ルグリと魔人

雨山木一

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第三章

十六話

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 特区Ⅱはモデール森林公園の中心部から北西に位置した場所にある。この区画には、希少な植物が生息していることで有名だが、なかでも独自の進化を遂げたと考えられる植物が発見されており、日夜研究が続けられている。
 希少性から外部からの因子をなるべく持ち込まないようにするために、この区画に立ち入りを許可されるのは都の研究者のなかでもほんの一握りで、森林保護官も研究者の同行以外では立ち入ることは滅多にない。
 ミーシャは資料で詳細な地形などの把握はしているものの、実際に足を踏み入れるのは今日が初めてだった。

 雨の勢いは朝から相変わらずだ。強くなることもなければ、弱くなることもない。変わったことといえば、朝から幾分気温がさがったということだろうか。足元から這いあがってきる冷気が足の感覚を麻痺させている。アーリィから借りた雨具がなければ、服が雨に濡れて凍えているところだった。

「それにしてもここはずいぶん緑が濃いな」

 背後から問いかけなのか独り言なのかわからない呟きが聞こえてきた。返事をするかどうか迷ったが、無視されたと思われても嫌なので振り返って答える。

「特区Ⅱにはモデール古種と呼ばれる植物が多く自生しているんです。さらにモデール古種から独自の進化を遂げた新種も発見されていて、モデールでも特に重要な区画になっています。不思議なことにモデール古種の植物は特区Ⅱの境界線から先に広がらなくて、まるで見えない壁に遮られているかのように一定のラインを保っています。今いるのはまだ特区Ⅱの端辺りですが、中心部に行けば行くほど緑は濃くなっていって、人がわけ入ることができないほど植物が密集している場所もあるんですよ」

「これから行くところはどの位の時間がかかるんだ?」

「どうでしょう……。あたしも実際に入るのは初めてなので。でも、さっき言った通り植物が生い茂っているので、所々遠回りしなきゃいけません。昼過ぎまでにはたどり着けるとは思いますが」

「もっと早く行ける道はないのか」

「ありません」

 言い切ると、アーリィの口から白い吐息が見えた。この天候で歩き回るのは、森に慣れた森林保護官でも辛いものがある。さすがのアーリィでも堪えるのだろう。
 アーリィが先頭で歩けばもう少し時短になるかもしれないが、ここは貴重な植物があちらこちらに自生している特区Ⅱなので、自由に歩かれては困る。

 寒さと雨の煩わしさは予想以上に体に堪えた。最初こそ初めて足を踏み入れる区画に興奮を覚えたが、歩みを進めるうちに次第に視線は足元に固定されて資料でしか読んだことのない植物を見てもなにも思わなくなっていった。
 二人の間に会話ない。天候も相まって重い空気が漂っていた。
 ようやくそんな空気が払拭されたのは、目的地にたどり着き、アーリィの興奮した声が聞こえてからだ。

「ここで間違いない。完璧だ」

 アーリィが被っていた雨具のフードを外す。露わになった色白の頬が心なしか赤く染まっているように見える。どうやら求めていた条件に合う場所に案内できたようだ。

「よかった。正直ここはあまり自信がなかったんです。資料に条件に合うものがあるのはわかっていたんですけど、これが泉と呼べるかどうかが微妙なところかなと思っていたので」

 虹が出現する条件は三つ。シラカバの木に囲まれていること。石塚か立石があり湧き水を湛えた泉。今いる場所はシラカバの木々と一つの大きな立石がある。しかし、問題は最後の泉という部分だ。

「こんなのでもいいんですか?」

 アーリィのお墨つきがついてもなお、ミーシャの不安は払拭できない。なにせ目の前にあるのは、助走なしでも飛び越えられてしまうほどの小さな水たまりだったからだ。ただ、中心部の水深がかなり深く、透明度の高い水であるにも関わらず底は全く見えない。

「大きさは問題ない。重要なのは湧き水の透明度だ。それさえ揃っていれば極端な話、グラス程度の大きさでも構わないんだ」

 腰を曲げて泉を覗き込む。

「なんで透明度が重要なんですか?」

「ルグリの考え方では、湧き水の透明度はその大地に根ついているアシュマンとの関係性に強く影響されるとしている。肥沃な大地にはアシュマンが多く宿り、強い存在力で満ち満ちる。その満ちた存在力をたっぷりと含んだ水はアシュマンやアヌウンと親和性が高く、二つの世界を繋ぐ媒介としての適性が高いんだ」

