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(1)十年に一度
出会い
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どのくらい心細い思いを抱えて狭い空間の中で縮こまっていただろう。
「……おい」
不意に駕籠の外から若い男の声がして、山女はビクッと身体を震わせた。
自分がイメージしていた龍神様の声はもっと野太くて地を這うように低いものだったけれど、いま輿の外から聞こえてきた声は、里にいたどの男たちよりも若々しく聞こえて――。
「――生きているなら返事をしろ」
外でガサガサと乱暴に縄をほどく音がしたかと思ったら、唐突に天を覆っていた蓋が取り払われた。
いつの間にか陽は西の空に沈みかけていたようで、山女は思わず眩しさに目を細める。
そんな山女を、赤々と燃える木々を背にして、一人の男が覗き込んでいた。
最初は紅蓮の赤髪に見えた男の髪だったけれど、どうやら夕日の朱紅をもらっていただけらしい。
痺れた足がなかなか動かせなくて、しゃがみ込んだまま呆然と見上げた目の前の男は、綺麗な黒髪だった。
顔を覆い隠すように前髪が長く伸びているけれど、隙間から山女を見据える黒瞳は切れ長でとても形がよくて。
パッと見では分かりづらいけれど、大層整った顔立ちの、見目麗しい顔をした男だと思った。
てっきりニョロリと身体の長い龍に輿ごと丸呑みにされるか、はたまた爬虫類のように冷たい目をした人型の者が蓋を開けるのだろうと思い込んでいた山女は、その余りに普通な見た目の男に正直拍子抜けして。
「……主、様?」
目の前の男を見上げたまま、身じろぎすら忘れてポカンと口を開けて呆けてしまった。
「お前の言う主様とやらが何を指すのかは知らんが、〝そこの祠に棲む者〟という意味ならば俺がそれだ」
ずっと。
狭い空間で足を折り畳むようにして座っていたせいだろう。
男に抱き上げられるようにして籠の外に立たされた途端、山女の身体がヨロリと傾いだ。
「あ……」
思わず小さくつぶやいたと同時、
「おっと」
山女の身体を両腕でサッと支えてくれてから、男が気遣わし気な声を掛けてくる。
「お前、何やら血の匂いがしているが、どこか怪我でもしているのか?」
問われて山女は男の腕の中、慌ててフルフルと首を振る。
「申し訳ありませんっ。今朝……私、その……初めてのお馬になったばかりで、それで」
お馬、と言うのは生理の隠語だ。いま山女が生理用品として身に着けているふんどしのような布の前垂れ部分が、馬の顔の形に似ていることが由来になっている。
「……初めて?」
お馬の部分よりも初めての方に反応した男が、山女をじっと見下ろしてくる。
「俺には女人の身体の事は良く分からぬが、その……大事ないのか?」
言外に辛くはないのか?と含められたのを感じて、山女は血の気の引いた青白い唇に無理してやんわりと淡い笑みを浮かべた。
「主様に気遣って頂かねばならないほどしんどいわけではありません」
本当はお腹が痛くて堪らない。
股の間も何だかじめじめとして心地悪いし、今すぐに布を取り換えて横になりたい。
そんな風に思ったけれど、生贄の分際でそんなこと、主様に言えようはずもなかった。
「問題がないようには見えないが? 悪いことは言わん。今すぐ里へ帰れ。俺には贄など要らんし、そもそもここはお前のような子供が居て心地良い場所ではない」
なのに眼前の男は、口調こそ山女を突き放すような物言いで、その実いままで山女が出会ったどんな大人達よりも彼女に優しかったから。
山女はついポロリと涙を落としてその場にしゃがみ込んでしまった。
「私は……生贄として主様に嫁いで参りました。帰れる家などもう何処にもありません」
ごつごつとした砂利の上はひざを折るには痛かったし、折角の白無垢が汚れてしまうけれどそんなことを言っていられる場合ではない。
