ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

五十四話

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 54

「止めるんだ」

 不意に手を引かれる感覚に意識が喚起された。

「人の心を覗くなんて、悪趣味だよ」

 引かれた手から視線をあげると、そこには憂鬱そうな顔をしたキャスウェルがいた。

「キャス……さん」

「まだそう呼んでくれるんだね」

 キャスウェルは瞳を閉じて一呼吸おいてから苦笑を浮かべた。

「あの……」

「なにかな?」

「……手を」

「ああ、ごめん」

 少し強く握られていた手がゆっくりと離れていき、手に残る熱が星の海に溶けるように消えていく。それを惜しんでいると、怪訝な顔のキャスウェルがこちらを覗きこんでいた。

「大丈夫かい?」

「はい……。ちょっと頭がぼうっとして」

 手のぬくもりが恋しくてなどとは口が裂けても言いたくないので、曖昧に誤魔化す。
 キャスウェルはまだ探るような視線を向けていたものの、一応納得してくれたのか、同意した。

「ここは人には毒だからね。仕方がない」

 ミーシャは周囲を見渡す。およそ人に害を及ぼすようなものは見当たらない。
 色とりどりの靄と光の粒が彩る空間はとても綺麗で、加えて体がふわふわとする気持ちよさがあった。
 毒という言葉とのギャップに、いまいち腑に落ちない。
 
「でも、ここはなんだか心地がいいです」

「その心地よさが毒なのさ」

 やはりズレのある回答に首を傾げるが、キャスウェルはそれ以上この違和感については語ろうとしなかった。

「僕の記憶は魔人様に食べられてしまったところで一端途切れているんだけど、君がここにいるということは、どうやら同じ運命を辿ってしまったらしいね」

 食べられたという言葉が瞬時に記憶を呼び覚ました。迫りくる鋭利な牙が並ぶ大きな竜の口。きっとあたしの体はあの竜に噛み砕かれて、肉塊となってしまったのだ。
 父さんと一緒に。

「はい。あの後すぐにあたしも父さんも襲われて……。そうだ、キャスさんがここにいるってことは父さんも同じなはずですよね?」

「さあね。食べられてしまったのならどこかにいるかもしれないが」

「じゃあ、探さないと。きっと混乱しているだろうから」

「そうしたらいい」

「……え? キャスさんも一緒に行きますよね」

 ミーシャの問いにキャスウェルは眉を吊りあげて驚いたような顔をした。

「僕も一緒に着いて行っていいのかい? 僕は君を騙してひどい目にあわせようとしたんだよ」

「それは許しません。でも、今は人手があった方がいいし。それにこの場所のことをキャスさんは知っているんでしょう? だったらなにかあったときに役に立ってくれるでしょう」

 キャスウェルは不意を突かれた猫のように綺麗な翠眼を見開くと、忍び笑いを零した。

「ふふ。成長したようだ」

「キャスさんのおかげですね」

 キャスウェルは微笑を湛えたまま瞬きもなく、見据えてくる。交わる視線に心臓の鼓動が早くなる。
 少し前のミーシャであれば、ここで照れくさくなって視線を逸らしてしまっていた。
 それはありきたりな言葉で表せば、異性として少なからず意識してしまっていたからだ。しかし、今ははっきりと断言できる。あの感情は間違いだったと。

 心の弱いところを刺激され上手く入り込まれた結果、キャスウェルに好意のような感情を抱いた。そして盲目的になり、体のいい駒として扱われてしまった。
 心に余裕がないと人間の視野は途端に狭くなってしまう。手を差し伸べてくれる相手を無条件に信用して、疑うということをしなくなる。
 恋は盲目というほどではないにしろ、それに近いものがあったのは事実だ。

「まさか、まだあたしを利用してなんか企んでいるんですか?」

 全く本当に馬鹿馬鹿しい。馬鹿な子供だと罵られてしまっても、これでは仕方がない。
 のぼせあがってしまっていた。この短期間にルグリだのアシュマンだのと、非現実的な存在ばかりに触れていて勘違いしてしまった。

「いいや、もう僕の願いは泡になって弾けてしまったからね。なにもしないさ」

 お伽噺のようなことが本当にあるのならば、もしかしたらなんてこともあるかもしれない。
 例えば、辛い境遇に悲嘆する姫の前に颯爽と現れ、瞬く間に救ってくれる王子様とか。

