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第二章 ビル・エヴァンス「ポーギー」

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「うわぁ! すごいおしゃれ!」


 井上はジャズカフェ「ビハインド・ザ・ビート」の店内を見渡すと、キラキラとした目で感嘆の声を漏らした。

 そんな井上を奇怪なものを見るような目で眺めている俺。

 井上がここにいるなんて、なんだか現実味がない。


「どうも最近、客の平均年齢が低くなっている気がするな」


 そう笑ったのは、カウンターで紅茶を入れている東さんだ。


「君もジャズが好きなのかね?」


 そして、お決まりのように訊ねる。


「いえ、特には」


 井上はオブラートに包まず、きっぱりと答えた。

 いや、そこは嘘でも好きだと答えるべきだろ。

 まぁ、俺も同じような返答をしてしまった気がするけど。


「ふむ。ジャズが好きではないのに、ジャズを聴きに来る。そういうのが最近の高校生の流行りなのかね?」

「いや、そういうわけではないと思いますよ……」


 井上の代わりに俺が答えた。


「彼女はちょっと相談ごとがあって来たんです。彼女の祖父がジャズレコードを探しているらしくて」

「ほう? ジャズレコード?」


 俺は、カフェに来る道中で井上に教えてもらったことを東さんに説明した。

 井上にジャズレコードを探して欲しいと頼んだのは、相浦に住む父方の祖父だった。

 彼は現在、佐世保公園の近くにある佐世保市総合医療センターに入院しているらしい。

 自宅で倒れているところを井上が発見し、病院に搬送されたという。

 数年前に奥さんに先立たれ、一人暮らしをしていた祖父を按じて頻繁に自宅に足を運んでいたのが幸いしたのだけれど──医師から告げられた病名は、大腸ガン。

 ステージは4……つまり、他の臓器への転移が見られ手の施しようがない状態。

 余命は半年で、長く持って1年と宣告された。

 井上の祖父は、仕事一筋の人間だったという。

 若い頃に一度リストラを経験していて、再就職してからは遊びらしい遊びは何もせず、ひたすらに仕事に邁進していた。

 定年を迎えて、「これからは老後を楽しむ」と言っていた矢先の出来事。

 余命を宣告され、己の死期を悟った祖父は孫娘に最後の願いを口にした。

 それが、「とあるジャズレコードを探してほしい」という依頼だった。

 20年ほど前に持っていた思い出のレコード。

 それを最後にもう一度だけ目にしたいということだったのだが──。


「ちょっと問題がありまして」

「というと?」


 訊ねながら、東さんはコーヒーカップを差し出す。


「それが……誰の何の曲なのかわからないんです」


 年齢のせいなのか、井上の祖父は探しているレコードに関する情報を何も覚えていなかった。

 アーティストの名前はおろか、曲名すら覚えていない。

 わかっているのは、「美しいピアノのジャズ」ということだけ。

 井上はそれだけを頼りにジャズレコードが置いてある店を周っていたらしい。

 さすがに井上に同情してしまった。

 美しいピアノが特徴的なジャズなんて星の数ほどある。

 その中から一枚を探し出すなんて、干し草の中から針を探すようなものだ。


「それは難題だな。曲名を覚えていないなら、サブジャンルもわからないだろうし……」

「サブジャンル?」

「ジャズにも色々とジャンルがあるんだよ。『スウィング・ジャズ』や『ビバップ』という名前を聞いたことはないか?」

「……あっ、ありますね」


 具体的にどういうものなのかはイメージできないけど。


「ジャズの初期に流行っていたのが『スウィング・ジャズ』だ。簡単にいうと、大人数のビッグバンドで演奏するスタイルだね。軽快なダンスリズムが特徴で、ジャズの代名詞とも言える即興やソロ演奏はなく、バンド全体で演奏する感じといえばわかりやすいかもしれない。そういえば、日本の映画でも取り上げられたことがあったかな」


 いつか、テレビで観たような気がする。

 確か、高校生がビッグバンドを組んでジャズを演奏する映画だった。


「そこから即興演奏やソロ演奏が重視され、少人数で演奏する『ビバップ』が生まれた。ビバップはコード進行に沿った形で演奏されるのだが、途中で自由な即興演奏が入るのが特徴だ。そこからさらに即興やソロの自由度が増したのが『モード・ジャズ』で、マイルス・デイヴィスがモード・ジャズを確立したと言われている」

