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第四章 ジョン・コルトレーン「ボス・ディレクションズ・アット・ワンス」
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皮肉なことに、冬の冷たい雨は俺の頭を冷やすには最適だった。
金物街からトンネル横丁に抜け、自宅がある戸尾の坂を登っていくころにはすっかり冷静に状況を把握できるまでになっていた。
雨霧の向こうにイルミネーションで着飾った船舶が見えた。
佐世保湾に停泊している海上自衛隊の護衛艦だろうか。
12月にはイルミネーションのフェスティバル「きらきらフェスティバル」なるものが開催されると有栖川が言っていた。
ハウステンボスに次ぐ電飾数があるとかなんとか興奮気味に語っていたのを覚えている。
タイミングが合えば見に行けるかもしれないなんて思っていたが、その機会は永遠に訪れそうにない。
有栖川は、東真一と佐世保を離れることになる。
ふたりはお互いを必要としているのだ。
東真一は有栖川のジャズの知識を。
有栖川は東真一のバイヤーとしての能力を。
だから有栖川は東真一の誘いに乗った。
そこに脅迫的要素や、後ろめたいことなどは何も存在しない。
卒業までは佐世保にいるかもしれないが、彼女を止められる可能性は残されていない。
それは、この世に存在するかもわからないコルトレーンの幻のレコードを見つけることよりもずっと難解なことだ。
「ボス・ディレクションズ・アット・ワンス」
ふと口にした、その名前。
店を救うために奔走していたのがずっと昔のように思える。
借入金の返済を求める訴訟を止めるために、東真一が提案してきたレコードを探している最中だった。
でも、もうどうでもいい。
有栖川がいないのだったら、必死になる意味がない。
ふと、乾いた笑いが出てきた。
そもそも、あの店がなくなれば、父のレコードを聴くこともブルートレインが持ち込まれるのを待つこともできなくなる。
だったら、気合を入れてレコードを探すべきだろう。
有栖川のことは関係なく、店を救うために動くべき。
──だけど、その気迫は頬を流れていく雨水とともに、滴り落ちてしまう。
家についた俺を見て、母は驚いていた。
それもそうだろう。
朝、学校にいくときには傘を持っていったはずなのに、びしょ濡れで帰ってきたのだから。
すぐにタオルを持ってくるといって部屋に戻る母の背中をみて、既視感を覚えた。
そういえば、ビハインド・ザ・ビートでも東さんがタオルを持ってくるといっていたっけ。
東さんに悪いことをしてしまったな。
次に会うときは、ちゃんと謝ろう。
その日がいつ来るのか、本当に来るのか、わからないが。
母が持ってきてくれたタオルで体を拭いて、バスルームへと向かった。
熱いシャワーを浴びて、すべてを洗い流す。
インターホンが鳴るのが聞こえた。
荷物でも来たのかと思った瞬間、バスルームの扉が開かれた。
「隆弘」
「……う、わっ! な、なんだよ」
扉を開けたのは、不思議そうな顔をした母だった。
「お客さんだけど……」
「え? 客? 誰?」
「さあ。知らないオジサンだけど、隆弘に話したいことがあるって」
「……オジサン?」
一体誰だ?
