ルグリと魔人

雨山木一

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第五章

二十六話

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「見送りはここでいい」

「お力になれずに申し訳ありませんでした」
 
 工房から泉へ帰ってくるとすでに空は夜の時間が始まろうとしており、わずかに太陽の残り香のような赤が名残惜しそうに漂っているが、もうじき完全に飲み込まれて消えてしまうだろう。
 深く頭をさげて謝罪を口にしたキャスウェルは、ミーシャにも同じように頭をさげた。だが、ミーシャは無言のまま天幕に戻っていった。

「ミーシャちゃんには申し訳ないことをしました」

「これはあの子が乗り越えるべき壁だ。お前が気に病むことではない」

「そうもいきません。あの時のグリフィスを見たでしょう。彼は、記憶を失っているとはいえ、ミーシャちゃんを拒絶してしまいました。あれは……あまりにも残酷です。十年間も父親を探して、ようやく再会することができたと思ったら、こんな結末です。年齢の割に大人びているように見えますが、それは本来の姿ではない。本当は傷つきやすい年相応の女の子だと思います。特に精神面に関しては依存傾向が強いように僕には感じました。幼いころに父が行方不明になったことが人格形成に大きく影響を及ぼしてしまったのでしょう。今の彼女はだいぶ危ういところを歩いているかもしれません」

 天幕を見つめるキャスウェルの瞳には憐憫れんびんが濃く浮かんでいる。

「ミーシャちゃんをよろしくお願いします」

「私になにを期待しているんだ?」

「ミーシャちゃんのお仲間では癒せない傷もあるでしょう」

「数日寝食を共にしただけの私にできることなんかないよ」

「その数日がミーシャちゃんにとっては、とても重く、成長の糧になったと僕は思います。すぐに納得することも、受け入れることもできはしないでしょう。しかし、いつかある日ふと思いが至る瞬間が訪れるはずです。そして、その瞬間に思い出すのはお仲間ではなく、貴方になるはずです。アーリィ・リアトリスという人間の残滓ざんざんしが彼女のこれからの人生を形作るきっかけになると僕は信じています」

「……人間じゃない。私はルグリだ。半端者さ」

「いいえ。アーリィ・リアトリス殿は紛れもなく人間ですよ。それに半端者でない生き物などこの世にいるでしょうか」

「お前はずいぶん私を買いかぶっているようだ」

「ええ。なにせ貴方はあのアーリィ・リアトリス殿ですから。僕など足元にも及びません」

 ずいぶんな自信だ、とアーリィは半ば呆れを含んだ空笑いを浮かべた。

「私も、もう休む」

 片手をあげ、キャスウェルに背を向けた。キャスウェルがなにか言いたそうに声を発したが、アーリィは振り返らなかった。

 ◇◇◇

 その夜は夢を見なかった。いや、夢は見そうになった。だが、咄嗟に叫んで眼前に浮かび始めた風景を消し去った。
 まるで霧が風にかき消されるように、その風景は渦を巻いて流れていった。
 馬鹿みたいだ。
 流れてしまった先を見つめ、追いすがるように手を伸ばすなんて。
 自分で拒絶し、かき消しておいて去ってしまう霧の粒に心をかき乱される。
 選んでくれなかったことへの悲憤ひふんに身が焼かれる。
 これなら夢を見ていた方がよったかもしれない。
 夢ならきっと、この矛盾した怒りをぶつけられただろうから。

 ◇◇◇

 目を覚ましたとき、まだ天幕内は暗かった。
 寝付いてからそれほど時間は経っていないのだろうが、その割に頭は冴えていた。
 背中合わせで眠っているアーリィの気配を探る。とても小さい寝息が規則正しく聞こえてきた。

『家族ができたことも、娘がいた過去もない』

 思い出しただけで胸を引き裂かれたような痛みが走る。
 
「あたしは家族だよ……」

 虚しい。ただただ虚しい。
 結局なにも変わらなかった。ただ自分の願いが虚構に落ちていくのを見つめていただけ。一瞬でも向き合おうと思ってしまったがゆえに、目を逸らす暇さえなかった。