「じゃあ、ビル・エヴァンスやジョン・コルトレーンもモード・ジャズなんですか?」

「そうだな。彼らがやっているのがモード・ジャズだ。特にコルトレーンはモーダルなジャズを誰よりも深く探求していた」

「なるほど……」


 なんとなく流れが理解できた。

 一口にジャズと言っても長い歴史の中で色々なジャズが生まれてきた。

 それぞれ特徴があって、演奏するアーティストにも得意分野がある。


「つまり、そのジャズのサブジャンルがわかれば、お爺ちゃんが探しているレコードが絞られるってことですね!」


 井上がカウンターに身を乗り出す。

 店内を物珍しそうに見回っていたはずなのに、いつの間にか隣で俺たちの会話を聞いていた。


「まあ、そういうことだね。サブジャンルがわかれば年代がわかる。そうすれば、かなり絞ることができるのだが……」

「曲を覚えていないので、難しいかもしれませんね」


 今度はカウンターの向こうから別の声が会話に入ってきた。

 店の制服に着替えてきた有栖川だ。


「わ! 有栖川さん可愛い!」

「か、可愛い!?」

「すごく似合ってるし、可愛い制服! それ、このカフェの制服?」

「そ、そうです」

「へぇ! そんな可愛い制服が着られるなら、あたしもここでバイトしようかな!?」

 
 やめろ。

 俺の憩いの場に土足で立ち入るようなマネはしないでくれ。切実に。


「あ、あの……」

 
 ひとり盛り上がる井上を横目に、有栖川がカウンターの上にそっと数枚のレコードを出す。


「とりあえず、カフェにあるピアノ・ソロが特徴的なモード・ジャズのレコードを持ってきました」

「ふむ……キース・ジャレット、オスカー・ピーターソン、セロニアス・モンク、エロール・ガーナー、それにビル・エヴァンス。確かにピアノソロが特徴的なモード・ジャズだな」

「じゃあ、その中にお爺ちゃんが探しているレコードが?」


 再び目を輝かせる井上。

 だが、有栖川は首を横に振った。


「いえ、残念ながら可能性は低いと思います。他にもピアノ・ソロが特徴的なレコードは沢山ありますし、アーティストが合っていても曲が違う可能性もありますし」

「……そっか。そうだよね」


 残念そうに井上が肩を落とす。

 そうなる気持ちはわかる。なにせ、井上の祖父にはあまり時間が残されていないのだ。


「なぁ、井上? 他にヒントになることは言ってなかったのか? 例えば……何かメモを残していたとか」


 俺の父がそうしていたように。

 しかし、井上は渋い顔をする。


「何も言ってなかった。というか、ジャズを聴いてたなんて話自体が初耳だったし」

「え? レコードは1枚も持ってなかったのか?」

「そうなの。おかしいよね。最後に聴きたいのがジャズレコードっていうくらいだから持っていてもおかしくないと思うんだけど……」


 確かに不思議だ。

 好きだったから最後に聴きたかった……というわけではないのだろうか。


「それって単純に井上が知らなかっただけじゃないのか?」

「それは無いと思うよ。うちの親って私が小さい頃から仕事で家を留守にすることが多くて、よくお爺ちゃんの家に行ってたし。お爺ちゃんとはいつも一緒だったけど、ジャズを聴いているような雰囲気はなかった」

「じゃあ、隠れて聴いてた可能性は?」


 家族への配慮、周辺住民への気遣い。

 色々な理由でおおっぴらに出来なかった可能性はある。


「ん~……それも無いかなあ。そもそも、一緒に住んでいたお婆ちゃんが大嫌いだったんだよね」

「嫌いって、ジャズが?」

「そう」


 井上曰く、祖母は洋楽……特にジャズが嫌いだったという。

 長くて単調なフレーズが続くし、何を楽しめば良いのか全くわからないと愚痴をこぼしていたらしい。


「それに、今の音楽と違ってレコードって大きな機械が必要でしょ? だから、隠れて聴くなんて無理だと思う」


 ターンテーブルにスピーカー。

 それに、レコード自体も大きい。

 スマホに格納できるデータと違って、隠れて聴くなんて難しい。

 祖母がジャズ嫌いというなら、ふたりの思い出の一枚というわけでもないだろう。

 でも、だとすると、どうしてジャズレコードを聴きたいなんて言い出したのだろう?


