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第八章
四十三話
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「その人の名前はグリフィス・シェルズ。モデール監督署の署長兼班長を務める人でした。冷静沈着でいて寛仁大度。モデールに関する知識で右に出る者なし。人のうえに立つ能力に長けた人で、班員からの信頼も厚くて、人生相談とかも受けてましたね。俺の教育係だった人にもう一人ラウル・イルデルって人がいるんですけど、二人はよく気にかけてくれてたくさんのことを教えてもらいました。特にグリフィスさんはまともに仕事もせず、フラフラしている俺を心配して監督署に迎え入れてくれたんですよ。本当の兄貴みたいに接してくれて嬉しかったんです。だから、すぐに自分を変えたいって思って、やったことない勉強もして、一端の保護官になれるように努力しました。今の俺があるのはグリフィスさんのおかげなんです」
「軽薄そうな見た目は相変わらずそうだが」
「ファッションと仕事の区別はつけてます。公私混同はするなとしっかり教わっているんで」
ファッションはともかく、今この瞬間に公私混同をしていることについては黙っておいてやろう。
「グリフィスさんには家族がいて、綺麗な奥さんと五つになったばかりの娘が一人。笑顔の絶えない素敵な家族でした。でも、その家族には一つの問題があったんです。娘のミーシャは生まれつき体が弱くて、ひと月の半分以上をベッドですごす生活を送っていたんです。アーレイの医者にも罹ったらしいんですけど、結局原因はわからずじまいで。でも、グリフィスさんも奥さんも諦めることなく愛情を注いでいました。そうして順調ではないにしろ、ミーシャはすくすくと成長していったんです」
一度滑り始めてしまえば後はするするとトーラスは話し始めた。
ただ、淡々と語られる一方で、アーリィは声に感情がこもっていないことに気がついた。そして、無意識にではなく強く意識してのことだということも。
その理由はなんだろう。考えて、一つ思い当たることがあった。
この男は恐怖しているのかもしれない。
自分の感情に生命を握られている。感情を凪の状態で維持し続けなければ、この記憶は語ることができないのだろう。
そうしなければ、恐らくトーラスは自身の感情に飲み込まれて死んでしまう。
体は大人でありながら、精神はまだ子供の部分を多く残している。その未熟さ
がトーラスの核となるものに大きく影響を与えているのだ。
もしかしたら軽薄そうな見た目をしているのは、その部分から目を反らし続けた影響なのかもしれない。
向き合わなければならないと本人も理解はしている。ただ、それは他人が思うよりも容易なことではなく、正反対の自分を演出することで心の準備をしているのだ。
それがトーラスなりの自分との向き合いかたなのだとしたら。
アーリィは居住まいを正した。
トーラスの覚悟に誠実であるべきだと感じた。
「俺、尊敬しました。自分の子供がそんなことになっても毅然とした態度で弱みを見せないグリフィスさんを。すっごいカッコよかったんです。でも、それはグリフィスさんの本当の姿じゃなかった。ある日、震えながら泣いているグリフィスさんを見てしまったんです。隣にはラウルさんもいて、同じように泣いてました。直感しましたよ。ミーシャになにかあったんだって。気がついたら、俺は二人を問いただしていました」
今でも当時の情景を鮮明に思い出せるのだろう。
トーラスは深呼吸をして、そっと瞳を閉じ、間をおいてからゆっくりと息を吐き出す。わずかに開かれた口から漏れ出る吐息が震えているのは、思い出したくない記憶だからかもしれない。
「グリフィスさんは言葉を詰まらせながら教えてくれました。ミーシャが吐血して倒れ、ずっと高熱にうなされ続けていてかなり衰弱していると」
両親の絶望は筆舌に尽くしがたいものであっただろう。
親しい人を亡くす経験はアーリィにもある。だが、それはどこまで行っても友人止りの関係にすぎない。
自分の血を分けた子供の死がすぐそこまで迫っているとなれば平静に努められる親などいない。
