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第一章 ジョン・コルトレーン「ブルートレイン」

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「ちょっと待っていてください。着替えてきますので」


 有栖川はそう言い残して、カウンターの奥へと消えていった。

 間接照明の柔らかい明かりに照らされた打ちっぱなしの白い壁に、L字型のカウンター。

 おしゃれな漆塗りのテーブル席が六つほど。

 テーブルを取り囲むように壁に配置された大きな棚には、CDやレコードがこれでもかというくらいに並んでいる。

 暗すぎず、明るすぎず、うるさすぎず、静かすぎず。

 まさに、ゆったりと音楽を聴くには最適のお店。

 ジャズカフェ「ビハインド・ザ・ビート」はまさにそんな場所だった。


「いらっしゃい」


 優しい声がカウンターの奥から聞こえてきた。

 姿を見せたのは、有栖川ではなく白髪の老人だった。

 優しい声の主らしく、のんびりとした温和な空気を放っている。


「何か、飲むかい?」


 ぶっきらぼうに老人が言う。
 
 手持ちがなかった俺は首を横に降った。


「お金はいらないよ。ちひろが世話になったみたいだからね。コーヒーの一杯くらい出してやらないととだめだろう? やぜかばってん」


 仏頂面を浮かべて、老人はコーヒーカップを取り出した。

 老人の言う「やぜか」の意味はわからなかった。
 だが、彼が放っている面倒くさそうな空気から、きっと良い意味の言葉ではないと思う。

 どうやら、老人に接客する気はさらさらないらしい。

 まぁ、俺は客ではないのでそういう態度でも問題はないのだが。


 コーヒーを煎れる老人の姿をしばらく見ていたが、気まずくなって店内に流れている音楽に意識を向けた。

 どこか霞がかったような雰囲気のあるピアノサウンドは、繊細でありながら優雅な独特のリズムを奏でている。


「……ジャズは好きかい?」


 俺はその声ではたと我に返った。老人がコーヒーカップを差し出していた。


「いえ、特には」


 カップを受け取り、軽く会釈してからそう答えた。

 失敗したと少し後悔した。

 相手はジャズ喫茶を営んでいる気難しそうな年配者なのだ。
 嘘でも好きだと答えておかないと、気分を害してしまうかもしれない。


「そうか。やけに真剣に聴いてたから、てっきり好きなのかと」


 老人は変わらない口調で言った。
 むしろ、少しだけ柔らかくなったような気さえした。


「ジャズは父が聴いていたんです」

「へぇ、お父さんが?」

「父がジャズレコードをたくさん持っていて、よく聴かされていました。仕事場が港のほうで自宅を往復する毎日だったんですが、唯一の趣味がジャズだったんです」

「何を聴いていたんだ?」

「コルトレーンを」

「ああ、コルトレーン。良いよね。確かうちにも何枚か──」

「持って来たよ」


 老人の声に重なって、有栖川の声がした。

 カウンターの奥からレコードを手にした有栖川が現れる。

 学校の制服姿から一変し、グレーのシャツにエプロンをつけたシックなカフェの制服に衣替えしていた。


「東さん、コーヒーを煎れてくれたんですね」


 有栖川が俺の手にコーヒーがあることに気づいて言った。

 どうやら東というのが老人の名前らしい。

 雑貨屋で有栖川が口にした東さんとは、この老人のことだったのか。


「客をほったらかしにはできんだろう」

「そっちこそ何を言ってるんですか。いつも私に店をまかせっきりなのに」


 呆れたように有栖川が言う。

 東さんはぎょっと目を見開くと、すぐに不機嫌そうな表情を浮かべてカウンターの奥へとひっこんでしまった。

 大丈夫なのだろうか。

 そんなことを言ったら、へそを曲げて業務に支障が出てしまいそうだが。


「大丈夫です。いつものことですから」

「あ、そうなんだ」


 どうやらふたりはそんなことも言い合えるほど、親しい間柄らしい。


「さて、おまたせしました」


 有栖川はカウンターの上にレコードを置いた。

 ジャケットにはコルトレーンが写っているが、見たことがないレコードだった。


「それも、コルトレーンなのか?」

「コルトレーンの最初のヒット曲になった『マイ・フェイバリット・シングス』です」


 有栖川の表情がぱっと明るくなる。


「もともとはミュージカルの『サウンド・オブ・ミュージック』の一曲だったとですが、コルトレーンがカバーして、ジャズのスタンダードミュージックになったとです。日本でもJR東海のCMで使われとったので、ジャズに詳しくなかひとでも耳にしたことはあると思います。この曲の3拍子とマイナー・メロディ、ソプラノ・サックスという組み合わせが、後のコルトレーンの定形パターンになってて──」