「もしほんの少しでも後ろめたさを感じているのなら、機会をあげてもいいですよ?」

 眩いものに溢れた世界が好きだった。恋焦がれていたと言ってもいい。だから、キャスウェルにその眩さを求めてしまったのだと思う。

「一つだけ忠告しよう」

 キャスウェルが瞼を閉じたことで交わった視線が途切れる。心臓の鼓動が徐々に落ち着きをとり戻していく。

「大人にもいくつか種類がある。僕が言うのもおかしいことだが、小賢しい大人にだけはならない方がいい。肝心なところで僕のような失敗をすることになるからね」

「肝に銘じておきます」

 うん。やっぱり性に合わないことはしない方がいい。緊張して心臓が痛いし、変な汗を掻いて気持ちが悪い。

「参考にする大人はちゃんと見極めること。間違っても僕やアーリィ・リアトリスを見習っちゃダメだからね」
 
 和解などするつもりはない。ただどんな物事にも一区切りというのは必要だ。
 その第一歩を踏み出すタイミングはこの瞬間だと思う。だから、ミーシャはわざとらしい笑みを作って大きく頷いた。

 ◇◇◇

 星の海は不思議な場所だった。水のなかを泳いでいるときのように、足をばたつかせると体が前に進む。ただ、その進みはとても遅く、まさに亀の歩みのような速度で星の海を泳いでいく。

「ここは不思議な場所ですね。まるで夜空を泳いでいるみたい。どうして魔人の体のなかにこんな場所が?」

「夜空を泳ぐ、か。君は意外に詩的なことを言う。……ここはね、烙核の海と呼ばれる空間なんだ」

「らくかくのうみ?」

 聞きなれない言葉を繰り返すと、キャスウェルは静かに頷いた。

「そう。君や僕、この星に存在する全てが帰る場所。この空間に広がる輝きは一見星のように見えるが、これらは星じゃないんだ」

「これが?」

 手を伸ばしても届くことのない彼方に眩く光る輝きが星でないのなら、この眩さをなんと表現すればいいのだろう。

「この光はね、人の感情が烙核へと変化したものなんだ」

「これが感情の光り……」

「星に存在する全ての物質には烙という入れ物が備わっている。長い年月をかけて育った感情は依り代が役目を終えるとき、感情を烙へと移行し烙核と呼ばれる物質へ変化して星へ帰る。この場所は烙核を保護するために構成された空間だと言われている」

「言われている?」

「正直に白状してしまえば、この烙核の海と言う場所の存在は僕らアシュマンの間でも眉唾な話だったんだ。だから、こうして自分が烙核の海に至ってもあまり実感がない」

 キャスウェルは一つ息を呑んで、そして続けた。

「しかし……こうして烙核が集まっているのを見ているとなにとも言えない虚しさに襲われるね」

「虚しい、ですか」

「だってそうだろう。この星のように光る粒一つひとつが感情を持った魂で、それぞれに物語があるわけだ。でも、その物語は誰にも知られることはない。誰の目にも触れずにだだっ広い空間にしまい込まれて終わり。僕は烙核が光るのは抵抗に見えるんだ。誰も知らない、知ろうとしてくれない物語を、精一杯光ることで気づいてもらおうとしている。とても健気に見えるよ。だから虚しい。彼らは気づかないんだ。すぐそばに同じように光る存在がいることに。己を表現することが彼らにできる最大限の抵抗で、それで精一杯なんだ。すぐ隣の存在を認識する余裕がない。手を伸ばせば触れられるかもしれない、お互いの物語を共有できるかもしれないのに、彼らにその瞬間が訪れることは永遠にない」