というか、誰であっても今は会いたい気分ではない。
居留守を使おうかと思ったけど、こうして母が戻ってきている以上、いないという話は通じないだろう。
仕方ない。
面倒だけれど、面と向かってお引取り願おう。
「すぐ行くから」
母からタオルを受け取り、体を拭いてからジャージに着替えた。
髪の毛は適当に拭いて、急いで玄関に向かう。
だが、玄関には誰の姿もなかった。
あったのは、見知らぬ革靴。
もしかして、母が上がるように言ったのだろうか。
面倒なことになった。
ため息をひとつついて、リビングに向かう。
「すみません、おまたせしました」
リビングに入ったとき、そこが自分の家のリビングではないような感覚があった。
いや、現実味がないといったほうが正解か。
「……東さん?」
ソファーに腰掛けていたのは、気難しそうな空気をまとっている白髪の老人。
ビハインド・ザ・ビートの店長である、東さんだった。
「ああ、住吉くん。突然の訪問で申し訳ないね」
何がなんだかわからなかった。
どうして東さんが俺の家に? というか、どうして住所がわかったのだろうか。
「まあ、驚いて当然だな。君が送ってくれたお父さんのレコードだよ。あのダンボールにあった送り状に住所が記載されていたからね」
「……ああ」
そういえば、父のレコードをビハインド・ザ・ビートに預ける際に、大半のレコードは郵送で送ったんだっけ。
「あのときの礼を家族の方に言っていなかったのでね。それを兼ねて、ちょっとお邪魔することにしたというわけだ」
「隆弘。こんなものを頂いたわよ」
母がキッチンカウンターの向こうで四◯三アーケードにあるデパート、佐世保玉屋の袋を掲げた。
中身はわからないが、なかなかに高価なもののように見える。
「そんな、わざわざ来るようなことでもないのに」
「まぁ、正直に言えばそれは言い訳のようなものだな。本題は、ちひろの件だ」
その名前に、ぎゅっと心臓が押しつぶされたような感覚があった。
どこで耳にしたんだと思ったが、一緒の店にいるのだからさすがにわかるか。
「……母さん。ちょっと、席を外してもらってもいい?」
「え? あ、うん、わかった」
コーヒーを準備していた母は一瞬キョトンとしたが、雰囲気で察したのか、すぐにリビングを後にした。
キッチンから、母が用意していたふたつのコーヒーカップを手にとり、東さんのもとへと向かう。
「君には本当に色々と迷惑をかけてしまって申し訳ないと思っている」
おもむろに、東さんは切り出した。
「謝罪して許されるものでもない。だから、せめて息子とちひろの間にある事実を伝えるべきだと思って、こうして馳せ参じたというわけだ」
「大体のことは知っていますよ。息子さんと有栖川の両方から聞いていますから。ふたりの関係や、店にレコードを預けさせていた理由も」
コーヒーカップを手にとり、ひとくちカフェオレを飲んだ。
東さんがいつも淹れてくれいるカフェオレよりも、ずっと苦かった。
「いつか君は私に訊ねたね。想い出のレコードはあるのかと」
「そんなこと、言いましたっけ?」
「たしか、君が2回目に店に来たときだったか。想い出のレコードの話になって、私は『死ぬまでにもう一度聴きたいレコードがある』と言った。ちひろのためにも忘れたほうがいいとも」
そう言われて思い出す。
あのときは、「忘れてくれ」と言われて終わったっけ。
「息子がちひろのレコードを持ち去ったことは知っているな?」
「はい。伺っています」
「そのときに、私のコレクションも一緒に持ち去ったことも?」
「そうですね。聞いています」
「私が死ぬまでにもう一度聴きたいと言っていたのは、そのレコードなのだ。ビル・エヴァンスの『ニュー・ジャズ・コンセプション』のオリジナル盤。当時無名だったエヴァンスが初めてリーダーを務めた作品でね。知り合いから譲ってもらったのだが、再び手に入れようにも、簡単に手が出せる値段ではなかった」
聞いただけでもかなりの値打ちがあるレコードだとわかる。
「だが、そのレコードは諦めることにした。私が諦めなければ憎しみにかられてちひろは息子との関わりを持とうとするからだ」
憎しみ。
その言葉に違和感を覚える。
「……有栖川がレコードを集めて息子さんを呼び戻そうとしていたのは一緒に店を持つという約束があったからだと聞きました」
「ちひろが取り憑かれたように客にレコードを預けさせていたのは息子を呼び戻すためだ。だが、理由は違う。あくまで、息子が持ち去ったレコードを取り返すためだった」
「まさか」
「嘘ではない。ちひろの口から直接聞いた。君は誰からそのことを?」
「それは……もちろんふたりに……いや」
東真一はそのことを言っていたが、有栖川はどうだっただろう。
それらしいことは言っていたが、はっきりと明言してはいなかった気がする。