「……ん~、ちょっと謎が針飛びしていますね」


 有栖川が首をかしげる。


「ひとまず、お探しの曲を探すのを優先しましょう。井上さんのお祖父様にここに来てもらうというのは難しいですか?」

「え? このお店に?」

「はい。ここで実際に曲を聴いてもらうんです。もし違っていても雰囲気が似ていれば、絞り込むこともできます」


 ジャズはアーティストによって曲の雰囲気が大きく変わる。

 サックス演奏者でもソニー・ロリンズにはラテンの香りがするし、ピアノでもビル・エヴァンスにはクラシックの繊細な雰囲気がある。


「いい考えだと思うけど……ごめん、難しいと思う。外出許可が降りないだろうし、今は歩くのも困難な状態なんだ」

「お祖父様は、自宅療養を選ばなかったんですか?」

「……うん。私たちに迷惑はかけたくないって」


 沈んだ表情を浮かべる井上。

 こいつがこんな表情をするのは初めて見る。

 井上の家族と祖父との間で様々なやりとりがあったのだろう。

 最後は住み慣れた自宅で迎えたいというのは共通の考えだと思う。

 だけど、そうするためには家族の負担が増えるというのは、母で経験したからなんとなくわかる。

 負担を与えたくないから、病院で最後を迎えることを決めた。

 会ったことはないけれど、井上の祖父がどんな人物なのかよく分かる。


「ここに来られないなら、俺たちが行けばいいんじゃないか?」


 だから、彼のレコード探しに協力したいと思った。

 ポケットからスマホを取り出す。


「今は便利なものがあるからな」


 スマホに音楽を入れられるだけ入れて、持って行けばいい。


「……それ、良いアイデアですね」


 有栖川が笑顔で頷く。


「イヤホンをつければ周りの患者さんに迷惑もかからないし、じっくり聴くこともできます。レコードと違って曲を飛ばすこともできるので時間の短縮にもなりますし。さすが住吉さん」


 なんだか恥ずかしくなってしまった。

 正直なところ、そこまでは考えていなかったんだけど。


「では、こちらで該当しそうな曲をリストアップして、データ化しておきますね」

「よし。それじゃあ、今週末あたりで会いに行けそうだな」

「そうですね」


 あまり時間がなさそうなので、できるだけ早いほうがいい。

 学校があるので平日は難しいだろうけど。


「では、週末は私ひとりで店番をしよう」


 そう言ったのは、俺たちの会話に耳を傾けていた東さんだ。


「ひとりで大丈夫ですか?」


 ついそう尋ねてしまった。
 
 東さんは不服だと言いたげに眉をひそめる。


「何を言っているんだ住吉くん。もともとは私ひとりでやっていた店だぞ? 私だけでもなんとかなる」

「それはすごい」

 
 と返したのは俺ではなく有栖川。

 ニコニコしているけど、なんだか怖い。

 ひとりでできるんならもっと手伝って──と空気が語っているような気がする。


「……それで、どうだ井上?」

「え?」


 井上がキョトンとした表情を浮かべる。


「こっちの予定は大丈夫なんだけど……行っていいかな?」

「あ、うん、多分、こっちも大丈夫だと思う。面会は普通にできるし。でも……平気なの?」

「平気って、何が?」

「いや、私のお爺ちゃんのために、わざわざ時間を使って……や、お願いしたのはこっちなんだけどさ」


 きっと井上は軽い気持ちで相談したのだと思う。

 俺や有栖川の知識だけを借りて、あとは自分の力でなんとかしようと考えていたのだろう。

 ひとりでなんでもやってしまう井上らしい考え方だ。


「気にしないでください」


 そう言ったのは、有栖川。


「そのレコードが何なのか私も知りたいですし……それに、ジャズ好きの方を見捨てるなんてできませんよ」

「あ、有栖川さん……」


 井上はその言葉をしっかりと噛みしめるように息を呑み、やがて静かに口を開いた。


「有栖川さん、住吉くん、東さん、本当にありがとう。本当に……」


 そう言って、井上は深々と俺たちに頭を下げた。
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