ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

四十八話

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 僕の住む村はモデールの森の傍にある。昔は森のなかに家を建てて暮らしていたそうだけど、森は神様の住む場所で人の営みで傷つけてはいけないと先々代の村長が少し離れた場所に新しく村を興したそうだ。
 村の生活は基本的に自給自足だ。畑で野菜を栽培し、近くを流れる川で育つ魚を主食している。でも、それだけでは賄えない部分もあるので、摂れた作物を他所に売りに行ったりして、小銭を稼いでいる。

 森の肥沃な土の影響か、今まで一度もうちの村は凶作になったことがない。
 この村は神の加護を受けているから、他所とは違って恵まれているのだと老中は言うが、本当のところはわからない。でも、確かに子供の頃から食うに困ったことはないというのは事実だった。
 僕の仕事はもっぱら畑作業が中心だ。
 代り映えのない作業を朝から晩まで繰り返す。楽しいと思ったことはない。毎日、土まみれ汗まみれになって働くのがどうしようもなく性に合わない。
 村長であるダリルさんは、僕の尻をよく叩いてくる。「村のためにもっとまじめに働けこの役立たず」と、言われることにもすっかり慣れた。

 僕に家族はいない。かつてはいたが、今は僕一人だ。父も母も病に罹って死んだ。
 ある日乾いた咳をするようになって、たくさんの血を吐いて死んだ。
 本当にあっという間に死んでしまった。
 墓の前で茫然と佇む僕を囲む大人の「いくら仲がよかったからって死ぬときも一緒になんてね」という囁きが聞こえてきたときは、怒りを覚えた。
 この村では病で死ぬ人間は稀だ。森の神を信じていれば災いから守ってくれると村の人たちは本気で信じている。だから、両親が病に伏せって僕が助けを求めたとき、村の大人たちは神を信じない愚か者だからだと、強く非難し蔑んだ。
 手を貸してくれる大人はいなかった。日に日に衰弱する両親を前に、僕は手を握ってあげることしかできなかった。
 両親の墓の前でもう僕の手を握ってくれる人はいないのだと漠然と思った。父の大きくてごつごつとした手も、母の細くて柔らかい手の感触も、遠いところへ行ってしまった。
 そんなことにようやく気がついて、僕は泣きたくなるほどの寂しさに襲われた。もう抱きしめてくれる人もいない。もう頭を撫でて褒めてくれる人もいない。もう愛してくれる人はいない。
 僕は一人ぼっちなんだ。そう自覚して、込みあげてきた涙を拭おうとしたとき。
 僕の手をそっと握ってくれる人がいた。

 サーシャは歳が一つうえの幼馴染だ。小さい頃から姉弟のように育ってきた僕らは、いつも一緒だった。
 子供の頃は朝起きて両親の仕事の手伝いをして、その後遊んできていいと言われると、僕らは手を繋いで色々なところへ出かけたものだ。
 子供の足で行けるところなどたかが知れているが、それでも隣にサーシャがいるというだけで、見なれた景色も、何度も聞いた話もとても新鮮に感じた。
 姉弟みたいね、と言われることも嬉しかった。血が繋がっていなくても姉弟になれるのかはわからなかったけど、村の人にそう言われる度にサーシャが照れて笑う顔が好きで、僕もそんなサーシャを見て嬉しい気持ちになった。

 僕の両親が死んで二年後、サーシャの母親が亡くなった。家畜が暴れたのを抑えようとして転倒し、頭を強く打ってしまったのが原因だった。そのとき僕とサーシャは畑で仕事をしていて知らせを聞いてすぐに向かったけど、残念ながら間に合わなかった。
 サーシャの母親を埋葬した夜、僕はどうしてもサーシャが心配になって彼女の家を訪ねた。サーシャはとても疲れた顔で僕を迎えてくれて、小さな暖炉の前で二人で肩を寄せ合った。
 なんて声をかければいいのかわからなかった。僕らは似たような境遇だ。でも、同じじゃない。