「息子が言っていたのなら信じてはいけない。あれは口がうまい。ちひろもその話術に騙されて、大切な祖父の遺品や私のコレクションを渡してしまったのだ」
「……う」
胸が苦しくなってきた。
あの話が嘘なら、有栖川は東真一と店を作ろうとは思っていないということになる。
とするなら、誘われたというのも偽りなのか。
いや、と自分に言い聞かせる。
その言葉は有栖川本人からも聞いた。
店を作ろうというのが嘘でも、有栖川が彼の誘いに乗ったのは紛れもない事実。
「私が『息子のことは忘れろ』とちひろに言えなかったのは、甘えがあったからだ。ちひろが息子を引き戻すことができたなら、私の大切なレコードも戻ってくるのではないかと考えていた」
だが──東さんはそう続ける。
「先日、ようやくちひろに『息子のことは忘れろ』と伝えることができたよ。決心させてくれたのは、君のおかげだ」
「……俺?」
「そうだ。君がちひろを変えてくれた。私にもできなかったことだ」
「でも、俺は別になにも」
「先程、ちひろは取り憑かれたように希少レコードを集めていたと話したな。客に声をかけて店にレコードを預けてくれないかと頼んでいたと」
俺は無言で首肯する。
「そのせいで店にこなくなった者も中にはいたが、私は目をつぶっていた。うまくいけば、私のレコードも戻ってくるかもしれなかったからだ。だが、君が来るようになってから、客にその話をすることはなくなった。君に頼んだのが最後だったと思う。君と出会って、ちひろは改めてジャズと向き合うことができたからだ。かつて、息子がちひろにやったように、君がちひろにジャズを思い出させてくれたのだ」
「……息子さんが?」
「ちひろは一度だけジャズが嫌いになったことがあった。ジャズを教えてくれた祖父が亡くなったときだ」
有栖川は確かに言っていた。
レコードを見るのが嫌になって、全部捨てようと思ったことがあると。
「再びジャズの魅力を気づかせてくれたのは息子だといっていた。だが、その息子に裏切られて、ちひろは再びジャズを楽しむことを忘れてしまった」
聴くためにレコードを集めていたのではなく、復讐のためにレコードを集めていた。
そうしているうちに、ジャズに向けていた感情がわからなくなってしまったのだろう。
「楽しそうにジャズを語っているちひろを見たのは久しぶりだ。全部君のおかげだよ」
「俺はなにもやっていませんよ。それに、有栖川は俺よりも息子さんのことを大切に想っているみたいですし」
「ちひろはずっと抱えていた息子への想いを断ち切って、君との関わりを優先した。客からレコードを預かろうとしなくなったのが証拠だ」
「でも、有栖川は息子さんと一緒に佐世保を離れようと考えています。店を作るというのは嘘かもしれませんが、それだけは事実です」
ときが止まったかのような、静かな時間が流れる。
窓ガラスに打ち付ける雨の音だけが、やけにくっきりと輪郭を持つ。
「君は、どうしたいのかね?」
優しく、諭すように東さんは言う。
「先程から君は周りのことばかり口にしている。君がどうしたいのか、一番大切なのはそこじゃないのか?」
「……っ!」
正直なところ、天地がひっくり返るような衝撃だった。
確かに、東さんが言う通りだ。
これまで考えてきたのは、有栖川や東真一がどう考えているかばかりだった。
いくら考えても、決して答えが出てこないものばかり。
人の心はわからないもの。
だけど、世界にひとつだけ、わかる心がある。
俺はどうしたい。
初めて己に問う。
これまで一度も聞いたことがない、俺の本心。
瞬間、俺の心は待ち構えていたように答えを吐いた。
「有栖川には行ってほしくないです。願わくば、ずっとビハインド・ザ・ビートでジャズを聴きながら、アーティストにまつわる話をたくさん聞かせて欲しい」
東さんが嬉しそうに頷いた。
すっと、心の芯が落ちたような感覚があった。
始まりは打算的だったとしても、有栖川の背を押してあげるのが友人としての役割だとしても、行って欲しくないという感情に嘘偽りはない。
それだけは、はっきりとわかる。
この想いを話せば、有栖川は振り返ってくれるだろうか。
東真一以上に必要としていることを伝えれば、立ち止まってくれるだろうか。
答えは、否だろう。
会ったところで話を聞いてくれるとは思えない。
有栖川は心を閉ざしてしまったのだから。
どうにかして、有栖川を引き止める方法はないだろうか。
彼女がやっていたように、レアレコードでひきとめるという方法はどうだ。
考えるまでもなく、意味をなさないのがわかった。
彼女はジャズ好きだといっても、東真一ほど希少レコードに価値を見出しているようには見えない。
彼女が大切にしているのは、ジャズという音楽であり、そこにまつわる「想い」なのだ。
だったら、失われた有栖川の祖父のレコードはどうだ?
