋に呼んでは「コルトレーンは良いだろう」と言っていたのを覚えている。

 父はコルトレーンが好きだったのだ。


「ええ、おっしゃるとおり、お父様はコルトレーンが好きだったんだと思います。ですが──コルトレーンが好きだったのはではなく、だったのではないですか?」
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