「ミーシャは……本当の妹みたいな存在なんです。俺はつかまり立ちができるくらいのころからミーシャを知っているんですけど、グリフィスさんの家に呼ばれるといつも俺のことを『トー』って呼んで後を着いて回ってきて、それがすっごく可愛くて。そんな姿を見続けていたら、いつの間にか妹ができたような気になって、この子のためなら命だって投げ出してやれると思うようになったんです」
ミーシャという少女の幼いころを思い出して顔をほころばせるトーラスを見れば、どれほどミーシャのことを愛しているのかは簡単に伺えた。
だが、その表情もすぐに曇り始める。
「だから、その話を聞いたとき目の前が真っ白になっちまいました。どうしてまだ五歳のミーシャがそんな目に会わなきゃならないんだって」
世界を見ればそんな子供はいくらでもいる、なんてことは当事者と無関係だから思うことだ。
「なんとかしてやりたくて、咄嗟にモデールの妖精ならミーシャを助けてくれるかもしれないって言っちまったんです。馬鹿でしょ。そんなお伽噺本当にあるはずないのに」
「普通ならそうだろうな。だが、普通でないことが起こったんだろう?」
「はい。俺の戯言にグリフィスさんはとても真剣な顔をしていて、なにかを決心した様子でした。それから数日後にモデールである事件が起こり、その対応にあたっていた俺たちは、本当に妖精ドランと出会うことになります」
ある事件と濁すあたり、その部分は触れないでくれということだろうか。
「そしてグリフィスさんはラウルさんにミーシャと監督署を託して、俺にはこの金貨をミーシャに渡してくれと言いました。でも、結局ミーシャになんて言っていいのかわからなくて未だに金貨は俺の手元に残ったままです」
トーラスは胸ポケットから麻布をとり出す。布のなかには金色に輝く金貨が収められていた。
「その後グリフィスさんは突然現れた虹のなかに消えて、そのまま行方はわかっていません」
「虹のなかに、ね……」
「わけもわからず監督署に帰還した俺は、その足で奥さんの元を訪ねました。するとミーシャの容態が安定した、お医者様に見せたら奇跡的な回復だって言われたとすごく興奮していました。そこで始めて俺は理解しました。グリフィスさんは自分を代償にミーシャを救ったんだって」
木々の間を風が奔る。アーリィの長い灰色の髪が通り抜ける風に攫われて宙を泳ぐ。
「……それからラウルさんを問い詰めました。グリフィスさんとラウルさんは親友と言ってもいい間柄だったんです。きっとグリフィスさんから聞いているはず。あの虹のことや、グリフィスさんがどこへ行ってしまったのかを知っていると思ったんです、でも、ラウルさんはどんなに頼み込んでも、どんなに泣きながら懇願しても教えてはくれませんでした。ただ唯一、一度だけ零したことがあるんです。ルグリでなければならないって」
「それでお前がルグリって言葉を知っていたのか。だが、そのルグリでなければならないってのは言葉として意味が通らないな」
「ええ。でもそれ以上は教えてくれませんでした。だから、自分で調べたんです。始めに軍に友人がいるっていいましたよね。そいつに頼み込んで、極秘の書類を見せて貰ったり、公ではない情報屋を頼ったりもしました。それで朧げながらルグリという存在のことが見えてきたんです。その過程でアーリィさんのことも知りました」
「ずいぶん荒い道を通ったみたいだな」
「ええ。そのおかげでモデールの妖精がただのお伽噺ではないって確信するようになったんです。ただ、それでもラウルさんの言葉の意味はわからないままでしたが。だから一旦そのことは置いて、モデールの妖精とルグリに関する仮説を立てることにしたんです」
伏せがちだったトーラスの目がはっきりとアーリィを捉える。
答え合わせをしたいのだ。トーラスはルグリと深い繋がりがあるアーリィを前に、仮説の先に見た光の可能性を確かめようとしている。
「恐らくグリフィスさんはドランと呼ばれる妖精となんらかの取引を行ったんだと思います。その結果、ミーシャの命は助かり、グリフィスさんは家族の元を離れることになってしまった。ラウルさんはグリフィスさんからなにかしらの話を聞かされていて、それを一人で抱え込んでいる。どうしてそうする必要があるのかはわかりませんけど、恐らくそうせざるを得ない事情があるんだと思います。二人がひた隠しにしている謎を解くカギになるのはルグリ。つまり貴方だ」
