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第二章 ビル・エヴァンス「ポーギー」

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 有栖川との待ち合わせ場所に選んだのは、井上の祖父が入院している佐世保市総合医療センターの近く、佐世保川にかかるアルバカーキ橋だった。

 この「アルバカーキ」とは、アメリカのニューメキシコ州にあるアルバカーキ市のことだ。

 佐世保市とは姉妹都市にあり、友好の印として命名されたらしい。

 佐世保には、この橋以外にもアメリカの香りがする場所が多い。

 例えば佐世保公園と隣接して、アメリカ海軍が管理する「ミニッツパーク」という運動公園がある。

 ここでは毎年アメリカンフェスティバルというアメリカ海軍と佐世保市の友好イベントが開催されていて、来場者は10万人以上にも上るという。

 今日も週末とあって、橋の上を多くのひとが行き交っていた。

 家族連れの日本人やアメリカ人。

 若いカップル。

 そんな中で、ひときわ俺の目を惹きつけたのは大きなけむくじゃらの白い犬を連れたアメリカ人だった。

 あの犬は、たしかサモエドとかいうロシアのシベリアに住む遊牧民と暮らしてきた犬種かな。

 初めて見たけど、予想以上にデカくてモコモコとしている。

 しかも飼い犬だけではなく、飼い主の体もでかい。

 軍人だろうか。

 空手の道場にも外国人がいたが、彼よりも体のサイズが一回りは大きい気がする。


「あ、あのっ!」

「……うわっ!?」


 突然、背後から大きな声で呼びかけられ、心臓が飛び出るほど驚いてしまった。

 有栖川だ。

 彼女の姿を見て、もう一度どきっとしてしまった。

 有栖川はいつもの制服姿ではなく、私服姿。

 ふわりとした長い白のスカートに、落ち着いた雰囲気のあるネイビーのノースリーブ。

 いつもより大人びた雰囲気が増しているのは私服のせいだろうか。

 それとも、いつも結んでいる髪をおろしているせいだろうか。


「お、お、おまたせ……しました。ちょっと、準備に時間がかかってしまって」 

「あ、いや、俺も今きたところだから、全然平気だよ」


 なんだか気まずい感じになってしまった。

 な、なんだこの空気。

 これじゃあデートの待ち合わせをしているカップルみたいじゃないか。

 ごほんと咳払いをひとつ挟んで、気持ちを切り替える。


「それで、音楽のほうは大丈夫なのか?」

「は、はい。再生して確認をしましたが、問題はありませんでした」


 これは知らなかったんだけど、最近のレコードプレイヤーはUSBでパソコンと接続することで簡単にデータ化することができるらしい。

 とはいえ、取り込むには最後まで聴き終える必要があるので相当な時間がかかったけど。

 作業が終わったのは、週末ギリギリだった。


「それじゃあ行こうか。病院はすぐそこみたいだし」

「ですね」


 アルバカーキ橋を渡り、佐世保公園を左手に望みながら医療センターへと向かった。

 公園には、世間と切り離されたようなゆったりとした時間が流れていた。

 ランニングしているアメリカ人カップルがすれ違いざまに挨拶をしてきたので、軽く会釈をする。


「結局、井上の祖父が探している曲って、なんなんだろうな」


 何気なく有栖川に訊ねた。


「なんとなく、目星はついたりする?」

「すみません、やっぱりあの情報だけでは、なんとも」

「まぁ、そうだよな」


 美しいピアノが特徴のジャズというだけでは、さすがの有栖川でも難しいか。


「でも、突然ジャズを聴きたいと思った理由と関係している気がします」

「理由か。前から聴きたいと思っていたレコードがあったけど、奥さんに気を使って聴けなかった……とか?」

「私もそれは考えました。ですが、聴きたいレコードがあったのなら、奥さんが亡くなられたときに探すはずじゃありませんか?」

「それはそうだな」


 井上の祖母は5年前に他界しているらしい。

 癌が発覚したのが半年前なので、それまでひとりで生活をしていた。

 だったら、その間に探していてもおかしくない。


「でも、そのレコードを聴けなかったことを後悔しているのは間違いないと思います。だから年老いても無理を承知で井上さんに──」


 途中まで何かを言いかけて、突然有栖川はぴたりと足を止めた。


「ん? どうした?」


 立ち止まった有栖川に声をかけたが、返答はない。


「……年老いた……いや、ありえるかもしれない」


 有栖川は口元に指を添えて、考えこんでいるようだ。

 幾人もの通行人が奇妙なものを見るような目で俺たちを見ながら通り過ぎていく。

 そして、幾ばくかの時間が流れた後──


「……住吉さん」


 深い海の底から浮上してくるように、ようやく有栖川が口を開いた。


「申し訳ないのですが、お先にひとりで病院に行っていただけませんか?」

「え?」

「私のスマホを渡しておきますので、お願いします。操作はわかりますか?」

「分かると思うけど……急にどうした?」

「ごめんなさい。ちょっと気になったことがあって」


 言葉少なく有栖川はポーチからスマホを取り出して手渡してきた。


「暗証番号は、1122……私の誕生日です。それでは、よろしくおねがいします」

「お、おい」


 簡単に暗証番号を教えるなとツッコミを入れたかったが、声をかける前に有栖川は来た道を小走りで戻って行った。

 残された俺は、遠ざかっていく有栖川の背中を呆然と眺めるしかなかった。


「……なんなんだよ、一体」


 ぽつりと出た俺の愚痴は佐世保川から吹き付ける風に乗り、天つ空に消えていった。
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