可能性はあるが、これも難しい。
この数日中に発見するなんて宝くじを当てるようなものだ。
可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。
認めたくないけれど、有栖川の祖父のレコードはもう「存在しないレコード」なのだから──。
「……存在しないレコード?」
そうだ。
あるじゃないか。
もうひとつ、有栖川の想いがつまったものが。
有栖川が自分の店を持ちたいと考えていたのはなぜだ?
どうして彼女は、将来新しい店を構えて東真一にレコードを用意してほしいと願った?
ビハインド・ザ・ビートを継ぐことができないからだ。
もし、有栖川が店を継ぐことができたら、佐世保を離れる理由はなくなる。
だったら、有栖川に店を継いでもらうにはどうすればいい。
東真一に訴訟を取り下げてもらい、債権放棄してもらえば──それが可能になる。
「どうした?」
東さんがこちらを案じたような表情で見ていた。
「何か、あったのかね?」
「いえ。なんでもありません。ただ……改めて決心しただけです」
俺の手で、ビハインド・ザ・ビートを守るためにレコードを探す。
東真一のリストに載っていた、あの十枚のレアレコードを。
金物街からトンネル横丁に抜け、自宅がある戸尾の坂を登っていくころにはすっかり冷静に状況を把握できるまでになっていた。
雨霧の向こうにイルミネーションで着飾った船舶が見えた。
佐世保湾に停泊している海上自衛隊の護衛艦だろうか。
12月にはイルミネーションのフェスティバル「きらきらフェスティバル」なるものが開催されると有栖川が言っていた。
ハウステンボスに次ぐ電飾数があるとかなんとか興奮気味に語っていたのを覚えている。
タイミングが合えば見に行けるかもしれないなんて思っていたが、その機会は永遠に訪れそうにない。
有栖川は、東真一と佐世保を離れることになる。
ふたりはお互いを必要としているのだ。
東真一は有栖川のジャズの知識を。
有栖川は東真一のバイヤーとしての能力を。
だから有栖川は東真一の誘いに乗った。
そこに脅迫的要素や、後ろめたいことなどは何も存在しない。
卒業までは佐世保にいるかもしれないが、彼女を止められる可能性は残されていない。
それは、この世に存在するかもわからないコルトレーンの幻のレコードを見つけることよりもずっと難解なことだ。
「ボス・ディレクションズ・アット・ワンス」
ふと口にした、その名前。
店を救うために奔走していたのがずっと昔のように思える。
借入金の返済を求める訴訟を止めるために、東真一が提案してきたレコードを探している最中だった。
でも、もうどうでもいい。
有栖川がいないのだったら、必死になる意味がない。
ふと、乾いた笑いが出てきた。
そもそも、あの店がなくなれば、父のレコードを聴くこともブルートレインが持ち込まれるのを待つこともできなくなる。
だったら、気合を入れてレコードを探すべきだろう。
有栖川のことは関係なく、店を救うために動くべき。
──だけど、その気迫は頬を流れていく雨水とともに、滴り落ちてしまう。
家についた俺を見て、母は驚いていた。
それもそうだろう。
朝、学校にいくときには傘を持っていったはずなのに、びしょ濡れで帰ってきたのだから。
すぐにタオルを持ってくるといって部屋に戻る母の背中をみて、既視感を覚えた。
そういえば、ビハインド・ザ・ビートでも東さんがタオルを持ってくるといっていたっけ。
東さんに悪いことをしてしまったな。
次に会うときは、ちゃんと謝ろう。
その日がいつ来るのか、本当に来るのか、わからないが。
母が持ってきてくれたタオルで体を拭いて、バスルームへと向かった。
熱いシャワーを浴びて、すべてを洗い流す。
インターホンが鳴るのが聞こえた。
荷物でも来たのかと思った瞬間、バスルームの扉が開かれた。
「隆弘」
「……う、わっ! な、なんだよ」
扉を開けたのは、不思議そうな顔をした母だった。
「お客さんだけど……」
「え? 客? 誰?」
「さあ。知らないオジサンだけど、隆弘に話したいことがあるって」
「……オジサン?」
一体誰だ?