 キャスウェルは疲れたような顔で烙核たちを眺める。その横顔に正直な思いが口を突いて出た。

「さっき……キャスさんに声をかけられる前に少年が出てくる夢のようなものを見たんです」

「……」

「今よりも少し高くて、まだ声変わりが終わらないくらいの年頃で、たぶん……その少年はキャスさんでした」

 キャスウェルは痛みを耐えるように眉間にしわを寄せた。

「あれは、キャスさんが人だったころの……?」

 キャスウェルがひとつ大きなため息を零す。その反応が答えだった。

「あれは僕がまだ人として生きていたときの……振り返りたくない過去だよ」

 吐き捨てるように言うキャスウェルの顔が嫌悪に歪む。

「どうしてキャスさんの過去をあたしが見たんでしょうか」

「僕と君の烙が共鳴現象を起こしたと思われる」

「共鳴現象?」

「烙の共鳴現象は烙核を研究していたあるアシュマンが提唱した説で、性質の似た烙核同士がある条件下で接触した場合、互いの感情と干渉し合うというものだ。これが起こると、共鳴した者同士が抱く一番強い感情の記憶が混同してしまうことがあるらしい」

「でも、烙核は依り代を失った感情が集まってできるものだって言ってたじゃないですか。あたしたちはこうして体があるわけだから、烙核にはなっていないんじゃないですか?」

「だが、今の僕たちは烙核に限りなく近いと考えられる。正規の道順を辿っていないとはいえ、こうして烙核の海へやってきているわけだからね」

「ちょっと待ってください。それじゃあ、あたしたちって死んじゃったってことですか……」

「僕は違うと思っているけどね。もし仮に僕たちが死んでいるのだとしたら、そもそも共鳴現象など起こらないはずだ。この虚しく輝く烙核たちと同じように自分の世界に閉じこもったままのはず。そうなっていないということは、恐らく生きた状態で肉体ごと烙核の海へやってきてしまったのだと仮説を立ててみる」

「仮説って……」

「しょうがないだろ。状況証拠から推測するしかないんだから」

 どこまでも続く烙核の海をミーシャとキャスウェルは相変わらずの速度で進む。
 視界に映る様々な烙核たちはよく見ると帯状であったり、渦を巻いていたりと、大きく違うものがあったり、逆に微細な違いしかないものもある。
 物語がある、とキャスウェルは言った。この光の集合地に幾千もの物語が誰の目にも触れられぬまま彷徨っている。
 そう思うと確かに虚しいのかもしれない。
 
「あれ……」

 しばらく進むと遠くの光りの集合体の一部に、小さい影があることに気がついた。

「グリフィスだ」

 うずった声でキャスウェルが言う。グリフィスとの距離はまだいくらかある。無事を確かめたいと逸る気持ちが抑えきれないミーシャは、届かないとはわかりつつも必死に手を伸ばす。
 ようやくその手にグリフィスを捉えたときには、安堵から目じりに溜まる涙を拭うのも忘れて強く抱きしめていた。

「父さん! 父さん!」

 喉が裂けそうなほどの悲痛な叫びが烙核の海に響き渡る。
 グリフィスの胸に押しつけた頬から伝わる心臓の鼓動が、生きているということを教えてくれる。
 死んではいない。そのことに一先ずの安心を得る。だが、ミーシャがどれだけ呼びかけてもグリフィスの瞼は縫いつけられてしまったかのように動かない。

「キャスさん、父さんが……!」

「待ちなさい」

 キャスウェルがそっとグリフィスの額に手を当てる。次に腕に掘られていたタトゥーを右手の人差し指でそっとひと撫でしてから、かすかに息を吐いた。

「驚いたな。傷は癒えている。それに変換のタトゥーも問題なく稼働している。命の危険はなさそうだが……」

 一番聞きたかった言葉にミーシャはもう一度グリフィスの胸に顔を押し当てて深いため息をついた。

「しかし──」

 しかし、と続けるキャスウェルの声は安堵したミーシャの心を容易くかき乱す。
 キャスウェルは目を泳がせてから重そうな口を開く。

「どうやら烙が抜けてしまっているようだ。体はこうして生きているわけだから、烙核に変化してはいないだろうが、このままではグリフィスが意識をとり戻すことはない」

「どうにかできないんですか!?」

「すまない。この状態では僕にできることは……」

 俯き苦渋の表情でキャスウェルは絞り出すように言った。
 烙がないとは、感情が抜け出してしまっているということ。
 体は生きている。しかし、魂がない。それは実質上の死と変わらない。
 ミーシャはグリフィスの頬にそっと手を添える。

「父さん……」

 ミーシャは眠り続ける父そっと囁《ささや》いた。

「父さん、聞こえてる? 母さんがね……父さんのことがわからなくなっちゃったの」


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