ペクトライト

ペリハチ

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ペクトライト

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 晴れた日の夕方だった。仕事の帰り道、真っ直ぐにそこへ向かった。その日はどうやって過ごしていたのか思い出せない。

 繰り返してきた毎日と同じように、同僚と話して慣れた作業をこなして、違うのは一日中考えていた彼のことだけ。つらくて、けれどつらい気持ちを彼にぶつけることも誰かに話すことも出来なくて、そういう状態になると私は矛先を自分に向ける。それはこれが初めてじゃなかった。方法はその都度違うけれど、自分を傷つけるしか解消方法がなかった。いや、解消されるわけじゃない……一時凌ぎ。それでも、負のループにハマった思考を止めることも、自分に向けるその矛を手放すことも、出来ない。

 周りの人の声なんて、私の心を動かすところまで届くことはない。考え過ぎだよ、なんて言ってもらっても、そうだよね~とへラリと笑って濁すだけ。分かっている、自分でしか何とか出来ないことも、叶うならあの人に手を握っていて欲しい、抱きしめて助けて欲しいというのが本音だと。そうしたら、こんな風に膝まで水に浸かろうとすることも無かったのかも知れない。

 海は凪いでいる。
 私の心とは真逆だ。
 私が足を動かすたび、ユラユラと波打つ。
 あぁ……、
 涙が止まらない。
 あの人は、私を失ったら悲しんでくれるだろうか。人知れず、悔いてくれるだろうか。私とあなただけの秘密を、ずっと大切にして生きていってくれるだろうか。それとも、ここで私が居なくなったら他の誰かを愛するのだろうか。

 ねぇ? 私、自分がいけないことをしていると思っているんです、分かっています。そしてあなたもそうだってこと、その理由を二人で共有していることが、……あなたが、何よりも愛しい。
 けれど、時々心が痛くなる。好きな気持ちに偽りはない、想うことは自由、そう在ることもいいと思っていたけど……社会のルールから外れている不安。失うものは、あなただけじゃない不安。あなたを失う不安。どうにかなりそう……いや、どうにかなっているから、今こんな状態なんだ。

 このまま歩みを進めることが怖いことも本当の気持ちなんだろう。もう数十分も海に突っ立っている。

「お姉さん、本当に死にたいんなら新月の夜がいいよ」
「——!」

 不意に掛けられた声に驚いて肩が跳ねた。恐る恐る周囲を見ると、少し離れて隣に一人の男性が居た。何歳くらいだろう、私よりひと周りほど上だろうか……。

「突然ごめんな。流石にまだ明るい時間だと救助されがちだからさ。俺には止めるも助けるも、何も知らない人の事情に踏み込んでいいか分からなくて。けど、迷ってる感じだったからとりあえず声掛けてみた」
「……え、あの……こん、にちは……」
「はははは、こんにちは。そうね、ビックリしたら何喋って良いか分からなくなるよね。とりあえずさ、迷ってるなら今日は止めにして、少し俺とお喋りして欲しいな、俺も色々あってさ。危害を加えるようなことは何もしないよ。名刺渡しておくね、ここに来る途中、小さなログハウスみたいなのあったでしょ? アレ俺の工房なんだ。おいで、温かいの飲もうよ」

 男性は『イシミガキ』という文字とダイヤモンドのようなイラストが描かれたカードを、強引に私の手に握らせた。強引だったからシワが寄ってしまった。裏面を見ると、男性の名前と連絡先が書かれていた。

「……ケン、さん……」
「あぁ、それね、キワムって読むの」

 キ、——え?

「キ、キワム、さん?」
「そうそう。いいのよ、子供の頃から慣れてる反応だし俺も他人の名前だったら読めないもん。よくさ、研究の究でキワムってのはあるんだけど、なーんでか俺の親は研の字を使ったんだよねぇ」

 色んな名前が世の中にはあるものだ、と思っていたけれど、見知った字でも読み方が予想外である場合もあるんだと改めて思った。


 キワムさんについて歩きながら彼の工房に入った。来客用のソファとテーブルがあって、少し離れたところに事務机。それから工具や照明が設置されていて、石が置かれた作業台があった。その奥には小ぢんまりとしたキッチンが見えた。

「そこのソファ、よかったら座って。コーヒー飲める?」
「あ、はい……飲めます、ありがとうございます」
「ん」

 キワムさんに促されるままソファに腰を下ろした。柔らかさに、少し癒やされるようだった。
 ソファの間にあるテーブルは天面がガラス張りで、中が見えるようになっていた。標本のように区切られたマスがあり、キラキラ光る宝石のようなものが詰められていた。……イシミガキ、という工房の名前からして、これはキワムさんが手を加えたものなんだろう、そしてこれらは天然石というものなんだろうと思った。

