ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

五十三話

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 瞳に映るのは星の海。果ての見えない黒の世界に幾千もの煌々と光る点がある。 
 それだけではなく光の点の周りには紫や赤や青の靄が淡い濃淡を作り出し、無機質な空間を控えめに彩っている。
 どこからか断続的流れてくる鼓膜を揺らす低音を聞きながら、あたしは綺麗な星の海をただただ眺めていた。目的も意味もなく、体を星の海にゆだねて。

 ここはどこなのだろう。あたしはここでなにをしているのだろう。
 漠然と頭の隅で意味を考えてみようとするけれど、思い浮かんだそれらは微睡みに見る夢のように溶けて消えてしまう。
 星の海は暖かい。全身を毛布で包んでいるようで、冬のベッドのなかみたいだ。
 暖かさが体に染み込む。抗いがたい眠気が瞼をゆっくりとさげていく。
 ここは居心地がいい。外の世界なんかよりもずっと。
 
「僕は……ただサーシャを助けたかっただけなんだ。嘘にまみれてでも、僕はどうしても彼女を死なせたくはなかった」

 意識を手放そうとした瞬間、あたしのそばで誰かの声がした。
 少し擦れ気味で音程が不安定なそれは、声変わりが始まったばかりの少年のようだった。
 重い瞼を無理やりこじ開けて視線を彷徨わせる。しかし、辺りには誰もいない。

「ずっと一緒に育ってきて、親も失って、お互い辛い思いをしてきたけど、いつもサーシャがいてくれたから乗り越えられたんだ。僕はこれからもずっとサーシャと一緒にいたい。……僕が絶対に幸せにする。僕がサーシャを絶対に守ってみせる。約束するよ。だから……僕と一緒にきてくれよ」

 次に聞こえてきたのは愛の告白だった。生涯を共にしたいと想いを告げる愛の言葉。
 母さんに読み聞かせて貰った本にも恋人に愛を伝える場面があった。その本の場合はもっと小難しい言葉を使って回りくどい言い回しをしていたが。
 ……母さんって誰のこと?

「待って待って待って! どうして! このままじゃサーシャは!」

「どうして? どうしてサーシャは僕から離れていってしまったんだ」

 悲壮感に満ちた叫びが鼓膜を揺らす。
 ああ、きっと彼は大切な人を繋ぎとめておくことができなかった。愛を継ぐことができなかった。でも、それは仕方がない。お互いの気持ちのあることだから。

「ああ、サーシャ……サーシャ……」

 誰かの名を呼びながら泣く声は初めに聞こえたよりも一段低くなったように感じた。声変わりが終わったのだろうか。

「どうして、君が……死ぬなんてあんまりだ……」

 いや、これは違う。彼の声は失意に飲み込まれてぼやけて聞こえているのだ。
 愛した人を亡くし一人になってしまったことで、彼は暗い谷の底に囚われている。体に染み込むあらゆる負の感情が彼の精神を蝕んで穴だらけにしている。
 愛する人を失うというのは、それほど人間に大きな精神的な負荷を与えてしまう。
 この喪失感を乗り越えることは、きっと声変わりの終わらない彼にはとても難しい。
 あたしには彼の気持ちがよくわかる。だって、大切な人がいなくなる気持ちをあたしはよく知っているから。
 手を差し伸べたいと思う。あたしたちはきっと似た者同士だから。震える彼の声ごと抱きしめて、大丈夫だと伝えてあげたい。あたしも彼にしてもらったように。
 ……彼?

