ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

四十七話

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 走る。走る。走る。
 息を吐く。吸って、浅く吐く。
 体が燃えるように熱い。

 ◇◇◇

 僕は自然と生死を共にする森の民だった。
 ご先祖様は元々移民で紆余曲折うよきょくせつの末にモデールにやってきたらしい。
 元々住んでいた土地は争いと飢饉と疫病で死んだそうだ。
 生きるためには住み慣れた土地を捨てて、旅をしなければならなかった。畑を耕し、農作物と狩りで生計を立てていた一族は、慣れない武器を手にとり、外界へまだ見ぬ安寧の土地を求めて旅をした。

 旅は過酷で、凄惨で、多くのものを失ったそうだ。
 隣人を失った。友人を失った。恋人を失った。夫を失った。妻を失った。子供を失った。祖父を失った。祖母を失った。人を許す心を失った。人を信じる心を失った。互いを思いやる心を失った。互いを助け合う心を失った。愛を、失った。
 だが、旅は失うものばかりではなかった。

 先祖は武器の扱い方を学んだ。武器の手入れを学んだ。人体のどこを切りつければ、突き刺せば、効率的に人を殺せるのかを学んだ。戦いに必要な体裁き、視線の動かし方、呼吸の仕方を学んだ。
 上手い話しには裏があるということを学んだ。利益はわけ合うものではなく、奪いとるものだと学んだ。人の命は金でいくらでも軽くなることを学んだ。裏切りは上手くやれば大金を得られると学んだ。
 そして、その対価が大きいことも学んだ。

 故郷を出たときは百人ほどの大所帯だった一団が、気がついたときには半分以下にまで減っていた。
 流浪の旅で犯してしまった罪によって追われる身となった一団は、隠れるように辺境の森で息を潜めながら細々と暮らし始めた。
 生活はとても苦しいものだったそうだ。なにせ逃げ込んだ森は人の手など一切入っていなかったのだから。

 溢れる自然は身を隠すのには最適だったが、人が定住するには適していなかった。
 たくさんの問題が先祖たちを悩ませた。そのなかでも食料は一番の問題だった。森には食料となりそうな果実や薬になりそうな草花が至るところに自生していたが、人にとって有害な毒を有しているものも少なくなかった。
 旅の途中で幾らかの知識を得てはいたが、森の植物は見たことのない種類が多く毒があるのかどうかの見極めは困難を極めた。

 重要な肉となる獣も他では見ない狡猾さと強さを持っていて一筋縄ではいかない。
 一頭の熊を狩るのにこちらの被害は五人。死人が出ることはなかったらしいが、それでも二度と狩りができない体になってしまう仲間もいたという。
 更に獲物を横取りしようとする狼の存在も頭の痛い問題だった。
 狼たちはどこからともなく現れ、狩った獲物を奪い去ろうとする。先祖たちも抵抗するが、所詮は人間。森を知りつくし、戦い方を熟知している狼には敵わない。
 消耗だけが募る生活はすぐに限界がきた。
 満足な食事を摂れずに、まず子供が動けなくなった。続いて老人、女たちが倒れ動けなくなった。
 どうすることもできず、悲嘆に暮れる日々が続いたそうだ。

 ある日の狩りで一人の男が仲間とはぐれ、森の深いところに迷い込んだ。
 一日中森を彷徨い歩き疲れた男を追い立てるように迫りくる夜の影が焦りを生み、更に森の懐に潜り込ませてしまった。
 体力も気力も尽き死を覚悟したとき、視界の端に動く影に気づいた。見るとそれは狼で、口にはなにかの動物の肉を咥えているようだった。
 きっと自分たちの狩りを邪魔をしている狼たちに違いない。
 そう確信した男は、気づかれないように狼たちの跡をつけた。
 すっかり日が暮れて狼の姿もほとんど見えなくなったころ、開けた空間に小さな泉がある場所にたどり着いた。

 男は目を見張る。
 もう夜だというのにも関わらず、泉の中心から空に向かって虹が伸びていたからだ。
 更に男を驚愕させる出来事が起こる。虹のなかから人間が現れたのだ。
 白いローブを纏い、無造作に伸ばされたままの髪は地面についてしまうほどの長さだが、女ではない。口元に蓄えた髭から男だと思われる。
 狼たちがその人間の元へ咥えていた肉を運び、足元にそっとおろした。人間はまるで赤子を慈しむかのように肉片を何度も撫で続ける。
 人間は血のついた手で、母親が子供の頬に口づけするようにそっと自身の唇に触れた。