 あの作業台でこうして原石をツヤツヤに、キラキラに仕上げるんだ……。


 私も、最初はこういうキラキラした顔をしていたんだろうな。嬉しくてたまらなくて、愛しくて、想いが通じ合えて……それは、今も変わらないけれど……苦しさと悲しさに蝕まれるようなことはなかった……。好きになれば好きになるほど、失う怖さが大きくなる。普通の恋愛だってそうなのに、私たちは——。


「はい、どうぞ」
「……あ、ありがとうございます……」

 油断すると、すぐ闇のほうを向いてしまう。
 キワムさんは私の前にコーヒーと砂糖、ミルクを置いてくれた。そして、大きな厚手のタオルも差し出してくれた。

「ごめんね、入ってすぐに渡してあげるべきだった、脚濡れたままで冷たかったでしょ」
「い、いいえ、こちらこそ床を汚してしまって……!」
「いいのいいの、俺仕事でいっぱい汚すから、お客さんが汚すとかって全然気にしない。むしろ、汚いところ歩かせて靴汚してしまわないかって気にしてしまうよ」

 あはははは、とキワムさんは柔らかく明るく笑った。

「俺さ、見ての通りここで天然石を磨いて形にして、販売するって仕事してるんだ。手間はかかるし受注生産だから高いし、収入的にはまだ安定してるってわけじゃないんだけど。それでも形になってきて、固定のお客さんも付いてきてくれてさ。この工房の中にあるものは全部俺の作品なんだ」
「そうなんですね」

 やはりそうだった。すごいな、自分の持てる技能で生計を立てられるようになるって。

「大抵の天然石は扱えるようになったんだけど、どうにも苦手なものがあってさ」
「……ええと、加工が難しいってことですか? 壊れやすい、とか」
「んまぁ、それもある。そういう石はたくさんあるんだ。けどそれだけじゃなくて……日本では採れない石も多くてさ。信頼しているバイヤーさんでもなかなか良いものを持ち帰ってこれることが難しい時もよくあるんだ。現地の人が言葉巧みに偽物を掴ませるとかね。もちろん、そういう人や物ばかりじゃないんだけど、だからこそ俺はなかなかその石に触れられなくて、加工の経験が苦手なままのものってのも多いのさ」

 そうなのか……。
 私は初めて触れる世界の話に、ただただ耳を傾けていた。身振り手振りを交えて真剣に話すキワムさんと、天然石やそれらの買い付けの場面を想像しながら、夢中になりつつあった。

「そんな中で、本物で、鑑定書付きで、少し大きめの原石で購入できたものがあったんだ」

 キワムさんは立ち上がり作業台から一つの原石を持って来た。水色に白い線が入った、まるで透明な海を思わせるような美しい石だった。思わず感嘆の声が出た。

「わあっ……! きれい……」
「でしょ? 俺の腕がまだ未熟なのと、なかなか触れないものっていう石なもんで、アクセサリーとかタンブル作ることもあまり出来てないんだけどさ。あぁ、タンブルってのは研磨して丸みを持たせただけの色んな形したものね」
「これ……何ていう天然石なんですか?」
「これはね、正式名称はペクトライト。けど一般的にはラリマーって名前で浸透してるかな」
「ラリマー……聞いたことある、かも」
「そうだね、天然石の名前って、何故かどこかで聞いたことあるーっていうものも多いんだよ。知らない間に、みんなの生活や人生に入り込んでるんだろうね」

 私はラリマーの海のような模様に魅入っていた。さっきまでの悲しみとつらさと闇のような暗さが、何かに吸い取られたように薄まっていくようだった。そして、私の様子が少し落ち着いたように見えたからか、キワムさんはゆっくりと穏やかに話し始めた。

「……お姉さんに、どんなつらいことがあったのか、俺には分からない。どんな事情を聞いても、海に入ること選んでしまうまでつらい気持ちになった人に、否定するようなことを言うつもりはない。けど、話を聞くことができても癒やしてあげられないかも知れないし、その前にお姉さんが話す気持ちになれるかも分からない。けれど、声を掛けたら無視せずに、留まってくれた。だから、どうかまだ海の中に行かないで欲しいし、新月の夜をオススメって言ったけど、実行しないで欲しい」