「相性が良いってことですか?」

「簡単に言えばそういうことになるな。さて……」

 アーリィは昨日と同じ様に懐から一枚の紙をとり出した。

「ダングオス」

 泉に放られた紙に、ぽつぽつと雨の雫が染みを作る。アーリィの話では、この後紙が回転するということだったが……。

「……あ」

 その瞬間は唐突に訪れた。しばらく水面を浮いていた紙が大きく一度跳ねた後、ゆっくりと回転を始めた。

「あ、これ昨日言ってたやつ……」

「うん、ここで間違いない。虹が現れるのはここだ」

 その言葉を聞いた瞬間に感じたのは、喜びでも安堵でもなく疲労だった。
 もし案内する先が条件を満たさなかった場合、あるかどうかもわからない泉を探して延々とモデール中を探して歩き回らなければならない。
 現実的に考えてそれは不可能だ。だから、アーリィのお墨つきを得て緊張の糸が切れた瞬間、体が鉛になってしまったかのように重く感じて、膝に手をついてしまった。

「どうした、もっと喜びたまえよ。ようやくスタートラインに立てたのだから」

「ははは……。そうですね」

 顔をあげて愛想笑いを浮かべると、アーリィの手が頭に伸びてきてそのまま子供をあやすように撫でられた。

「よく頑張った」

 もし、この手がラウルやトーラスのものだったとしたら、気恥ずかしさで逃げてしまっていただろう。しかし、何故だかアーリィの手から逃げるという選択肢は出てこなかった。
 目を瞑って心地良い感触に身を任せる。そう言えばこうして頭を撫でられるなどいつぶりのだろう。
 しばし懐かしい思い出に浸りながら、撫でられるままになった。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

 撫でられる手の感触がなくなると、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。

「さて、時間まで暇つぶしをしよう」

「え、今からなにかの儀式の準備とかするんじゃないんですか?」

「そんなことしないよ。こちらから虹を呼ぶには日没か日の出の瞬間。それまでは特にやることはない」

「でも、帰りはどうするんですか? 日没まで時間を潰すとなると帰りは夜になってしまいますけど、流石に夜の森を歩くのは危険が……」

「そこは問題ない。今日はここで一夜を明かす」

 ミーシャはその言葉にきょとんとしてしまった。ここで一晩すごす? そんなの謀すぎる。

「いや、それはいくらなんでも無茶ですよ。野営できるような設備も道具もないですし、今日はこの天気です。気温は夜になるほどさがるでしょうし、冬をすぎたとはいえさすがに防寒具なしでは耐えられません。それにこの特区Ⅱには夜行性で気性の荒い動物が多くてとても危険なんです。動物からすればあたしたちは労することもなく手に入れられる食料と同じなんですよ!」

 特区Ⅱには特別凶暴な動物が数種類いる。そのなかでも特に危険なのが、モデール狼と呼ばれる存在だ。体が大きく、性格は非常に獰猛で、縄張り意識が他の種と比べても強く、侵入者を発見するとしつこく追い回してくる。
 監督署が確認できている個体数は少なく、黒に近い灰色の毛皮はその希少性もあってか、都の一部貴族の中で高値で取引されているという噂もあり、一攫千金を狙った密猟者が後を絶たない。

 モデール狼の怖いところは個人を正確に判別し記憶することだ。以前、密猟者が一人餌食になったことがある。その密猟者は二人組で、殺された方は数年前にもモデールに忍び込み密猟を働いたことがあるらしいということを後に救出された一人が供述した。その生き残り曰く、自分には目もくれずその前科者を群れがとり囲み、生きたまま無残に食い散らかしていったらしい。
 生き残りの方は這う這うの体で数日間森を彷徨い続けたが、その間、狼の気配が常にあったという。自分が殺されなかったのは、まだ狼を殺していなかったからだ。だが、もう顔は覚えられた。この先どんなことがあってもこの地に足を踏み入れることはないと、後に都へ護送されるときに零していたそうだ。