沈み始めた太陽の残光がアーリィの灰色の瞳に星屑に似た煌めきを与える。トーラスはその瞳に吸い込まれそうな感覚を覚えた。
アーリィの美貌に見惚れているわけではない。むしろその逆だ。体の感覚を瞳に吸い込まれてしまいそうな、見るもの全てを飲み込んでしまう濃密な灰色に畏怖を感じていた。
本能が告げる。これ以上は踏み込んではいけない、と。
だからこそ、トーラスは最初の一歩を踏み出す。
「ルグリ。今では忘れ去られた過去の民族。彼らは一つの土地に定住することはなく、大陸中をあてのない旅をして暮らした。その実態はほぼ謎に包まれており、年代記にも記述がほとんど残っていないので、そもそも存在自体が懐疑的だとする研究者もいるとか。一説では彼らは独自の技術を用いて生活をしていたそうです。その技術力は現代でも再現不可能とされていて、なかには魔術と見間違うほどのものを作り上げる力を持っていたとか。しかし、その説を裏付ける証拠は未だ発見されておらず、何故彼らはそれだけの技術も持ちながら流浪の民として生き続けたのか、また僅かながら残る伝承に記された彼らの創造物はどこへ消えてしまったのか、全てが謎のままになっています。でも、そのルグリの血と歴史を継いだ人間が現代に生きている。名はアーリィ・リアトリス。これが俺の知っている全てです」
「よく調べたもんだ。ルグリに関する情報なんてほとんど表には転がっていないのに」
そして、アーリィはその勇気に称賛を与えた。
「俺はグリフィスさんの想いを知らなきゃならなかったし、理解しなきゃならなかった。だからどれだけ時間がかかっても危険な道だとしても迷わずに進めたんです」
「そして、今も危険な道を渡ろうとしている」
トーラスはなにも言わずに静かに頷いた。
「……そうか。で、お前の頼みとは?」
トーラスの表情が引き締まった。仮説を裏付けてくれるかもしれない存在を前に額に浮かんだ緊張の汗を拭うと、強く手を握りしめて一歩踏み出して懇願するかのように言った。
「あいつを、ミーシャを救ってやりたいんです。これまでの十年から。そして家族への呪縛から」
「その人の名前はグリフィス・シェルズ。モデール監督署の署長兼班長を務める人でした。冷静沈着でいて寛仁大度。モデールに関する知識で右に出る者なし。人のうえに立つ能力に長けた人で、班員からの信頼も厚くて、人生相談とかも受けてましたね。俺の教育係だった人にもう一人ラウル・イルデルって人がいるんですけど、二人はよく気にかけてくれてたくさんのことを教えてもらいました。特にグリフィスさんはまともに仕事もせず、フラフラしている俺を心配して監督署に迎え入れてくれたんですよ。本当の兄貴みたいに接してくれて嬉しかったんです。だから、すぐに自分を変えたいって思って、やったことない勉強もして、一端の保護官になれるように努力しました。今の俺があるのはグリフィスさんのおかげなんです」
「軽薄そうな見た目は相変わらずそうだが」
「ファッションと仕事の区別はつけてます。公私混同はするなとしっかり教わっているんで」
ファッションはともかく、今この瞬間に公私混同をしていることについては黙っておいてやろう。
「グリフィスさんには家族がいて、綺麗な奥さんと五つになったばかりの娘が一人。笑顔の絶えない素敵な家族でした。でも、その家族には一つの問題があったんです。娘のミーシャは生まれつき体が弱くて、ひと月の半分以上をベッドですごす生活を送っていたんです。アーレイの医者にも罹ったらしいんですけど、結局原因はわからずじまいで。でも、グリフィスさんも奥さんも諦めることなく愛情を注いでいました。そうして順調ではないにしろ、ミーシャはすくすくと成長していったんです」
一度滑り始めてしまえば後はするするとトーラスは話し始めた。
ただ、淡々と語られる一方で、アーリィは声に感情がこもっていないことに気がついた。そして、無意識にではなく強く意識してのことだということも。
その理由はなんだろう。考えて、一つ思い当たることがあった。
この男は恐怖しているのかもしれない。
自分の感情に生命を握られている。感情を凪の状態で維持し続けなければ、この記憶は語ることができないのだろう。