 ……本当は、彼に、そう言って欲しいの。
 彼に、寂しい思いさせてしまったねって抱きしめて欲しい。分かってる、見知らぬ私を引き留めてくれるこんな人の良いキワムさんの言葉を聞いて、彼にして欲しいとか考えんなよって、思う。
 キワムさんの言葉と話し方と、引き留められたあの時からのことを思い出したら、涙が溢れて止まらなくなった。

「お仕事なのか人間関係なのか経済的なことなのか分からないけど、つらくなって海に来たのなら、お姉さんにとってラリマーは力になってくれたり癒やしになってくれると思う。原石のままだと尖ってて危ないから……これをあげるよ」

 キワムさんはテーブルの中から雫型に加工されたラリマーを取り出して、泣きじゃくる私の片手に握らせた。

「これ……ペンダントになるようにチェーン用意するね。身に着けたり持ち歩いたりして。時々は月の光に当てて、ラリマーも休ませてあげるといい。石も人も、つらい時や疲れた時は休むことを選ぶんだ。どんなに好きな人や好きなことに触れていても、疲れる時だってある。そういう時は離れたっていい。無理すると、好きだったものがいつの間にか義務に変わって楽しめなくなって嫌いになってしまう。だから俺も、上手く加工ができない日は、この工房にいても作業しないで動画見てたりダラダラ過ごしていることもある」

 キワムさんの言葉が、全部沁みていくようだった。私のことも海に入った理由も何も話していないけど、まるで理解してくれているように言葉をくれた。

「また、つらくなったら……ここにおいで。コーヒーもあるし、飲みたいものがあれば用意しておく。お姉さん、つらくなるまで一生懸命頑張ってきたんだなぁって思うから、俺、見放せないよ。ほんと、力になれることは力になりたいって思うだけだし、気分転換に天然石見に来るってだけでもいいから。……ね、お姉さんを大切に思う人たち、居るはずでしょ? つらいとき、どうか、俺の工房から先には行かないで」
「……キワム、さん……あり、がとう、ございます……」

 グズグズの鼻声で、やっと声を出した。

 私が気持ちを動かすたび、
 心の海はユラユラと波打つ。
 あぁ……、
 涙が止まらない。
 あの人は、私を失ったら悲しんでくれるだろうか。人知れず、悔いてくれるだろうか。私とあなただけの秘密を、ずっと大切にして生きていってくれるだろうか。それとも、ここで私が居なくなったら他の誰かを愛するのだろうか。

 同じことを考えてしまう。
 きっと、このつらさは彼を愛する限りこれからも巡ってくるのだろう。けれど、海に入って、引き留められて、こうして泣きじゃくって、人の温かさに触れて……今は、今なら、まだつらさに向き合える気がした。彼に、自分の気持ちを伝えようって思った。私一人でしている恋愛じゃない、彼の愛も私の中にあるんだから……。

「ありがとうございます、キワムさんに引き留めて貰って、お話聞かせてもらって……嬉しかったし、何も話せてないですけど、とても解ってくれてるって思えるような言葉をかけて貰えて……孤独の闇から抜けたような心地です」

 借りたタオルで、涙でグチャグチャに濡れた顔を拭きながら話した。

「これ、このまま貰うわけにはいかないです、きちんとお支払いします」
「いや、いいんだ、どうかそのまま受け取って、何も気にしなくていいから。正直に言うと、キレイな雫型になっていないもんなんだ、俺からしたら正規のお金を貰える出来じゃない。こう言うと、失敗作プレゼントすんなよって感じだけど……いつか、キレイな雫型のラリマーを作ることが出来たら、改めて贈らせて欲しい、それも、お代は要らない。俺が勝手にやってることだと思って、ね?」

 キワムさん、律儀な人だなぁ……。私にはキレイな雫型に見えるけど、プロには違いが分かるものなのね……。
 その後もキワムさんの勢いに圧され、私はそのまま受け取ることになった。


キワムさん、ありがとうございます。本当に、どんなお礼の言葉でも言い尽せません……」
「こちらこそ、また生きていく方にシフトしてもらえて良かったよ……良かった、んだよ、ね……?」

 キワムさんは少し心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「……はい、大丈夫です、またつらくなったら、キワムさんに会いに来ます」
「あぁ、良かった……!」

 キワムさんは、オーバーな、と思えるような動きで胸を撫で下ろした。

「……キワムさん、この、ラリマー……石言葉とか、何か謂れとか、どんなものがあるんですか?」
「あぁ、それはね——」



おわり。
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