 と、有栖川の説明がぴたりと止まる。

 どうしたのかと有栖川の顔を見れば、きょろきょろと視線を泳がせていた。


「……ご、ごめんなさい。そういう話はいらないですよね」

「え? あ、いや。全然平気だけど?」

「でも、ジャズはあまり好きじゃないと東さんにおっしゃってましたし」


 店内に流れていた優しい霞のようなピアノサウンドが消えた気がした。


「聞いてたのか」

「す、すみません。立ち聞きするつもりはなかったんですが」

「いいよ。嫌いだっていうのは本当だし」


 面と向かって言う必要もないが、それを有栖川に隠す必要もない。

 曲が消えたように思えたのは、錯覚ではなかったらしい。

 流れていたピアノサウンドは鳴りを潜め、店内には押し殺したような沈黙が降りていた。


「……理由は、亡くなられたお父様ですか?」


 ちょっとしたことでは驚かない自信があったが、流石に瞠若してしまった。


「なんで俺の家のことを知ってるんだ? 誰から聞いた? 井上か?」


 俺の父が故人であることはごく一部の人間しか知らない。

 担任の植草先生と、学級委員長の井上だ。

 植草先生が簡単に口外するとは思えない。とするなら、井上だろう。


「こっ、ここまでの会話と、知っている住吉さんの情報をあわせて、そうではないかと」


 まさか。父の死を匂わせる会話なんて、何ひとつしていないのに。


「ええっと……ま、まず、住吉さんは五番街で『半年間放置していた父のレコードを譲る』とおっしゃっていました。つまり、住吉さんのお父様は半年前から何かしらの理由でレコードを聴けない状態にある。そして、その状態は今後も続く予定のはずです。お父様が大切にされていたレコードを、譲る話になっているのですから」


 丁寧に有栖川が言う。

 おっかなびっくりという感じだが、その口調は、ジャズを話しているときの彼女の雰囲気と似ている。


「それだけじゃ死んだという結論にはならないだろ。ジャズに飽きただけかもしれない」

「そ、そうですね。でも……五番街でおっしゃっていましたが、お父様はジャズマニアだったんですよね? 若い頃からの筋金入りのジャズ好きでコレクターだったのに、半年間放置してさらに手放すなんて、ありえるでしょうか」

「遠くに転勤になっただけかもしれない」

「そう頻繁に転勤はないと思います。自衛官だったなら、なおさら」


 言葉を失ってしまった。

 父の死だけではなく、職業まで当てるなんて。


「さきほど、お父様の仕事場が港だったと東さんにおっしゃっていました」


 有栖川の口調から、次第に怯懦の色が消えていく。


「転校してきたときの挨拶で、住吉さんは『父の仕事の関係で横須賀から佐世保に引っ越してきた』とおっしゃっていました。横須賀、佐世保、港。そのキーワードから導き出される職業は、海上自衛官です。一般企業なら急な人事異動や左遷といった理由でありえるかもしれませんが、国家公務員である自衛官で頻繁な転勤はありえない。もし、住吉さんのお父様が転勤が多い士官だったとしても、半年も経たずに転属されることはほぼありえません。だとすると、何かしらの不幸に見舞われて入院されているか……もしくは、お亡くなりになったかのどちらかです」


 そして、コレクションを処分するのなら、後者だと有栖川は考えた。

 説明されれば納得できる内容だが、ちりばめられた小さな情報でそこまで推理できる有栖川はすごいと思う。

 探偵顔負けの推理力だ。


「正解だよ。有栖川が言う通り、俺がジャズが嫌いになったのは死んだ父のせいだ。佐世保に引っ越してきて、俺はいろいろなものを手放さなければならなくなった。残された母を支えるために、色々なことを諦めた」

「だから、お父様を恨んでいる?」

「そうだ。それに、父は悪い人間じゃなかったが、良い父親でもなかった。休みの日はジャズレコードばかりだったからな」

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というわけですね」

「そんな考えは間違ってるとでも?」


 父とジャズは違うもので、同一化させるのは間違っている。

 そんなこと、有栖川に言われなくてもわかっている。

 だが、憎いものは仕方がない。

 嫌いなものを好きになれと他人に強要することなんてできないのだから。


「そうじゃありません。住吉さんの考えはすごく理解できます。私も同じような理由でジャズが嫌いになった時期がありました。ジャズを聴くのはもちろん、レコードを見るのも嫌になって全部捨てようって思ったこともあります」

「お前が? 嘘だろ」


 ジャズのことになると気持ち悪いくらい饒舌になるのに?


