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16.酒蔵祭り

行ってらっしゃいを言い損ねてしまったじゃないですか

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 修太郎しゅうたろうとしては首筋のラインが見え過ぎることが非常に気に入らない。

 正直、誰にも見せたくないとすら思っている。


「食べ物を扱うんですもの。髪の毛を下ろしていたらダメだと思うのですっ」

 だけど、日織ひおりは日織なりにポリシーを持って、その髪型にしているらしい。

 返されたセリフが余りにも正論で、修太郎はグッと言葉に詰まってしまった。


「じゃ、じゃあ。――そうだ! お家からスカーフをお持ちしましょうか?」

 マンションに戻る折に日織の実家に立ち寄って義母織子おりこに相談すれば、きっとスカーフの一枚や二枚、すぐに出してくれるはず。

「……修太郎さん」

 だが、そんな修太郎の提案に、日織は小さく吐息を落とすと、静かに夫の名前を呼んで、じっと顔を見つめてきた。

「私、先程も申し上げましたよ?」

 色素の薄いブラウンアイに見据えられて、修太郎はまるで蛇に睨まれた蛙みたいに身動きが取れなくなる。

「少し落ち着いてください。私、子供じゃないのです。そんなに心配なさらなくても大丈夫ですから」

 そこで日織はドアハンドルから手を離すと、修太郎の方へ身体を寄せてきた。

 日織ひおりの予期せぬ行動に思わずフリーズした修太郎しゅうたろうの胸元をチョイッとつまんで引っ張ると、日織は修太郎の唇にかすめるようなキスを落とした。

「――! 日、織さ……っ」

 車の中とはいえ、人通りの多いこんな環境で。
 一瞬とはいえ日織からそんなことをしてもらえるとは思っていなかった修太郎は、唇を押さえて、まるで不可抗力のように真っ赤になった。


「ふふっ。照れた修太郎さん。すっごくすっごく可愛いのですっ。大好きです」

 修太郎のそんな様子にクスッと笑うと、日織は「行ってまいります!」と告げるや否や、その隙を逃さずサッと車から降りてしまう。


「あっ、日織さんっ」

 我に返った修太郎が呼びかけた時には、日織はポニーテールをユラユラと揺らしながら、走り去って行くところだった。


 車内に取り残された修太郎は、

「行ってらっしゃいを言い損ねてしまったじゃないですか」

 盛大な溜め息とともにひとりごちることしか出来なかった。


***


 修太郎がマンションに車を置いて市営バスでイベント会場に戻ってきた時、羽住はすみ酒造のブースは大盛況だった。

 結果、修太郎しゅうたろうは遠巻きに法被姿はっぴすがたの愛妻が忙しく酒を振る舞う姿を眺めている。

 もちろん自分自身も客として日織ひおりから利き酒を振る舞ってもらいはしたのだけれど、まさか祭りの間中、羽住はすみ酒造のブースに付きっきりでくっ付いているわけにもいかなくて。

 修太郎の視線の先、日織ひおりのそばには以前彼女の同窓会会場で見かけた生意気男――羽住はすみ十升みつたかと、先日蔵元で見かけた和装眼鏡男――一斗いっとの姿があった。

 けれど、その二人のみに囲まれているわけではない。

 彼らの他にも年輩の男性――羽住はすみ兄弟の父親だろうか――や、酒蔵の職人たちと見られる他の面々も居て。

 十升みつたか一斗いっとのどちらかと二人きりでいたりしたら気になったかも知れないけれど、あれだけワチャワチャしていたら逆に気にならないものだな、と思った修太郎だ。
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