 その瞬間、肉片だったものが形を崩して空に舞っていった。
 虹の輝きに照らされて空に昇る光の粒は、感謝を示すかのように漂い、一陣の風ともに彼方に流れていった。
 男はその様子をただ唖然と見守っていた。そして、唐突に理解したそうだ。あの人間の姿をした存在は神であると。
 目の前で起こった全ての出来事は、森に住まう神が起した奇跡だった。

 そう思い至って何故狼が狩りの邪魔をするのかも理解してしまった。
 食料が欲しくてしていたわけではない。
 弔うためだったのだ。
 森の住人は弱肉強食の掟の元で生きながらも、他の種族の生を尊重して敬意を払っている。
 まるで人間のような理性を持った動物たちだった。
 同時に自分たちが森にとって異物であるのだと痛感した。

 異物は排除されるものだ。過去、自分たちが住んでいた村で起こった争いや、それに伴い発生した飢饉や疫病。
 自分たちは居場所を守る戦いに負けたのだ。その時点でどれだけそこに長く住んでいようが、異物となったのは負けた側。
 だから逃げ出し、新たな土地を求めて旅をした。しかし、訪ねた全ての場所で拒絶された。
 騙され、拒絶され、投獄され、殺された。
 安寧の土地を探す旅は、いつの間にかその日暮らしの金を稼ぐために人を欺き、戦いに身を投じ、命を奪う旅へと変貌していた。
 その末に得たものは、大罪人という消せない烙印。
 そんなものを背負っているうちに異物だと思われることに、違和感を覚えなくなっていた。
 この森にも居場所はない。異物は排除される運命だ。
 身を翻し逃げようとした瞬間、男はいつの間にか狼たちに囲まれていることに気がついた。
 狼たちは牙を剥くこともなく、静かに一定の感覚を保ったまま男を見つめている。
 狼に神の元へ行けと言われている気がした。逆らう気力など残されていない。男は諦めて泉に向かった。

 そこからの話は、村の老中たちによってまちまちである。
 神へ事情を話して自分の命を代償に衰弱した仲間を助けてもらったとか、神から与えられた試練を乗り越えた者だけがこの森に住まうことを許してもらえたとか。仲間を全員殺す代わりに男だけが助けたもらえたとか。
 一体どの結末が正しいのかはわからないままだった。
 誰に聞いても、自分の話が正しいのだと言って他の結末を否定するばかりなのだ。
 きっと本当のことは誰も知らないのだろう。
 だから、僕は森に住むドランという神を信じてはいない。年に一度、神に豊作の祈りを捧げる祭りはあるが、それだって強制的にやらされるから参加しているだけだ。
 本気で神に祈りを捧げたことなんて一度もなかった。

 僕が信じるのは金だけだ。金があるから豊かな生活が送れる。怪我をしても薬を買うことだってできるし、病に侵されても医者に診てもらうことだってできる。
 食事だって昔は危険の伴う狩りが中心だったらしいが、今はそんな危険なことをしなくても少し離れたところに新しく興された村に買いに行けばいい。
 村人が抱えていた悩みは金が全て解決してくれた。金が苦しい生活から脱却させてくれた。
 僕の夢は辺鄙な森の傍にあるうらぶれた村から羽ばたくことだ。そして、行商人に弟子入りして、たくさんの金を稼ぐこと。
 弟子入りするには歳がいくらかすぎているかもしれないが、それでもやる気は誰よりもある。きっと僕のことを認めてくれる人はいるはずだ。

 ◇◇◇

 森の民としての誇りや責任というものが昔から嫌いだった。だって僕は望んでもいないのに、森の民として生まれてしまって、勝手に責任を負わされてしまったんだ。そこに誇りまでついてくるっていうんだからたまったもんじゃない。
 僕はそういうものが大嫌いだ。僕は自由でありたい。空を揺蕩たゆたう雲のように、誰にも縛られることなくどこまでも自由に泳いでいたい。
 僕のような人間にはこの村は窮屈すぎるのだ。いるのかどうかもわからない神様を信じて、毎日変わらない仕事をして、同じ食事をして、決まった時間に眠りにつく。
 変わらない日常こそが美徳だとこの村の人は本気で信じている。疑うということを多分皆知らないのだ。
 そんな日常に嫌気がさして僕は外の世界に憧れを持つようになった。その憧れはいつからか夢へと変わっていったのだ。
 僕の気持ちはもう固まっている。太陽が空をのぼり、沈んでいくのを人間が止められないように、誰にもこの気持ちを止めることはできないだろう。
 