そうしなければ、恐らくトーラスは自身の感情に飲み込まれて死んでしまう。
体は大人でありながら、精神はまだ子供の部分を多く残している。その未熟さ
がトーラスの核となるものに大きく影響を与えているのだ。
もしかしたら軽薄そうな見た目をしているのは、その部分から目を反らし続けた影響なのかもしれない。
向き合わなければならないと本人も理解はしている。ただ、それは他人が思うよりも容易なことではなく、正反対の自分を演出することで心の準備をしているのだ。
それがトーラスなりの自分との向き合いかたなのだとしたら。
アーリィは居住まいを正した。
トーラスの覚悟に誠実であるべきだと感じた。
「俺、尊敬しました。自分の子供がそんなことになっても毅然とした態度で弱みを見せないグリフィスさんを。すっごいカッコよかったんです。でも、それはグリフィスさんの本当の姿じゃなかった。ある日、震えながら泣いているグリフィスさんを見てしまったんです。隣にはラウルさんもいて、同じように泣いてました。直感しましたよ。ミーシャになにかあったんだって。気がついたら、俺は二人を問いただしていました」
今でも当時の情景を鮮明に思い出せるのだろう。
トーラスは深呼吸をして、そっと瞳を閉じ、間をおいてからゆっくりと息を吐き出す。わずかに開かれた口から漏れ出る吐息が震えているのは、思い出したくない記憶だからかもしれない。
「グリフィスさんは言葉を詰まらせながら教えてくれました。ミーシャが吐血して倒れ、ずっと高熱にうなされ続けていてかなり衰弱していると」
両親の絶望は筆舌に尽くしがたいものであっただろう。
親しい人を亡くす経験はアーリィにもある。だが、それはどこまで行っても友人止りの関係にすぎない。
自分の血を分けた子供の死がすぐそこまで迫っているとなれば平静に努められる親などいない。
「ミーシャは……本当の妹みたいな存在なんです。俺はつかまり立ちができるくらいのころからミーシャを知っているんですけど、グリフィスさんの家に呼ばれるといつも俺のことを『トー』って呼んで後を着いて回ってきて、それがすっごく可愛くて。そんな姿を見続けていたら、いつの間にか妹ができたような気になって、この子のためなら命だって投げ出してやれると思うようになったんです」
ミーシャという少女の幼いころを思い出して顔をほころばせるトーラスを見れば、どれほどミーシャのことを愛しているのかは簡単に伺えた。
だが、その表情もすぐに曇り始める。
「だから、その話を聞いたとき目の前が真っ白になっちまいました。どうしてまだ五歳のミーシャがそんな目に会わなきゃならないんだって」
世界を見ればそんな子供はいくらでもいる、なんてことは当事者と無関係だから思うことだ。
「なんとかしてやりたくて、咄嗟にモデールの妖精ならミーシャを助けてくれるかもしれないって言っちまったんです。馬鹿でしょ。そんなお伽噺本当にあるはずないのに」
「普通ならそうだろうな。だが、普通でないことが起こったんだろう?」
「はい。俺の戯言にグリフィスさんはとても真剣な顔をしていて、なにかを決心した様子でした。それから数日後にモデールである事件が起こり、その対応にあたっていた俺たちは、本当に妖精ドランと出会うことになります」
ある事件と濁すあたり、その部分は触れないでくれということだろうか。
「そしてグリフィスさんはラウルさんにミーシャと監督署を託して、俺にはこの金貨をミーシャに渡してくれと言いました。でも、結局ミーシャになんて言っていいのかわからなくて未だに金貨は俺の手元に残ったままです」
トーラスは胸ポケットから麻布をとり出す。布のなかには金色に輝く金貨が収められていた。
「その後グリフィスさんは突然現れた虹のなかに消えて、そのまま行方はわかっていません」
「虹のなかに、ね……」
「わけもわからず監督署に帰還した俺は、その足で奥さんの元を訪ねました。するとミーシャの容態が安定した、お医者様に見せたら奇跡的な回復だって言われたとすごく興奮していました。そこで始めて俺は理解しました。グリフィスさんは自分を代償にミーシャを救ったんだって」
木々の間を風が奔る。アーリィの長い灰色の髪が通り抜ける風に攫われて宙を泳ぐ。
