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第九章―織田木瓜と三つ葉葵
ろ
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陰雨が地に降り注ぐ日の午後。
琵琶湖東岸の安土山には、他に類を見ない壮麗な城がそびえ立っている。
彼の人が待つ天主の一室へと向かうため、小姓を務める少年の後に続くのは、忍び装束から直垂姿へ転じた伊織であった。
通された部屋は黒漆塗りの梁や柱で支えられ、壁や襖には見事な障壁画が描かれている。また、畳が二帖、正面の床に敷かれ、その上に円座が置かれていた。
従来、天守に大名が居住することはないこの時代、天下を目前にしている男が珍しく居住しているこの場。手の込みようはさすがに並みのものではない。
ここで待っているように小姓に告げられ、伊織はその畳の前の床へ腰を下ろす。
本来、正面きって対面するような立場にない伊織がこの場に来たのには、当然そうせざるをえない理由があった。
先日、八咫烏の里へこの城の主、前右大臣正二位平朝臣信長より使者が遣わされた。その時、迷った使者が哨戒任務中の八咫烏に侵入者と判断されてひと悶着あったのだが、今はそれは脇に置いておく。その使者が言うには、伊織がやって来た今日この時刻、八咫烏の頭目に聞きたい話がある、と、呼び出しを受けたのだ。
八咫烏の主は皇家であるため、いくら天下を手中に治めようとする者からの呼び出しとて、おいそれと行くわけにはいかない。それに、翁はすでに老齢で、いくら往時は現役に引けをとらぬ活躍を見せていたとはいえ、万が一ということもある。護衛もなしに行かせるなど言語道断であると、上の代が翁を行かせることをよしとしなかった。
そこで、相談を受けた伊織が自らが行くと代理を買って出た。おそらく聞きたいことというのも先日、織田と徳川に出した干渉御免の文の件のことであろうし、伊織自身も翁を行かせることなど考えられなかった。
しばらく待っていると、奥からどすどすと足音荒くこちらへやって来る音が聞こえてきた。伊織は頭を僅かに下げ、その足音の主を迎えた。
視界の隅で、男が伊織の正面にある円座に腰を下ろすのが分かる。その横には男のものだろう刀を持った先程の小姓の少年が控えた。
「面をあげよ」
「はっ」
伊織は以前、翁の供で御所におはす主上の元へ各地の状況報告に参った際、同じく参内していたこの男――織田上総介三郎信長を遠目に見たことがある。
その時から僅かに老いた、第六天魔王と自称する男は、少々不服そうな顔を伊織に向けていた。
「儂は八咫烏の頭目を呼び寄せたはずなのだがな」
「大変申し訳ございませぬ。翁はすでに高齢のため、長距離を往復する体力が既になく」
「お主が使いで参ったというわけか」
「さようでございます」
もちろん、伊織とてここに何の下調べもせずに来たわけではない。
織田家中の調査任務についたことのある八咫烏に、男の性格や好み、嫌うもの等、今回の謁見で必要となるだろう情報を聞いていた。なんでも、彼の人が嫌うのは何をおいても己を侮辱されること。そして、彼の興味をひかないような話を長引かせたり、余計な前置きをされることであるらしい。
伊織はそれを念頭に置いて言葉を選んだ。
「……お主、年はいくつじゃ?」
「今年で十八になりました」
「ほう。儂が家督を継いだ年よりも一つ下か」
「さようでございましたか」
伏し目がちに答える伊織に目を細め、男は隣にいた小姓を振り返った。
「乱」
「はい」
「腹が減った。なんぞ持って参れ。この者の分もだ」
「……ですが」
おそらく、立てねばならぬ主人の面目があるとはいえ、暗殺もできうる忍びである伊織と二人きりで残しておきたくはないのだろう。
少年は伊織の方にちらりと視線を寄越し、男に少々渋って見せた。その際、男と小姓の間で何やら目配せが行われたが、伊織は知らぬふりを通した。
「早う行くがよい」
「承知しました」
少年は刀を男に戻し、その場から立ち去っていった。