 サーシャは母親ととても仲がよくて、父親がいない寂しさを互いの存在で補うように親子で支え合って生きてきた。だから、僕が一人ぼっちになってしまったときよりも喪失感は強かったと思う。でも、サーシャは僕には涙を見せなかった。
 僕たち一人ぼっちになっちゃったねと言うと、サーシャは小さく首を振って「あたしにはまだキャスがいるもん。だから大丈夫」と言った。しかし、瞳に映る深い悲しみを僕は見逃さなかった。
 大丈夫なはずがない。サーシャは限界まで追い込まれている。
 普段の太陽のようなはつらつとした笑みはない。あるのは暗くて広い洞窟のなかを松明一つで彷徨い歩き続けなければならない不安に押しつぶされそうになっている、僕よりたった一つ歳がうえなだけの少女だ。

 僕が守りたい。
 このとき始めて僕はサーシャを守らなければならない存在なんだと認識した。
 これまではどこへ行くにもなにをするにも手を引かれていることが多かった。でも、これからは僕がサーシャの手を引いて、守っていかなきゃならないんだと思った。
 そう自覚した瞬間、胸に暖かいものが灯るのを感じた。それがサーシャを好きだ思う気持ちだと気がついたのはすぐだった。

 その日から僕はサーシャを守るためにはどんなことでもしようと心に決めた。これから先どんな困難が待っていようとも、サーシャを守ってみせる。そして、僕たちの家族を助けようとしなかった村から飛び出して二人きりで遠くて暮らしたいと思うようになった。
 それからたくさん大変なことはあったけど、なんとか二人で乗り越えることができた。あの日立てた誓いは今も僕が生きる原動力となっている。そして、サーシャに対する想いも、小さくぼやけて見えたから、果てしなく続く夜空のような愛に変わっていた。
 僕はサーシャを愛している。心の底からサーシャを愛しているんだ。

 ◇◇◇

「村の外?」

「うん。興味ない?」

 昼食を終えて、畑のそばにある川辺の草むらで仲良く寝転がる。ここは僕らがいつも仕事の合間に休憩するときに使う場所だった。春も半ばでまだ肌寒い日が続くが、今日のように雲一つない晴天の日に太陽の日差しを浴びるには丁度いい。
 顔に当る日光のじんわりとした暖かさが心地よい。このままひと眠りでもしたいところだが、僕にはそうできない理由があった。

「興味ないわけじゃないけど……」

「もしだよ? もし、今の代り映えのない生活を手放して外で暮らせるとしたら、どうする……?」

「それはー……」

 できるだけ気楽な感じで言ったつもりだ。もし、僕が望む答えではなかった場合、平静を保っていられる自信がないからだ。
 サーシャはしばらく可愛らしい声で唸ってから、小さく息を吐いて答えた。

「村の皆と一緒に行けるなら考えてもいいかもしれない……かな」

「村の皆って……」

「だって、あたし皆のこと好きだもん。母さんが死んでからたくさんの人に助けてもらいながらこれまで生きてきたでしょ? もし誰も助けてくれなかったら、今こうしてキャスとお昼を食べて、草むらで寝転がってなんていられなかったかもしれないし」

「そうかな」

「そうだよ。キャスだって皆に助けられてきたでしょ?」

「僕は……」

 本当に助けてくれたのか。本当に僕のことを想って助けてくれたのだろうか。
 もしそうならば、何故彼らは僕の両親とサーシャの母親を──。

「キャスはこの村のこと、嫌い?」

「え……」

「この村ってだいぶ恵まれているじゃない? たまに行商の人とお話することがあるんだけど、他所の村って結構大変らしいんだよね。作物が病気になってちゃんと育たなかったり、天変地異とか、領土を巡る争いに巻き込まれちゃったりとか。子供の数も昔から比べるとだいぶ減って、生まれてきても長く生きられなかったりすることもあるらしいし……。そういうのと比べたらうちの村って恵まれていると思うんだけど」

「恵まれているってのは、まあ事実かもしれない……。でも、毎日同じ仕事って退屈じゃん? 汗まみれ土まみれになってようやくありつけるのは小麦に色々混ぜ物したパンと、後は野菜くずのスープだけ。こんなの労働の対価としちゃいくらなんでもひどすぎないか? 外の、もっと都に近いところだったらこんな生活じゃなくて、毎日じゃなくても白い肉にたっぷりの香辛料を混ぜたスープとか食べられるし、仕事だっていくらでもあるっていうし……。きっともっと刺激的な毎日が送れるんだよ?」