というか、誰であっても今は会いたい気分ではない。
居留守を使おうかと思ったけど、こうして母が戻ってきている以上、いないという話は通じないだろう。
仕方ない。
面倒だけれど、面と向かってお引取り願おう。
「すぐ行くから」
母からタオルを受け取り、体を拭いてからジャージに着替えた。
髪の毛は適当に拭いて、急いで玄関に向かう。
だが、玄関には誰の姿もなかった。
あったのは、見知らぬ革靴。
もしかして、母が上がるように言ったのだろうか。
面倒なことになった。
ため息をひとつついて、リビングに向かう。
「すみません、おまたせしました」
リビングに入ったとき、そこが自分の家のリビングではないような感覚があった。
いや、現実味がないといったほうが正解か。
「……東さん?」
ソファーに腰掛けていたのは、気難しそうな空気をまとっている白髪の老人。
ビハインド・ザ・ビートの店長である、東さんだった。
「ああ、住吉くん。突然の訪問で申し訳ないね」
何がなんだかわからなかった。
どうして東さんが俺の家に? というか、どうして住所がわかったのだろうか。
「まあ、驚いて当然だな。君が送ってくれたお父さんのレコードだよ。あのダンボールにあった送り状に住所が記載されていたからね」
「……ああ」
そういえば、父のレコードをビハインド・ザ・ビートに預ける際に、大半のレコードは郵送で送ったんだっけ。
「あのときの礼を家族の方に言っていなかったのでね。それを兼ねて、ちょっとお邪魔することにしたというわけだ」
「隆弘。こんなものを頂いたわよ」
母がキッチンカウンターの向こうで四◯三アーケードにあるデパート、佐世保玉屋の袋を掲げた。
中身はわからないが、なかなかに高価なもののように見える。
「そんな、わざわざ来るようなことでもないのに」
「まぁ、正直に言えばそれは言い訳のようなものだな。本題は、ちひろの件だ」
その名前に、ぎゅっと心臓が押しつぶされたような感覚があった。
どこで耳にしたんだと思ったが、一緒の店にいるのだからさすがにわかるか。
「……母さん。ちょっと、席を外してもらってもいい?」
「え? あ、うん、わかった」
コーヒーを準備していた母は一瞬キョトンとしたが、雰囲気で察したのか、すぐにリビングを後にした。
キッチンから、母が用意していたふたつのコーヒーカップを手にとり、東さんのもとへと向かう。
「君には本当に色々と迷惑をかけてしまって申し訳ないと思っている」
おもむろに、東さんは切り出した。
「謝罪して許されるものでもない。だから、せめて息子とちひろの間にある事実を伝えるべきだと思って、こうして馳せ参じたというわけだ」
「大体のことは知っていますよ。息子さんと有栖川の両方から聞いていますから。ふたりの関係や、店にレコードを預けさせていた理由も」
コーヒーカップを手にとり、ひとくちカフェオレを飲んだ。
東さんがいつも淹れてくれいるカフェオレよりも、ずっと苦かった。
「いつか君は私に訊ねたね。想い出のレコードはあるのかと」
「そんなこと、言いましたっけ?」
「たしか、君が2回目に店に来たときだったか。想い出のレコードの話になって、私は『死ぬまでにもう一度聴きたいレコードがある』と言った。ちひろのためにも忘れたほうがいいとも」
そう言われて思い出す。
あのときは、「忘れてくれ」と言われて終わったっけ。
「息子がちひろのレコードを持ち去ったことは知っているな?」
「はい。伺っています」
「そのときに、私のコレクションも一緒に持ち去ったことも?」
「そうですね。聞いています」