すると、男はそれまでの不機嫌そうな表情を僅かに緩め、持っていた扇子で伊織にもう少し傍に寄るように示した。それを受け、伊織は僅かに男の傍ににじり寄った。
「この間の書状にあった件はどのようになっておる」
「はい。ただ、ここからは私の独り言でございます」
「許す。早う話せ」
性急な面もある男らしく、急かされるように伊織は簡潔にかつ重要な部分は漏らさず報じた。
「なるほど」
「これであちらがどのような対応をとってくるかで、徳川殿の腹の内も見えてきましょう」
「はっ。その年で主戦力としてここまでの謀略を巡らすとは大したものじゃ」
「さて。これは私の独り言ですので、謀略とは何のことやら」
「ふん。末恐ろしいものよ。朝廷もかように見事な獣を飼っておるとは」
伊織はそれには何も答えず、再び目を僅かに下へ伏せた。
八咫烏がその存在意義をもって己が成し得たいことの邪魔をする存在にはならぬことは理解しているからか、それから態度が一転し、身分の低い家人とも親しく話したという情報のとおり、男はこの城の見所を大層気分よく語り出した。他人に見せるために造ったと言ってもいいこの城を誰かれ構わず自慢したいのだろう。
その姿は尊大ではあるものの、どこか子供のような無邪気さを伊織に感じさせた。そして、ふと気づく。これは、与一が新しい薬を作って、その実験台を渋々買って出た時、せめてもの礼にと効果効能を喜々として語る時の様子に似ている、と。
人間、自分の納得のいくものが出来上がったり、好きなものを手に入れた時、他に自慢したくなるのは老若男女問わないのだろう。
どれほど時が経ったのか、ようやく少年が戻ってくる足音が聞こえてきた。じきに、男と伊織が待つ場に少年ともう一人別の少年が姿を見せる。
「殿。お待たせいたしました」
「あぁ、待っておったぞ」
それぞれが持つ膳を男と伊織の前に並べる。見た所、山菜や漬物の類で、盛り付けはさすがに凝っているものの、食材としては至ってありふれたものであった。
「殿、私が毒見を」
新たに入ってきた少年が一旦下がり、男に乱と呼ばれた少年が男の膳へ手を付けようとした時であった。
「待て」
男はその手を持っていた扇子で差し止めた。そして、そのまま扇子を使って伊織の方へその膳を押しやってくる。
「そなたが毒見をしてみよ」
「……承知しました。では、こちらから」
伊織はその膳を両手で頂き、自分の前に置かれた膳をずらして取りかえる。それから、器に盛られた山菜のお浸しを箸で摘まみ、口に運んだ。ゆっくりと噛みしめられる度に動く顎に、男と少年の視線が張り付く。
ごくりと喉が鳴り、口に入れていたものが胃の腑へと流れたのが分かった。
「……」
「どうじゃ?」
「舌先と手に僅かな痺れ。それと独特の風味。毒に慣らしていらっしゃるのであれば問題ございませんが、そうでないならばお召し上がりになるのはやめられた方がよろしいかと」
「なんじゃ。おぬしは平気なのか?」
期待した反応ではなかったのか、途端に男は眉根を寄せた。
これくらいならば、与一から山というほど盛られてきている。そのため、伊織の身体はすでに多少の毒では効かぬようになっていたのだ。これが徒人ならば、今回の毒は酷ければ痙攣をもしかねないものであっただろう。
「毒も忍びの素養の一つでございますので」
袖で口元を拭い、伊織は膳から目を逸らさずに男に応えた。
「これだから忍びというものは好かん。乱、これを下げよ」
「はっ」
男の発言は予てより思い通りにならぬ存在である伊賀や甲賀衆、その他自分の敵対する大名達に仕える忍びが彼らにもたらす情報に煮え湯を飲まされることもあったからであろう。
それでも、決して身内だけを贔屓するわけではないが、他の里と同一視されたくはないと思うのが、伊織の心情である。また、皇家に仕える忍びと武家に仕える忍びは、それぞれの立ち位置というものが違うというのに、武家に仕える忍びだけをもって全てを一括りにされるのはまったくもって面白くない。
しかし、それは微塵もおくびに出さず、伊織はただ黙って顔を下げ続けた。
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