「……もう眠れないや」

 アーリィを起こさないように天幕から抜けだした。これ以上横になっていると、感情に押しつぶされてしまいそうだった。
 通り過ぎる夜風が薄着のミーシャの体温を少しずつ削り取っていく。毛布を持ってこればよかったと後悔した。

 夜空を見あげると月は隠れていたが、雲の合間から星が見えた。この森で星空を見るのは、アーリィに怪我の手当をしてもらった日以来だ。雲がかかっているのであの日のように満天の星空とはいかないが、眩しすぎる星々を眺めるより雲の合間から覗く数粒の星明りが今は心地よい。
 輝きは見つめすぎると、目と心を病む。良薬も摂り過ぎれば毒になるように何事にも適量というものがある。今のミーシャの器には満天の輝きを受け入れるだけの余裕は残っていなかった。
 目的もなく、森を彷徨う。あまり離れると帰り道がわからなくなりそうだ。しかし、ミーシャの足は止まることはなかった。今はなにも考えずに暗闇に身を置いていたかった。

「こんばんは」

 その声は前方のシラカバの木から聞こえてきた。一瞬身構える。風音を聞き間違えたかとも考えたが、あれは確かに人の声のように聞こえた。だが、こんな時間に森をうろついている人間などいるのだろうか。
 目を凝らしてシラカバの木の周辺を含め、気配を探る。雲に隠れていた月が顔を出し、暗闇に包まれていた森に月明かりが差し込み、声の主を映しだした。

「こんな時間に散歩は危険だよ。この森には獣が住んでいるんだから」

 翠を宿した大きな猫目が月明かりを浴びて淡く光る。

「キャス……ウェルさん」

 白いローブをまとったキャスウェルがシラカバの根元で座りながらこちらを見ていた。ミーシャの驚いた顔を見て綺麗な猫目が弧を描く。

「アーリィ・リアトリス殿の煙管の効果もあまり離れては効果が薄くなる。効果範囲を出てしまえば、獣の目に触れるかもしれないから気をつけてね」

 柔らかい笑みを浮かべているのはミーシャの緊張の色を感じとったからか。
 目線をわずかに外しているのも、配慮のうちの一つなのだろう。

「……なにをしているんですか?」

「君と同じさ。散歩だよ。この時間になると相棒がうるさくてね」

「相棒?」

 その言葉に一瞬グリフィスと共にいるのではと期待が膨らんだ。。しかし、その期待はすぐに裏切られた。
 キャスウェルの猫目がシラカバの影に向けられる。なんだろうと、一歩踏み出すとシラカバの影から大きな狼が現れた。

「ちょっ……」

「大丈夫。ミーシャちゃんは僕のお友達だって言ってあるから、襲ったりしないよ」

 闇に溶ける漆黒の毛皮。毛皮とは対照的な白い瞳。先の欠けた耳がひくひくと動いている。月光の元に全身が露になると、その体の大きさに表情筋が引きつった。
 現れた狼の頭の位置はミーシャの顔の位置とほとんど変わらない。
 おそらく種類はモデール狼だろうが、これまで見たどの個体よりも大きかった。
 狼は立ちあがり、一歩一歩土の感触を確かめるようにミーシャにゆっくりと近づいてくる。ミーシャの手のひらほどの足が土に跡をつけるたび、足から振動が伝わってくるような気すらした。
 狼はミーシャの目の前にまでくると、丁度腹部の辺りに鼻を当てて匂いを嗅ぎだした。
 
「ごめんね。その子はもう歳で目が見えないんだ。最近では鼻の方も衰え始めてしまったようでね。少しだけ我慢してほしい」

 キャスウェルの言葉を受け恐る恐る狼の目を観察すると、毛皮と対照的な瞳はどうやら元々は薄い青色だったようだ。だが、今はその青のほとんどが白く濁っている。鼻を押しつけるようにしているのも、距離感が掴みきれないのが原因のようだ。
 しばらく匂いを嗅いでいた狼は最後に大きく溜息をつくような仕草をしてからミーシャから離れ、キャスウェルの足元で伏せて目を閉じた。

