ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

四十九話

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「こんな遅くに呼び出してすみません」

「いや……この時間しかないから」

「そう言って頂けると私も気が楽になります。私も自由に使える時間は限られているもので」

「僕も夜の方が都合がいいので助かります」

 夜の森に近づくことは固く禁止されている。昼間の森は生きとし生ける全ての命に恵の果実を与え、全てを包み込む母のような慈悲に満ちた顔を持つ。しかし、夜になるとその顔は真逆に変貌し、深淵に潜む本能に忠実な狩人たちの世界となる。
 人は本当の意味で自然のなかでは生きられない。
 村に人間は夜に森に近づくことはしない。月明りの元に本能を解放した獣たちの狩場では、無力な肉塊でしかないと理解しているからだ。
 だからこそ、僕の存在を闇に消し去ることができる。闇に興味を示す人間はいない。闇を人間は本能で忌避する。忌避しない人間はきっとどこか壊れているのだ。
 僕のように。

「決行は明日、ということになりました」

 闇に溶ける黒いローブを纏い、フードを深く被った女の口から僕の未来を決する日が告げられる。
 目を閉じて耳の奥で反響する女の声が聞こえなくなるまでじっと耐える。
 瞼の裏に浮かぶはにかんだ笑みのサーシャに、僕は誓う。
 大丈夫。僕が絶対に君を守る。

「そうですか」

 自分でも驚くほど低い声が出た。

「もう迷いはありませんか?」

「そんなもの始めからありませんよ」

「そうなのですか? 始めて会ったときの貴方は──」

「ありません。この森も、村にも興味なんてないんですよ」

「無粋なことを聞いてしまい申しわけありません。ただ、確認をしたかっただけなんです。これは、とても大きな決断です。貴方にとっても……我々にとっても」

「わかってくれれば構いませんよ。僕も確認したいことがあります。明日の朝、僕はサーシャを連れてこの村を離れます。そして貴方の用意してくれた荷馬車に乗って、都へ行く。対価はちゃんと用意してくれているんですよね」

「はい。都に着いたら、ウェードル・ラ・バルシュテリアドス様の邸宅をお尋ねください。この証書をお見せすれば全て手配してくれます」

 彼女がとり出したのは封蝋のされた羊皮紙だった。
 これが僕の成果の証。手のひらにかいた汗をズボンで拭ってから、差し出された羊皮紙を受けとる。

「それと多くはありませんが旅の路銀に」

 差し出された麻布を受け取る。複数の硬貨が擦れる音がした。

「貴方の生活は我々が保証します。貴方は安心して都での生活をお楽しみください」

 手渡された未来を大切に懐にしまう。
 これでいい。これで僕は全てを手に入れることができる。
 夢に見た未来が、もうこの手のなかにあるのだ。
 僕が服のうえから羊皮紙を撫でていると、彼女はほっと溜息をついた。

「……こうして貴方とお話するのもこれで最後になります」

「そう、なんですか? 都では?」

「恐らく会うことはないでしょう。私には大切な仕事があるのです」

「仕事?」

「私の仕事は世界各地を回って種を植えつけることです」

「種を植えつける……」

「バルシュテリアの未来のため。バルシュテリアの権力を盤石にするため。未来は不確定なものです。どれだけ手を尽くしても、安寧を手に入れることはできません。だから私は人生を賭して未来を手に入れるための種を各地に植えつけているのです」

 フードで顔の隠れた彼女の表情は伺い知ることはできない。

「なんか、とても壮大な話ですね」

 彼女は口元に手を当てて小さく笑う。

「そうかもしれませんね」

「僕からすればとても刺激的な仕事に思えます」

「興味がありますか?」

 彼女の言葉に気持ちが浮足立ったのは事実だった。
 世界を股にかけて、なんてきっととてつもない刺激に満ちた仕事に違いない。
 一つの場所に留まらず、渡り鳥のように各地を転々とする生活で得られる経験はかけがえのない宝物になるはずだ。
 だから、興味があるかと聞かれて、もしかしたらという気持ちを抱いてしまった。
 きっと彼女は僕の気持ちに気がついていたのだろう。

「ダメですよ」

「え?」

 それは諭すというよりも、強い拒絶の声色を孕んでいた。

「貴方はなんのためにこの村を出るのですか。守りたい人がいるからなのでは? 私の仕事は貴方の目的とは対極に位置するものです。もし、私と同じ仕事に足を踏み入れれば貴方は必ず後悔するでしょう」

 彼女は抑揚の少ない声で言う。

「一つアドバイスを。遠い国の言葉で後悔は先に立たずという言葉があります。意味は悔やんでもとり返しがつかない。選択に後悔はつきものですが、それでも納得のいく後悔とそうでない後悔があります。きっと、貴方はまだ世界を知らない。だから様々なことに興味を引かれ、気持ちが定まらないうちに次々と興味の対象が移ってしまう」

「それは、悪いことなのでしょうか」

 内心を見透かされたような気がして、つい声に力が入ってしまう。

「いいえ。知らないことに興味を引かれるというのはとても素晴らしいことです」

 しかし、彼女は僕のわずかな苛立ちすらしっかりと受け止めて認めてくれた。そして、今度は年の離れた弟を諭すような穏やかな声で続ける。

「しかし、人生でなにかを成す人というのは、往々にしてその道に深く精通した人間であることが多い。そして、その道に進むことへの後悔を深く理解しています」

 向き合っていた彼女が深く被っていたフードを突然外した。

「えっ……」

「これが、私の後悔」

 月下に晒された彼女の顔は大きな傷があった。左眉の上辺りから下顎まで一筋の切り傷が。
 左目は潰れてしまっているのか、閉じられたままだった。
 息を呑む僕を彼女は楽しむように笑みを浮かべたまま、もう片方の瞳で観察している。

「過去には戻れません。未来は不明瞭です。今この瞬間は……想定外のことばかり起こる。人生でわかっていることなどほとんどないんです。でも、それでも後悔の仕方はこれまでの経験で知っている」

 彼女はローブを戻すと、わずかに体を僕から逸らして空を見あげた。

「貴方を……いえ、貴方が望む未来には一体なにが必要で、どんな後悔をするのでしょうか」
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