「サーシャはどこにいるんですか! 会わせてください! 一目見るだけでもいいですから……。お願いします……会うことが叶わないのならば、せめて……声だけでも」

 よかった。彼の大切な人は生きていたのか。でも、涙に震え懇願する彼の声は逼迫《ひっぱく》していて、彼の感情が流れ込んでくるようだ。胸が張り裂けそうで、切なくて、苦しくなる。
 サーシャという人は誰かに匿われているのだろうか。二人の間には、目を細めて頂上を見あげてしまうほどの高い城壁がそびえ立っていて、彼はその壁を超えることができないようだ。

「サーシャが遠くへ行ってしまってどれくらいが経ったのだろか。……僕には君だけだったんだ。君がいてくれれば、それでよかった。麗らかな春の香りを感じて……夏の強い日差しを浴びて……秋の風に一年の終わりを数えて、冬の静かな夜に……春への想いを馳せて……」

 なにより心を蝕むのは孤独だ。病や怪我は薬で癒せる。しかし、孤独を癒す薬は存在しない。
 彼は孤独という死病に侵されてしまった。

「大切な人も帰る場所も……なにもかもを失った。嘘つきは、だめなことなのか。皆は僕に嘘をついて欺いてきたじゃないか。僕の家族を、人生を自分たちの都合のいいように操ろうとしていたくせに、なんで僕がしようとするとだめなんだ……!」

 声にはっきりと強い憤りの色が混じり始める。小さく燻っていた火種が徐々に大きくなって、炎となる。

「悔しい……悔しい……悔しい……悔しい……悔しい……悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい──」

 怨嗟の声は、洞窟の奥底の暗闇から得体の知れない怪物にねめつけられたような怖気を感じさせ、足からじりじりと顔に向かって這いあがってくるようだ。
 
「恨むぞ……こんな世界に生まれた僕を……恨むぞ……こんな世界に生まれた僕を……恨むぞ……。こんな世界に生まれた僕を……恨むぞ……こんな世界に生まれた僕を……」

 耳の奥にこびりつくような粘着質な響きは獣の唸りに似ていた。
 もう彼の口から愛する人に想いを告げる言葉は二度と出ないのだろう。彼の人として大切にしなければならない感情は、憎悪の炎と共に燃え尽きてしまった。
 彼の声が徐々に小さく擦り切れていくように聞こえなくなった後は耳の痛くなるような沈黙が続き、その不気味さに不安の火種が燻り始めたころ、静電気のような音が唐突に全身を鋭く貫いた。
 
「この世界はね、誰もが幸せになるようには設計されてはいないんだよ。誰かが幸せならば、誰かが不幸せでなければならない。天秤の役目は皿に乗せられたものの価値を正確に計ることだ。どちらか一方に傾くことは許されない。常に水平。それがこの世界を維持するために必要な要素なんだ」

「……あ、う……」

「そうだね、理不尽だ。幸せは誰もが望む夢だ。誰にでも望む権利がある。しかし、世界という箱はそれでは成立しないんだよ。我々がこうして存在しているこの瞬間にも、世界は常に移ろいでいる。つい数舜前までの世界と、今この瞬間では全く別の姿に変わっている。それはとても繊細で少しのさじ加減の狂いも許されない調整がされた結果なんだ。誰かが生まれれば、誰かが死ななければならず、なにかが作られれば、なにかが壊れなければならない。そうして世界は常に絶妙なバランスを保っている。幸せも同じなのさ。論理的にも感情的にも理解は難しいだろうが、それが世界を構成する一つの原則であり、その原則から逃れられる存在はこの星にはいない」

「……ぎぎ……」

「焦ることはないさ。我々の時間は望めば悠久だ。まずはゆっくりでいいから自身を癒す時間をとりなさい。それが今の君にできる唯一の仕事だよ。この話の続きはそれからだね」

「……さー……」

「大丈夫。君には僕がついている。もう君は嘘をつかなくてもいいんだ。自分に正直にあればよい。君は一人で頑張りすぎたんだ。誰にも頼れず、ただ降りかかる災難に挫けずに必死に耐えてきた。それは強い心を持つ証拠だ。だから、君はこうして新たな生を受けた。君は特別な存在だ。この場所では嘘でなにかを守ろうとする必要もない。本心のあるがままにあればいい。時間をかけて対話をしよう。そして、いつか君の心が晴れて真に望む願いが見つかれば、そのときは──」

 一緒に魔人様に会いに行こう。
 ぐずる子供をなだめるように優しくてしゃがれた声が、言葉を失ってしまった彼にそっとささやいた。
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