「どうやら合格したみたいだね」

「面接でもされていたんですかね」

「この子は自分の気に入ったものしか、僕の側にいさせないんだ。獣でも人間でもアシュマンでも。ミーシャちゃんは数少ない合格者だ」

「その狼はアシュマンが見えるんですか?」

「見えてはいない。けど野生の勘というやつなのか、なにかを感じとることはできるみたいだ」

「そうですか」

「そんなところに立っていないで、こっちで話しをしない?」

 キャスウェルが自分の隣を手のひらで軽く叩いた。
 少し迷って誘いに乗ることにした。だが、真横に座るのは抵抗があったのでシラカバを挟んで背中合わせのようにしてだ。

「ミーシャちゃん。君の願いを叶えてあげられなくて本当に申し訳なかった。謝ってすむことではないと理解している。でも、それでも僕は君に謝らなければならない。すまなかった」

「……」

「許してもらえなくても……って、これはずるいね。僕が一方的に謝罪をして、この件を、悲劇を、終わりにして逃げようとしているだけだ。僕の悪い癖」

「……」

「僕はグリフィスさんを助けたつもりだったんだ。怪我を負っている彼を治療し、記憶が消えてしまった彼に居場所を用意した。十年という年月を共に過ごし、いつしか家族のように振舞うようになっていた。心地がよかったんだと思う。僕の生前……アシュマンになる前の僕には家族と呼べる存在はいなかったから、だから余計に嬉しかったんだ」

「…………」

「もし、怪我が治った段階で人の世界に帰してやれば違った結末を迎えることになっていたかもしれない。でも、例え血が繋がっていなくとも、共に暮らし、苦楽を共有するという環境を僕は手放したくなかった。それに記憶をなくしたグリフィスをこのまま人間の世界に送り返しても、碌な未来はないと思った。だから、ここで暮らしていた方がグリフィスのためになると自分に言い訳をした」

「……さぞ悩んだことでしょうね」

 放たれた言葉に含まれた嫌味を感じとったのか、キャスウェルは身じろぎをした。

「僕がモデールの管理者になったのは、グリフィスと出会うほんの少し前だ。僕はほかのアシュマンたちとずっとモデールに住んでいてね。たまにドランの元に赴いて話を聞いてもらったりしてたんだ。人生相談みたいなものだよ」

「どうして管理者になろうと思ったんですか。この森に未練でもあったんですか」

「僕も昔はこの森で暮らしていたからね。使命感があったんだと思う」

「使命感?」

「託されたんだ」

 浪々と話していたキャスウェルの声にわずかな照れのような色が混じった。

「いや、託されたと言っても僕が勝手にそう思っているだけなんだけどね。さっき話を聞いてもらっていたといっただろう? そのときに言葉の節々に感じるものがあったんだ。なんていうか、こう……自分の代わりを探しているというか。うん……。自分がいなくなっても想いを託せる誰かが欲しいと願っているような」

「死期を悟っていた……?」

「……そうかもしれない。いや、僕はまだ……うん。彼は死んでいるんじゃないかな。きっとそうだね。ドランは自分の死が近いと感じていたんだと思う。そして僕も。だからドランは、僕と話す間ずっと……」

 言葉が途切れた。短くて浅い息遣いだけが聞こえる。それでも言葉を紡ごうと口を開くも、その度に喉を絞められているかのような苦しそうな吐息が零れ聞こえてくるだけだ。
 何度かそんなことを繰り返して、結局深いため息を零した後、続きを話すことは諦めたようだった。

「僕が管理者になったのは、工房で話した通り。僕はモデールとアシュマンたちを存続させなければならないと思った。代々管理者が治める場所というのは、他所とは少し違って特別なんだ。二つの世界の繋がりが濃い、と表現するのが一番あたりさわりがないかな。その場所を失くしてしまうのは惜しいと思ったんだ」