山女はその場で里長に教えられた通り丁寧に三つ指をつくと、眼前の男に深々と頭を下げて懇願した。
「煮るなり焼くなり主様のお好きになさって下さい。元より覚悟は出来ています。ですので……どうか後生でございます。『帰れ』などと無体な事だけは言わないで下さい」
うつむいて、綿帽子を被ったままの額を地面に擦り付けるようにしてお願いしたら、不安に押しつぶされそうで涙が次から次にポロポロこぼれて地面を濡らした。
ここまで言って、それでもなお突っぱねられてしまったら、年端の行かない山女にはもうどうしたら良いのか分からない。
一人で生きていくにはその術を余りにも知らなさ過ぎるし、自害しようにもそんな意気地は持てそうになかった。
「本当に……もう帰れる宛はないのか?」
逞しい腕でふわりと抱き起こされた山女は、そのまま横抱きに抱え上げられて間近。男に見下ろされる。
「……はい」
至近距離から仰ぎ見た男の顔は、思わず息を呑んでしまうほどに整っていて、この上なく神々しかった。
年の頃は山女より十ばかり上に見えたが、彼が神龍であることを思えば、実際の年齢は分からない。
そうして、今まで山女が見てきたどんな男たちよりも凛々しく力強い上、優しさに満ち溢れていて頼り甲斐があるように思えた。
それでだろうか。
こんな状況なのに胸の奥がほわりと温かくなって、全身が熱を持ったのは。
山女は父親のことは余り覚えていないけれど、自分を心底心配して守ってくれる大人の男性と言うのは、存外彼のような感じなのかも知れない。
「そうか。ならば俺がお前を一人前になれるまでの間だけ面倒見てやろう。ただし――」
そこまで言うと、男は腕に抱いたままの山女からふいっと目を逸らして、ほんの一瞬だけ昏い目をする。
「お前が一人でやっていけると判断したら、俺は今度こそお前をここから追い出す。その時は元の里に戻るなり、別の里に混ざるなり好きにしろ。――良いな?」
言われて、山女はわけも分からずコクコクと頷いた。
今すぐ追い払われてしまうのでなければいい。
そう思いながら――。
「……おい」
不意に駕籠の外から若い男の声がして、山女はビクッと身体を震わせた。
自分がイメージしていた龍神様の声はもっと野太くて地を這うように低いものだったけれど、いま輿の外から聞こえてきた声は、里にいたどの男たちよりも若々しく聞こえて――。
「――生きているなら返事をしろ」
外でガサガサと乱暴に縄をほどく音がしたかと思ったら、唐突に天を覆っていた蓋が取り払われた。
いつの間にか陽は西の空に沈みかけていたようで、山女は思わず眩しさに目を細める。
そんな山女を、赤々と燃える木々を背にして、一人の男が覗き込んでいた。
最初は紅蓮の赤髪に見えた男の髪だったけれど、どうやら夕日の朱紅をもらっていただけらしい。
痺れた足がなかなか動かせなくて、しゃがみ込んだまま呆然と見上げた目の前の男は、綺麗な黒髪だった。
顔を覆い隠すように前髪が長く伸びているけれど、隙間から山女を見据える黒瞳は切れ長でとても形がよくて。
パッと見では分かりづらいけれど、大層整った顔立ちの、見目麗しい顔をした男だと思った。
てっきりニョロリと身体の長い龍に輿ごと丸呑みにされるか、はたまた爬虫類のように冷たい目をした人型の者が蓋を開けるのだろうと思い込んでいた山女は、その余りに普通な見た目の男に正直拍子抜けして。
「……主、様?」
目の前の男を見上げたまま、身じろぎすら忘れてポカンと口を開けて呆けてしまった。
「お前の言う主様とやらが何を指すのかは知らんが、〝そこの祠に棲む者〟という意味ならば俺がそれだ」
ずっと。
狭い空間で足を折り畳むようにして座っていたせいだろう。
男に抱き上げられるようにして籠の外に立たされた途端、山女の身体がヨロリと傾いだ。
「あ……」
思わず小さくつぶやいたと同時、
「おっと」
山女の身体を両腕でサッと支えてくれてから、男が気遣わし気な声を掛けてくる。