「……それからラウルさんを問い詰めました。グリフィスさんとラウルさんは親友と言ってもいい間柄だったんです。きっとグリフィスさんから聞いているはず。あの虹のことや、グリフィスさんがどこへ行ってしまったのかを知っていると思ったんです、でも、ラウルさんはどんなに頼み込んでも、どんなに泣きながら懇願しても教えてはくれませんでした。ただ唯一、一度だけ零したことがあるんです。ルグリでなければならないって」
「それでお前がルグリって言葉を知っていたのか。だが、そのルグリでなければならないってのは言葉として意味が通らないな」
「ええ。でもそれ以上は教えてくれませんでした。だから、自分で調べたんです。始めに軍に友人がいるっていいましたよね。そいつに頼み込んで、極秘の書類を見せて貰ったり、公ではない情報屋を頼ったりもしました。それで朧げながらルグリという存在のことが見えてきたんです。その過程でアーリィさんのことも知りました」
「ずいぶん荒い道を通ったみたいだな」
「ええ。そのおかげでモデールの妖精がただのお伽噺ではないって確信するようになったんです。ただ、それでもラウルさんの言葉の意味はわからないままでしたが。だから一旦そのことは置いて、モデールの妖精とルグリに関する仮説を立てることにしたんです」
伏せがちだったトーラスの目がはっきりとアーリィを捉える。
答え合わせをしたいのだ。トーラスはルグリと深い繋がりがあるアーリィを前に、仮説の先に見た光の可能性を確かめようとしている。
「恐らくグリフィスさんはドランと呼ばれる妖精となんらかの取引を行ったんだと思います。その結果、ミーシャの命は助かり、グリフィスさんは家族の元を離れることになってしまった。ラウルさんはグリフィスさんからなにかしらの話を聞かされていて、それを一人で抱え込んでいる。どうしてそうする必要があるのかはわかりませんけど、恐らくそうせざるを得ない事情があるんだと思います。二人がひた隠しにしている謎を解くカギになるのはルグリ。つまり貴方だ」
沈み始めた太陽の残光がアーリィの灰色の瞳に星屑に似た煌めきを与える。トーラスはその瞳に吸い込まれそうな感覚を覚えた。
アーリィの美貌に見惚れているわけではない。むしろその逆だ。体の感覚を瞳に吸い込まれてしまいそうな、見るもの全てを飲み込んでしまう濃密な灰色に畏怖を感じていた。
本能が告げる。これ以上は踏み込んではいけない、と。
だからこそ、トーラスは最初の一歩を踏み出す。
「ルグリ。今では忘れ去られた過去の民族。彼らは一つの土地に定住することはなく、大陸中をあてのない旅をして暮らした。その実態はほぼ謎に包まれており、年代記にも記述がほとんど残っていないので、そもそも存在自体が懐疑的だとする研究者もいるとか。一説では彼らは独自の技術を用いて生活をしていたそうです。その技術力は現代でも再現不可能とされていて、なかには魔術と見間違うほどのものを作り上げる力を持っていたとか。しかし、その説を裏付ける証拠は未だ発見されておらず、何故彼らはそれだけの技術も持ちながら流浪の民として生き続けたのか、また僅かながら残る伝承に記された彼らの創造物はどこへ消えてしまったのか、全てが謎のままになっています。でも、そのルグリの血と歴史を継いだ人間が現代に生きている。名はアーリィ・リアトリス。これが俺の知っている全てです」
「よく調べたもんだ。ルグリに関する情報なんてほとんど表には転がっていないのに」
そして、アーリィはその勇気に称賛を与えた。
「俺はグリフィスさんの想いを知らなきゃならなかったし、理解しなきゃならなかった。だからどれだけ時間がかかっても危険な道だとしても迷わずに進めたんです」
「そして、今も危険な道を渡ろうとしている」
トーラスはなにも言わずに静かに頷いた。
「……そうか。で、お前の頼みとは?」
トーラスの表情が引き締まった。仮説を裏付けてくれるかもしれない存在を前に額に浮かんだ緊張の汗を拭うと、強く手を握りしめて一歩踏み出して懇願するかのように言った。
「あいつを、ミーシャを救ってやりたいんです。これまでの十年から。そして家族への呪縛から」
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