「てっきりすぐに虹が出現すると思っていたので、戻るのが夜近くになってもあたしが気をつけていればなんとかなると思っていましたけど、そうじゃないなら話は別です。一度戻って準備を整えないと」

 冷や汗が脇を流れていく。彼らのテリトリー内では人間は無力だ。どれだけ武装しても、人数を増やしたとしてもこの森の主である彼らに勝つことはできない。
 しかし、狼の恐怖に慄くミーシャとは対照的にアーリィは意に介さない様子でいる。雨を避けられる木陰に移動するとトランクを開けてなにやらごそごそとしだした。

「私がなんの準備もしていないとでも? ほら、手伝え」

 そう言うアーリィはトランクから、大きな布をとり出した。見覚えのある模様が描かれている。

「え……なにするんですか」

「なにって寝床づくりだよ。ほら、ぼさっとするな」

 トランクから出てくる天幕の布や、地面に敷く絨毯などを言われるがままに運び出して設置していく。拠点にあったものとは柄や紋様が違うので、もう一式あったものを出しているのだろう。
 そうしてできあがった天幕は拠点として使用しているものほど大きくはないが、体を休めるには十分だといえた。

「あとはこれを焚けば終わりだ」

 最後にとり出したのは三本足の小さな陶器だった。上部が蓋になっており、下部には小さな皿を置くスペースがある。蓋を開けると小さな窪みがあり、そこに小瓶に入った液体を数滴垂らした。

「なんです? それ」

「香油だ。ここから……いや、詳しいことはいい。こいつには人をリラックスさせる効果があって長旅が常の私は重宝している」

 下部のスペースに皿と置くとマッチを擦って、小さな蝋燭に火をつける。蝋が溶けだすと、小皿に数滴垂らして蝋燭を立てて下部のスペースに小皿を置いた。
 ミーシャがしゃがんで蝋燭の火を眺めていると辺りに嗅ぎなれた香りが漂い始める。

「この匂い……確か」

「そうだ。私が吸っている煙草の匂いと似ているだろう」

 確かに似ている。こちら方がスパイシーな匂いが幾分強いが。

「タバコ葉に染み込ませているオイルはこいつをベースに調合してあるんだ。多少香りに違いがあるのは、葉の匂いが混ざっていないからだろう。どうだ、いい香りだろう?」

 素直に頷くとアーリィは嬉しそうに鼻を鳴らした。そして、得意げに顔の前に人差し指を立てて続ける。

「実はこの香油にはもう一つ効果があってね。動物避けになるんだ」

 なるほど、と一つ頷く。

「私のような一人旅をする者や、商人なんかは野を越え山を越え、ありとあらゆる場所へ赴く。道中歩く道が全て人気のある場所ならいいが、都の周辺でもない限りそんな所はごくわずかだ。大抵は水が枯れきった湖底のような埃っぽい場所や、神が住まう神聖な山に申しわけ程度にある細道をひたすらに歩く。足を踏み入れたら最後、気がついたらあの世だったなんて話も枚挙にいとまがない。人間絡み、例えば山賊であれば、金を積むか荷物を差し出せば命拾いすることもあるだろうが、野生動物となれば話は別だ。彼らからすれば私たち人間は比較的狩りやすい肉だ。飢えに支配された野生動物には剣も銃もない。生きるためだからね、それこそ決死の覚悟さ。この香油はそんな野生動物から身を守るために作られた。漂う香りは動物の嗅覚を刺激する。我々人間にはただのいい香りとしか感じないものも、野生動物にとっては激臭に感じるんだ。それは君の言っていた狼も例外ではない。現に私はすでに何日もこの森で生活しているが、一度も野生動物と遭遇したことはない。だから君が心配している事柄はすでに解決済みということだ」

「でも、拠点ではこんなの使っていませんでしたよね?」

「これの代わりに煙管を吸っていただろう? あれもルグリの道具なんだ。あの煙管で吸うと葉に染み込ませた香油の効能が煙に乗って辺りを漂う。そうすると同じ効果を引き出すことができるんだ」

 モデール狼は他の種よりも嗅覚が鋭い。外で焚いているというのに人でもはっきりと感じとれるほどの香りなら、狼たちにはとてつもない刺激臭になるはずだ。香油が動物避けになるというのは初耳だったが、ある程度の説得力を感じる。