「惜しい?」

「アシュマンにとって人間というのは希望の塊なんだ。ミーシャちゃんから見れば、アシュマンは人間の遥かうえをいく存在と映っているのかもしれないけど、アシュマンからすれば人間は全てを手にしている完璧に近い存在だ。それはアシュマンがどれだけ願い、研究し、手を伸ばそうともたどり着くことができない境地。アシュマンからすれば人間は神のような存在なんだ」

 ミーシャが始めてアシュマンを見て感じたことを、アシュマン側も感じている。それはミーシャにとって驚きと、疑問を覚えるものだった。
 人間よりはるかに優れた技術を持ちながら人間を羨むような感情などミーシャには理解ができない。

「僕は、そんな存在と濃い繋がりを持つこの場所を失くしたくはなかったんだ。だから、管理者になった。周りのアシュマンたちも、最終的に僕が管理者になることに反対はしなかった。彼らもこのままではいずれ繋がりが消えてしまうことを理解していたんだろう。定期的にをしなければ、いずれこの特別な場所も色をなくし、枯れた大地に成りさがってしまう。だから決まってしまえば協力的だった。ずいぶん助けられたよ。こうして十年も管理者としてやっていけたのも、皆の助けがあってこそだ」
 
 始めてアシュマンを見たときのことを思い出す。確かに彼らは助け合うことに疑問を持ったりはしなさそうだった。

「僕は幸せ者だよ。生きる意味を示し託してくれた師がいて、助けてくれる仲間がいる。こんなに幸せに満ちた人生は始めてだ。だから、より申し訳ないと思う。こんなに恵まれてなお、僕は誰も幸せにすることができない。僕は愚か者だ。ミーシャちゃんを助けるどころか苦しめる結果を生み出してしまった。だけど、僕は管理者だ。果たさなければならない責任がある」

「責任って……なんですか? もうどうにもならないでしょう」

 誰も幸せにできないと言いながら、責任を果たさなければならないという。
 矛盾している。キャスウェルがなにを言いたいのかがわからない。

「もし、グリフィスをとり戻す手段があったとして、それが人の道を外れたものであったとしても……ミーシャちゃんは、それを望むかい?」
 
 声色が変わった。人の気配を感じて顔をあげると、いつの間にかキャスウェルが目の前にしゃがみ込んでいた。真っすぐと見つめる翠の瞳は、そこにあるだけで全てを吸い寄せて離さない力強さを秘めている。 
 頬に熱が灯る。

「僕は知っている。それは自然の摂理に反した外道の禁技だ。ドランの残したアシュマンの技術書に記されたそれなら恐らくグリフィスをミーシャちゃんの元に帰すことができる」

 嘘を言っている瞳ではなかった。何故ならその瞳には恐れが浮かんでいたからだ。怖いのだろう。その禁技というものを考えたり、口にすることは管理者であるキャスウェルでさえも、畏怖を覚えるものなのかもしれない。
 それでもミーシャの願いを叶えるために、選択肢を示してくれている。
 一滴の汗がキャスウェルの頬を流れる。

「……それで、父が、本当に帰ってくるんですか」

 キャスウェルは視線を外すことなく頷いた。
 ふざけた世界だ。真面目に努力することが馬鹿らしくなるほどに。
 神が示した道が人の歩む道であるならば、あたしの足元にはどんな道が敷かれているのだろう。
 きっとろくでもない道が死ぬまで続いている。
 だったら。

「人の道を歩くだけでは父は救えない。このままならきっと、もう……。人の道をはずれたとしても、それでももう一度家族と皆で暮らせるのなら、あたしは」

 決断を下すまでに、そう時間はかからなかった。外道だろうがなんだろうが関係ない。
 神があたしたち家族を貶めようとするのならば、あたしは外道に落ちよう。
 仮に落ちた先に地獄が待っていようとも、今も地獄にいるのだからなにもかわらない。

「一体どんな方法なんですか」

「それは──」

 狼が月光に照らされる二人の姿を白く濁った瞳で捕らえた。ほとんど光を捕らえないその瞳には影が二つぼんやりと映るのみ。
 狼はどちらが友人なのかわからなかった。漂う匂いを探ろうと頭を持ちあげ、鼻を鳴らす。
 これは嫌な臭いだ。
 狼はそう直感した。
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