「私が死ぬまでにもう一度聴きたいと言っていたのは、そのレコードなのだ。ビル・エヴァンスの『ニュー・ジャズ・コンセプション』のオリジナル盤。当時無名だったエヴァンスが初めてリーダーを務めた作品でね。知り合いから譲ってもらったのだが、再び手に入れようにも、簡単に手が出せる値段ではなかった」
聞いただけでもかなりの値打ちがあるレコードだとわかる。
「だが、そのレコードは諦めることにした。私が諦めなければ憎しみにかられてちひろは息子との関わりを持とうとするからだ」
憎しみ。
その言葉に違和感を覚える。
「……有栖川がレコードを集めて息子さんを呼び戻そうとしていたのは一緒に店を持つという約束があったからだと聞きました」
「ちひろが取り憑かれたように客にレコードを預けさせていたのは息子を呼び戻すためだ。だが、理由は違う。あくまで、息子が持ち去ったレコードを取り返すためだった」
「まさか」
「嘘ではない。ちひろの口から直接聞いた。君は誰からそのことを?」
「それは……もちろんふたりに……いや」
東真一はそのことを言っていたが、有栖川はどうだっただろう。
それらしいことは言っていたが、はっきりと明言してはいなかった気がする。
「息子が言っていたのなら信じてはいけない。あれは口がうまい。ちひろもその話術に騙されて、大切な祖父の遺品や私のコレクションを渡してしまったのだ」
「……う」
胸が苦しくなってきた。
あの話が嘘なら、有栖川は東真一と店を作ろうとは思っていないということになる。
とするなら、誘われたというのも偽りなのか。
いや、と自分に言い聞かせる。
その言葉は有栖川本人からも聞いた。
店を作ろうというのが嘘でも、有栖川が彼の誘いに乗ったのは紛れもない事実。
「私が『息子のことは忘れろ』とちひろに言えなかったのは、甘えがあったからだ。ちひろが息子を引き戻すことができたなら、私の大切なレコードも戻ってくるのではないかと考えていた」
だが──東さんはそう続ける。
「先日、ようやくちひろに『息子のことは忘れろ』と伝えることができたよ。決心させてくれたのは、君のおかげだ」
「……俺?」
「そうだ。君がちひろを変えてくれた。私にもできなかったことだ」
「でも、俺は別になにも」
「先程、ちひろは取り憑かれたように希少レコードを集めていたと話したな。客に声をかけて店にレコードを預けてくれないかと頼んでいたと」
俺は無言で首肯する。
「そのせいで店にこなくなった者も中にはいたが、私は目をつぶっていた。うまくいけば、私のレコードも戻ってくるかもしれなかったからだ。だが、君が来るようになってから、客にその話をすることはなくなった。君に頼んだのが最後だったと思う。君と出会って、ちひろは改めてジャズと向き合うことができたからだ。かつて、息子がちひろにやったように、君がちひろにジャズを思い出させてくれたのだ」
「……息子さんが?」
「ちひろは一度だけジャズが嫌いになったことがあった。ジャズを教えてくれた祖父が亡くなったときだ」
有栖川は確かに言っていた。
レコードを見るのが嫌になって、全部捨てようと思ったことがあると。
「再びジャズの魅力を気づかせてくれたのは息子だといっていた。だが、その息子に裏切られて、ちひろは再びジャズを楽しむことを忘れてしまった」
聴くためにレコードを集めていたのではなく、復讐のためにレコードを集めていた。
そうしているうちに、ジャズに向けていた感情がわからなくなってしまったのだろう。
「楽しそうにジャズを語っているちひろを見たのは久しぶりだ。全部君のおかげだよ」
「俺はなにもやっていませんよ。それに、有栖川は俺よりも息子さんのことを大切に想っているみたいですし」