「キャスウェル!」

 丁度休憩を入れようとしたときだった。
 僕の名前を呼ぶ声に振り向くと、遠くで手を振っている人が見えた。顔は見えない。でも、声だけで誰なのかはわかる。
 いや、きっと足音だけでもわかる自身がある。それだけ僕はこの人のことを──。
 体に蓄積された疲労が、一瞬で霧散する。畑仕事で曲がった背筋が自然と伸びる。
 サーシャは満面の笑みで僕の元に向かって走ってきた。まだ距離があるというのに、彼女の優しくて頭がぼうっとするいい香りが僕の元まで漂ってくるような気がした。
 はっとして、僕は自身の恰好を見おろす。土と汗で汚れた服。穴の開いた跡を塞いだ後がいくつもあるようなみすぼらしい服。
 しまったと後悔した。朝起きてから寝ぐせを直すのがめんどうでそのままにしてきてしまった。顔も洗っていない。それに最近は朝でも気温が高くなってきたから大量の汗もかいている。きっと汗臭いはずだ。

「おはよう、キャスウェル」

「おはよう、サーシャ」

 いつもの淡い翠のカートル。白い肌には薄くそばかすが散っていて形のいい唇が柔らかく笑みを作る。マリンブルーの瞳は、彼女のわずかにウェーブした腰までの稲穂色の髪とよく合っている。
 世界の果てにある花の国には世界で一番美しい花が咲いているという。しかし、サーシャの笑顔にはきっとその花の美しさも敵わないだろう。見たことはないが断言してもいい。
 僕の幼馴染であるサーシャは、弾んでいた息を整えてから少しだけ頬を膨らませながら恨めしそうに言った。

「またさぼってるんだろうと思って、先に泉に行っちゃったよ」

 なるほど。僕の性格をよく知っているサーシャは、いつも仕事をさぼるときに使う森の泉へ先に様子を見に行っていたようだ。

「ごめん。昨日ダリルさんに体の血がなくなるほど絞られたからさ。さすがに昨日の今日でさぼるのはまずいと思って」

「あんまり迷惑かけちゃダメだよ。ダリルさんだって自分の仕事あるんだし、あまり負担ばっかりかけてると、前みたいに寝込んじゃうんだから」

「もう歳だからな。頭に血をあがらせすぎるとぽっくり逝っちまうかもしれない」

 僕の軽口にサーシャが小さく噴き出して、それから慌てたように怒り顔をとり繕う。

「もう! そんなこと言っちゃだめでしょう。キャスもれっきとした森の民なんだからしっかりして」

「それ止めてくれよ。好きじゃないんだってば」

「またそんなこと言って。モデールの森を守るのはここに住む人間の義務でしょう。あたしたちがここまで大きく育つことができたのも、森と森を守ってきたご先祖様たちのおかげなんだから。きちんと感謝して、これからはあたしたちが森を守っていかなきゃ」

 サーシャはふんふんとわざとらしく鼻を鳴らしながら体がぶつかるのではと思うほどの距離まで近づき、鼻先に指を突きつけてくる。どこまでも澄んだ瞳が僕の心を見透かすように覗き込む。
 急に距離を詰めてきたせいで、彼女の濃い香りが鼻に直接流れ込んでくる。途端に体が痺れて、頭の芯がなんとも言い表せない不思議な感覚に浸っていく。
 くっ……抱きしめたい!

「ちょっと……近いよ」

 やましい気持ちを抑えつつ、すり足で少しだけ距離をとる

「なによ?」

 挙動不審な僕に、サーシャは不思議そうな顔をして小首を傾げる。
 ああ、その小首を傾げるのやめてくれないかな……可愛すぎるんだけど!

「いやー、あのー……だって……ほら、僕汗だくで臭うかもだし……」

 恥ずかしさで口ごもりながら言うと、サーシャは意地の悪そうな表情を浮かべ、せっかく僕が理性を保つためにとった距離を詰め、顔を寄せて芝居がかった仕草で僕の匂いを嗅いだ。

「うん。確かにちょっとするかな」

「だったら近寄らないでよ!」

「あははは。キャスのばーか」

 彼女は眩しすぎる笑みを浮かべて言う。僕はどんなことを言われても、されても、この笑顔の前ではなにも言い返せない。
 
「じゃあ、あたし行くね。実は黙って仕事抜けてきちゃったんだよね。これから怒られにいかなくちゃ。お昼一緒に食べようね」

 サーシャはそれだけ言うと身を翻して手を振りながらきた道を戻っていく。名残惜しい。もっと話をしたいのに。そんな気持ちを素直に言えない僕は、ただ後ろ姿を黙って見送ることしかできない。

「あー、キャスー!」

 徐々に小さくなる彼女の背中を見つめていると、不意にサーシャが振り向いて口元に手を当てて大声で叫んだ。

「全然臭くないよー! だってキャスの匂いだもん」
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