「お前、何やら血の匂いがしているが、どこか怪我でもしているのか?」
問われて山女は男の腕の中、慌ててフルフルと首を振る。
「申し訳ありませんっ。今朝……私、その……初めてのお馬になったばかりで、それで」
お馬、と言うのは生理の隠語だ。いま山女が生理用品として身に着けているふんどしのような布の前垂れ部分が、馬の顔の形に似ていることが由来になっている。
「……初めて?」
お馬の部分よりも初めての方に反応した男が、山女をじっと見下ろしてくる。
「俺には女人の身体の事は良く分からぬが、その……大事ないのか?」
言外に辛くはないのか?と含められたのを感じて、山女は血の気の引いた青白い唇に無理してやんわりと淡い笑みを浮かべた。
「主様に気遣って頂かねばならないほどしんどいわけではありません」
本当はお腹が痛くて堪らない。
股の間も何だかじめじめとして心地悪いし、今すぐに布を取り換えて横になりたい。
そんな風に思ったけれど、生贄の分際でそんなこと、主様に言えようはずもなかった。
「問題がないようには見えないが? 悪いことは言わん。今すぐ里へ帰れ。俺には贄など要らんし、そもそもここはお前のような子供が居て心地良い場所ではない」
なのに眼前の男は、口調こそ山女を突き放すような物言いで、その実いままで山女が出会ったどんな大人達よりも彼女に優しかったから。
山女はついポロリと涙を落としてその場にしゃがみ込んでしまった。
「私は……生贄として主様に嫁いで参りました。帰れる家などもう何処にもありません」
ごつごつとした砂利の上はひざを折るには痛かったし、折角の白無垢が汚れてしまうけれどそんなことを言っていられる場合ではない。
山女はその場で里長に教えられた通り丁寧に三つ指をつくと、眼前の男に深々と頭を下げて懇願した。
「煮るなり焼くなり主様のお好きになさって下さい。元より覚悟は出来ています。ですので……どうか後生でございます。『帰れ』などと無体な事だけは言わないで下さい」
うつむいて、綿帽子を被ったままの額を地面に擦り付けるようにしてお願いしたら、不安に押しつぶされそうで涙が次から次にポロポロこぼれて地面を濡らした。
ここまで言って、それでもなお突っぱねられてしまったら、年端の行かない山女にはもうどうしたら良いのか分からない。
一人で生きていくにはその術を余りにも知らなさ過ぎるし、自害しようにもそんな意気地は持てそうになかった。
「本当に……もう帰れる宛はないのか?」
逞しい腕でふわりと抱き起こされた山女は、そのまま横抱きに抱え上げられて間近。男に見下ろされる。
「……はい」
至近距離から仰ぎ見た男の顔は、思わず息を呑んでしまうほどに整っていて、この上なく神々しかった。
年の頃は山女より十ばかり上に見えたが、彼が神龍であることを思えば、実際の年齢は分からない。
そうして、今まで山女が見てきたどんな男たちよりも凛々しく力強い上、優しさに満ち溢れていて頼り甲斐があるように思えた。
それでだろうか。
こんな状況なのに胸の奥がほわりと温かくなって、全身が熱を持ったのは。
山女は父親のことは余り覚えていないけれど、自分を心底心配して守ってくれる大人の男性と言うのは、存外彼のような感じなのかも知れない。
「そうか。ならば俺がお前を一人前になれるまでの間だけ面倒見てやろう。ただし――」
そこまで言うと、男は腕に抱いたままの山女からふいっと目を逸らして、ほんの一瞬だけ昏い目をする。
「お前が一人でやっていけると判断したら、俺は今度こそお前をここから追い出す。その時は元の里に戻るなり、別の里に混ざるなり好きにしろ。――良いな?」
言われて、山女はわけも分からずコクコクと頷いた。
今すぐ追い払われてしまうのでなければいい。
そう思いながら――。
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