「ちひろはずっと抱えていた息子への想いを断ち切って、君との関わりを優先した。客からレコードを預かろうとしなくなったのが証拠だ」
「でも、有栖川は息子さんと一緒に佐世保を離れようと考えています。店を作るというのは嘘かもしれませんが、それだけは事実です」
ときが止まったかのような、静かな時間が流れる。
窓ガラスに打ち付ける雨の音だけが、やけにくっきりと輪郭を持つ。
「君は、どうしたいのかね?」
優しく、諭すように東さんは言う。
「先程から君は周りのことばかり口にしている。君がどうしたいのか、一番大切なのはそこじゃないのか?」
「……っ!」
正直なところ、天地がひっくり返るような衝撃だった。
確かに、東さんが言う通りだ。
これまで考えてきたのは、有栖川や東真一がどう考えているかばかりだった。
いくら考えても、決して答えが出てこないものばかり。
人の心はわからないもの。
だけど、世界にひとつだけ、わかる心がある。
俺はどうしたい。
初めて己に問う。
これまで一度も聞いたことがない、俺の本心。
瞬間、俺の心は待ち構えていたように答えを吐いた。
「有栖川には行ってほしくないです。願わくば、ずっとビハインド・ザ・ビートでジャズを聴きながら、アーティストにまつわる話をたくさん聞かせて欲しい」
東さんが嬉しそうに頷いた。
すっと、心の芯が落ちたような感覚があった。
始まりは打算的だったとしても、有栖川の背を押してあげるのが友人としての役割だとしても、行って欲しくないという感情に嘘偽りはない。
それだけは、はっきりとわかる。
この想いを話せば、有栖川は振り返ってくれるだろうか。
東真一以上に必要としていることを伝えれば、立ち止まってくれるだろうか。
答えは、否だろう。
会ったところで話を聞いてくれるとは思えない。
有栖川は心を閉ざしてしまったのだから。
どうにかして、有栖川を引き止める方法はないだろうか。
彼女がやっていたように、レアレコードでひきとめるという方法はどうだ。
考えるまでもなく、意味をなさないのがわかった。
彼女はジャズ好きだといっても、東真一ほど希少レコードに価値を見出しているようには見えない。
彼女が大切にしているのは、ジャズという音楽であり、そこにまつわる「想い」なのだ。
だったら、失われた有栖川の祖父のレコードはどうだ?
可能性はあるが、これも難しい。
この数日中に発見するなんて宝くじを当てるようなものだ。
可能性はゼロではないが、限りなくゼロに近い。
認めたくないけれど、有栖川の祖父のレコードはもう「存在しないレコード」なのだから──。
「……存在しないレコード?」
そうだ。
あるじゃないか。
もうひとつ、有栖川の想いがつまったものが。
有栖川が自分の店を持ちたいと考えていたのはなぜだ?
どうして彼女は、将来新しい店を構えて東真一にレコードを用意してほしいと願った?
ビハインド・ザ・ビートを継ぐことができないからだ。
もし、有栖川が店を継ぐことができたら、佐世保を離れる理由はなくなる。
だったら、有栖川に店を継いでもらうにはどうすればいい。
東真一に訴訟を取り下げてもらい、債権放棄してもらえば──それが可能になる。
「どうした?」
東さんがこちらを案じたような表情で見ていた。
「何か、あったのかね?」
「いえ。なんでもありません。ただ……改めて決心しただけです」
俺の手で、ビハインド・ザ・ビートを守るためにレコードを探す。
東真一のリストに載っていた、あの十枚のレアレコードを。
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