「本当です。だけど、捨てることなんて出来ませんでした。やっぱり私は……ジャズば好いとったんです」


 小さな微笑みを添えて、有栖川が言う。


「ねえ、住吉さん。レコード魅力って、何だと思いますか?」

「さぁ、わからないな」

「面倒で不便なところですよ。こちらにどうぞ」


 有栖川がカウンターに置いていたレコードを手に取り、カウンターから出てきた。

 そのままカウンターのそばに設置されていた、ターンテーブルへと向かう。


「レコードを聴くには、まずLP盤をジャケットから取り出して、ターンテーブルに置きます。……と、その前に、ターンテーブルのレコードをしまう必要がありますね」


 有栖川はターンテーブルに置いてあったレコード盤の中央部分に親指を当て、人差し指で縁をつまむようにしてひょいと持ち上げる。

 傍にあったビニールに入れると、代わりにコルトレーンのレコードをターンテーブルに置いた。


「レコードを持つときは、盤面に触れないように気をつけてください。あとは、神経を集中して……針を落とすだけです」


 ぶつ、というノイズが走り、店内にリズミカルなピアノとサックスの音色が広がった。


「レコードはCDと違って、音楽を飛ばすことも途中で止めることもできません」

「つまり、最後まで聴くしかない?」

「そのとおりです。レコードを聴きながら読書をすることもできますが、基本的に音楽を楽しむ以外のことができない。面倒で不便。でも、だからこそ、音楽が記憶の中に強烈に刻まれるんです。レコードに『思い出の一枚』という言葉が使われるのは、そういう理由からだと私は思います。住吉さんにも、あるんじゃないですか?」

「俺に?」

「ええ。思い出の一枚」

「あるわけないだろ。そんなもの」


 8枚も同じレコードを持ってた父じゃあるまいし。


「……あ」


 そうだ。

 父の部屋にあった8枚のブルートレインの件。

 もしかすると、有栖川ならあの謎を解いてくれるかもしれないな。


「有栖川、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

「え?」


 コルトレーンのサックスに合わせて体をゆらりゆらりと揺らしていた有栖川がはたと我に返った。

 瞬間、頬をかすかに赤く染める。


「ご、ごめんなさい。つい、コルトレーンに浸っとりました……」

「我を忘れるくらい好きなものがあるってのは、いいことだと思うよ」


 自分のセリフにデジャヴュがあったが、気にせず続ける。


「レコードって、同じものを何枚も持つことってある?」

「同じレコード、ですか?」

「実は父のコレクションに、コルトレーンのブルートレインが8枚もあったんだ」

「……へぇ?」


 有栖川の目がきらりと輝いた気がした。


「同じレコードを持つというのは、変な話でもありませんよ。希少価値があるレコードだったら、コレクションとして何枚も持つことはありますし」

「希少価値? レコードにもプレミア物とかあるのか?」

「あります。最近でも、世界に1枚しかない『ウータン・クラン』のアルバム『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・シャリオン』が2億円で取引されたという話もあります」

「に、2億? マジで?」


 それはもう、嗜好品というレベルじゃない。

 まさか、父が持っていたブルートレインもそれくらいの値打ちがあるとか?


「あ、でも、ブルートレインはそれほど高価というわけではありません。最初に刷られたオリジナル盤は結構な額になりますけど、8枚もあるなら違うと思いますし」


 有栖川はあっけなく希望を断ち切った。

 期待していたわけではないので、ショックを受けるほどのものでもないが。


「何か他に理由は考えられる?」

「そうですね。う~ん……その情報だけでは、なんとも」


 有栖川が首をひねる。


「謎が針飛びしとりますね」

「……え? 針飛び?」

「あ……いえ、なんでもなかです」


 またしても、ぽっと頬を染める有栖川。

 こほんと咳払いをはさみ、続ける。


「もし可能でしたら、そのレコードを見せてもらえないでしょうか? 実際に見れば、何かわかるかもしれません」

「じゃあ、明日持ってこようか」


 明日は土曜だが祭日で学校はないし、家事をする以外に予定もない。


「え? 住吉さんの家ってここから近いのですか?」

「ああ。戸尾。トンネル横丁の向こう」

「うぇっ!? すごく近いじゃないですか!」


 なぜか嬉しそうにする有栖川。

 近いと何かいいことがあるのだろうか。


「じゃあ、お願いします。10時から開店ですから」 

「ああ、わかった」


 とはいえ、そんな早くに来るつもりはないけど。

 自由に動けるのは昼食を作ってから夕食を作るまでの時間だけ。

 だからまぁ、適当な時間に来れば良いだろう。

 カウンターにおいていたカバンを手に取り、東さんにコーヒーのお礼を言って店の入り口へと向かう。

 扉を開けた瞬間、止まっていた時が動き出したかのように外界の音が流れ混んできた。

 店の周りは閑散としているが、それでも店内よりは騒がしい。


「あ、あの、10時……ですからね?」


 背後から、有栖川の声がした。

 コルトレーンのジャケットを抱きしめている有栖川が、何かを期待しているような眼差しを俺へと向けている。

 そんなにレコードの謎がお気に召したのだろうか。

 俺の素性を推理したときもジャズを話しているときと同じくらい、目を輝かせていた。


「ぜ、絶対ですからね?」

「……わかったよ。じゃあな」


 飴色に染まった空に向かってため息をひとつ。

 どうやら今日は、家事を前倒しで済ませておく必要がありそうだ。
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