「君はこの森の専門家かもしれないが、私はルグリの専門家であると同時に旅の専門家だ。似たような状況もたくさん経験してきた。危険に対する対処法もそれなりに心得ている」

 指名手配をされていてそれでも一度も捕まらず旅を続けてきたアーリィなのだ。その知識は一般的な旅人のそれとは比べものにならないはずだ。更にルグリという特別な一族の末裔で、魔法のような道具と力を使う。一般的な対処法しか知らないミーシャよりも博識であるというのは間違いではないだろう。
 信用してくれ、というように、アーリィは片目を瞑ってウインクをした。

「わかりました。でも、これからは事前にあたしにもちゃんと説明してください。じゃないと、なにかあったときに対応できませんから」

「いいだろう。次からはそうしよう」

 それからは遅い昼食をすませて、夕刻を待ちながら天幕のなかで毛布に包まって暖をとった。少し横になると言って仮眠をとり始めたアーリィの隣で、膝を抱えて時間が過ぎるのをじれったく思いながら待つ。

(ちょっと怖いけど、わくわくする)

 胸の内で昂る気持ちを抑えきれない。虹とはどういうものなのだろう。想像する虹は空を七色の橋が彩る自然現象だ。アシュマンの関わる虹というのも同じものなのだろうか。
 体をよじり、隣で規則正しく寝息を立てているアーリィの横顔を見つめる。
 父をとり戻すことができる唯一の人。希望の糸を垂らしている人。
 彼女と出会ってミーシャの価値観はいい意味で破壊されていった。

 新たに見せてくれた世界は、実物を見ていなければ一笑に付してしまうような奇怪な世界だった。お伽噺のような世界が実際にあると言われて信じるのは子供か、精神異常者だけだ。だから、きっと監督署に自分をとりまく今の状況を話したら泣かれる未来が容易に想像できる。
 皆の目には犯罪者に篭絡された可哀そうな子として映るのだろう。いくら懇切丁寧に説明したところで、誰も耳を傾けてはくれまい。
 それはとても寂しいことだなと思う。

 そんなことを考えているうちにふと、アーリィも同じなのだろうか思った。
 始めミーシャはアーリィのことを綺麗な人だけど、不気味でもあると感じた。整いすぎている容姿は人の目を引きつけるというよりも、人という範疇から外れた別の生き物という不自然さが強かった。加えて、指名手配される犯罪者という危険分子という印象が先行していたことも相まって畏怖の念を抱いていた。

 しかし、この数日共に過ごしてみて当初の考えは完全に間違いであると思うようになった。
 敵であるミーシャの命を救い、腹を空かせてへそを曲げる。人を思いやる心を持ちながら、からかって楽しむ悪戯心は人間味に溢れている。
 なにも変わらない。アーリィ・リアトリスという女性は普通すぎるほど人間だった。だからこそ、一人で旅を続けるアーリィはミーシャが感じた寂しさを常に感じ続けていたのではないだろうか。

 旅を有意義にする方法をアーリィは誰かと食事を共にすることだと言った。それは他者との関わりを持つことが難しいからこそ出てきた言葉なのでは。
 そうだとしたら、その寂寥はミーシャが感じてきたものを遥かに上回るはずだ。ミーシャには母親も監督署の仲間がいた。だが、アーリィはどうだったのだろう。帰る場所はあるのだろうか。温かく迎えて抱きしめてくれる家族はいるのだろうか。
 
「なんでこんなこと考えてるんだろ」

 他人のことを考えている余裕などないはずだ。今は目の前ことに集中しなければいけなけないはず。それなのに隣で眠るアーリィの顔を見ていると、どうしても思考が逸れてしまう。
 仲間意識のようなものが芽生えている自覚があった。そして、その意識が未来のことを想像させる。
 あたしは全てが終わったとき、アーリィ・リアトリスをどうするのだろうか。
 
「ううっ……」

 どす黒い感情に吐き気がこみあげてくる。口を押えながらせりあがってくるものを必死に飲み下すと、目尻に溜まった涙を拭った。
 天幕の外から聞こえてくる細雨の音が嫌に耳につく。どうしてこんなことを考え始めてしまったのかはミーシャにももうわからなかった。
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