「刺激的って……そんなものなくてもいいじゃん」

「どうして? 僕はこんな田舎の村で年老いていくのは嫌なんだ。せっかくこうして生まれたからには、もっと楽しく暮らしたい」

「キャスは……今楽しくないの?」

 先ほどまで晴天だった空にぽつぽつといくつかの雲が流れてきた。そのうちの一つの大きな雲が太陽の光りを遮る。途端に嫌な冷たさが服の隙間をぬって体の温度をさげていく。

「……サーシャといるときは楽しいけど」

 これは本心だった。つまらない日常に僕が堪え続けることができるのは、ひとえにサーシャという女の子の存在があるからだ。
 憂鬱な朝を迎えても、辛い仕事に体が悲鳴をあげていても、サーシャと他愛のない話をして食事を共にする時間があるからこそ、僕はおかしくならずにすんでいる。

 サーシャのいない生活は僕には考えられない。僕の世界はサーシャがほとんどを占めていて、それで完結している。それでいいじゃないかと言われればその通りだが、僕はサーシャにもっと世界が広いということを知って欲しいのだ。

「あたしもキャスと一緒にいると楽しいよ。こうしてご飯を一緒に食べて、お話する時間がとっても好き。確かに仕事は大変だし辛いこともたくさんあるけど、それでもあたしはそういう生活も悪くないんじゃないかって思うよ」

「それはサーシャが楽しいことをそれしか知らないからだよ。世界にはすっごいたくさんの楽しみ方があるんだ。それこそ一生かかっても経験しきれないくらいに」

「たとえば?」

「え……た、たとえば……都! 都には綺麗な服を着た女の人が毎日甘いパンと花の香りのするお茶を飲んだりするんだって。それに大道芸をする人たちとか、天を埋め尽くす神さまの話を聞かせてくれる人たちとか……とにかくいっぱい楽しいことがあるんだって。それに都は騎士団が守ってくれているから盗賊とか野生動物とかに怯える必要もなくて安心だし。どれもこの村で生活していたら一生経験できないことじゃん。それってもったいなくない?」

「ふふふ。確かに面白そうだね」

「でしょ! だったら──」

「でも、この村だって楽しいことあるよ」

「そんなのないよ」

「あるってば」

「じゃあ、その楽しいことってなんなのさ」

「キャスがたまにつく嘘」

 嘘という言葉の持つ意味と、サーシャの少し舌足らずで耳をくすぐるような声があまりにも合わなすぎで、サーシャの言いたいことがわからなかった。
 サーシャは柔らかい笑みを浮かべながら、僕の視線を綺麗なマリンブルーの瞳で受け止める。

「キャスがたまにつく嘘ってどれも突拍子のないものばっかりじゃん。でも、その嘘がとっても好き。だってあんまりにも馬鹿らしくて、夢があるから」

 純粋で澄んだ湖のような瞳は、一切の穢れを映していない。
 きっとサーシャの瞳は綺麗なものばかりを見てきたのだろう。人の悪意も、自然の驚異もサーシャは受け入れて、それでいて綺麗な面だけを見つめてきた。大切な母親の死も、綺麗な思い出のなかで昇華しているのだ。だから、こんな純真な瞳でいられるのだ。
 僕にはその瞳がとてつもなく眩しい。手を伸ばしても欠片すら掴むことができない光を浴びて煌めく瞳は、僕の汚れた瞳なんかよりも何倍も価値のあるもので。

「キャスは……楽しく暮らしたいって言ったけど、あたしは十分楽しいの」

 だから、同じ村ですごしていてもきっと見える光景が違って見えるのだろう。

「そうなんだ」

「うん。そうだよ」

 その瞳がいつまでも綺麗でいて欲しいと願うのは、わがままなのだろうか。
 サーシャの瞳がいつか暗雲の立ち込めた空のように濁ってしまうのを、絶望に侵されてしまうのを止めたいと思うのは、僕の独りよがりなのだろうか。
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