ルグリと魔人

雨山木一

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第九章

五十五話

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 母さんに異変が起こったのはあたしが十四になる月のことだった。
 いつもの時間になっても起きてこない母さんを不審に思い寝室へ向かうと、ベッドの縁に腰をかけた状態で胸に手を当てて、難しそうな焦ったような顔をして考えごとをしている母さんがいた。

 不思議に思って声をかけると、母さんはぼんやりとした顔であたしの顔を見つめてから曖昧に笑って答えを濁し、朝食も食べずに慌てて仕事に向かったのだ。
 めずらしいこともあるものだと、そのときのあたしは特に気にも留めなかった。なにか仕事で嫌なことでもあったのだろうと、その程度にしか考えていなかった。

 その日、母さんは珍しく早くに帰ってきた。どうも調子が優れないようで、無理を聞いてもらったのだそうだ。
 食事をすませ洗い物を片づけると、あたしはそれとなく母さんに今朝のことを尋ねることにした。
 きっと氾濫した川のように大量の愚痴が噴き出してくるぞ。
 あたしは身構えて母さんが話し出すのを待った。しかし、母さんは「なんでもない。ただ目覚めが悪かっただけ」と柔らかく笑うだけだった。

 このとき始めて小さな違和感を覚えた。母さんの笑顔が普段よりもわずかに曇っていたからだ。でも、あたしは違和感を覚えつつもそれ以上追及はしなかった。
 母さんにだってプライベートがある。娘とはいえ、話しにくいことだってあるだろう。
 あたしにできることは母さんの負担を減らしてあげることだ。それから時間ができたら少し奮発していい紅茶を二人で飲もう。
 疲れたからもう寝るという母さんの背中を見送りながら、あたしはそう誓った。
 翌朝も母さんはいつもより遅く起きてきた。顔色が優れない母さんに具合が悪いなら無理をしない方がいいんじゃないかと尋ねてみたものの、相変わらず母さんは「大丈夫」としか答えない。

 そんな様子を見ていて昨日からあったしこりのような違和感がさらに大きくなった。でも、母さんは干渉されたくなさそうだっし、あまりしつこくして機嫌を損ねてもお互い嫌な思いをするだけだ。だから、あたしは様子を見ることにした。
 今になって思えば、嫌がられても話を聞いていればよかったと思う。
 このときの違和感をそのままにしなければ。
 もっと母さんに寄り添ってあげていれば。
 違う未来もあったかもしれない。

 母さんの異変から半年がすぎたころ、いつも通りに起床し居間へ行くと、その日は久しぶりに早く起きた母さんがいた。
 おはようと声をかけると、母さんがこちらを振り向く。
 母さんの顔を見てあたしは絶句した。
 綺麗だった髪は掻きむしったのか、鳥の巣のように絡み合い、顔の血色は悪く死人のような顔をしていた。
 村で一番の美人だと評判だった母さんの姿はそこにはなく、生気も覇気もない人形がそこにいた。

 怖かった。昨日までの母さんと、目の前にいる人物が同一だとは思えない。いや、思いたくはなかった。
 それでもあたしは震える声を誤魔化しながら母さんを呼ぶ。あたしの声に焦点の合っていなかった瞳がわずかに輝きをとり戻し、小さく返事をするように呻いた。
 なるべく刺激しないように母さんの手をとり、優しく包み込んだ。すると、擦れてほとんど吐息のような小さい声で母さんはこう言った。

「ねえ、グリフィスって人のこと……あなた、わかる?」

 ◇◇◇

「お母様の記憶からグリフィスだけが綺麗に消え去っていたと?」

「はい。でも、他のことはちゃんと覚えているんです。あたしのことも、仕事やそれ以外のこともちゃんと覚えているんです。父さんとの記憶だけがすっぽりと抜け落ちてしまったみたいで」

「それでどうしたんだい?」

「その日を境に母は度々同じことを言うようになったんです。あたしも始めはちゃんと説明しましたよ。グリフィスっていう人はあなたの夫で、あたしの父さんなんだよって。家族の思い出もたくさん話して聞かせました。でも……」

「変わらなかったか」

「思い出自体は覚えているんです。どこへ行ったとか、どんな話をしたとか。でも、父さんの言動が母さんやあたしがしたことになっていて、記憶の食い違いがあるんです」

「ふむ、記憶の改ざんか……。しかし、グリフィスの名前は憶えていたんだろう。それについてお母様はなんて言っていた?」

「父さんの名前だとわかって口にしたわけじゃなみたいです。二人しかいないはずの家に、もう一人誰かがいるような痕跡があったり、夢で知らない男の人が母さんの名前を呼んできたり、小さいときのあたしとその男の人が一緒に遊んでいる光景をよく見るみたいで」

「なるほど。思い出せはしないが、記憶の奥底にあるグリフィスとの思い出を夢で見ていると」

「夢のなかで母さんは、その男の人を自然にグリフィスって呼ぶみたいなんです。でも、目が覚めてしばらくすると、どんな顔だったか、どんな声だったのかもわからなくなってしまうらしくて。ただ、胸の奥で寂しさと喪失感がずっと残っているそうです。そんなことが何日も続いているうちに、もしかしたら自分はなにか大切なことを忘れているんじゃないか、手放してはいけないなにかが手から零れ落ちそうになっているではないか、と焦燥感に駆られるようになったそうです」

「今お母様はどうしているんだい?」

「まだ父さんのことは思い出せていません。それに最近は体調を崩すことが多いそうです」

「多いそうとは、なにかしらの手段で連絡をとっているということかな」

「はい。あたしが監督署で働く条件として月に二度、手紙で連絡をとる約束になっているんです。始めは仕事でこんなことがあったとか、新しい料理を覚えたから帰ってきたときに作ってあげるみたいな内容だったんですけど、最近は風邪を引いたとか、気分がすぐれないと書かれていることが多くて」

「季節の変わり目だからね。体調を崩すこともあるだろう」

「それだったらいいですよ。でも、少し前に嫌な変化があって」

「変化?」

「母さんは父さんの記憶がなくなってから、できてしまった空白を埋めるかのように思い出話を聞きたがりました。夢に出てくる男性がどんな人だったのか、あたしが生まれてからどのように家族として生きてきたのかを目を輝かせながら聞いていました。その様子を見て、あたしは嬉しかったし安心してたんです。でも、半年ぐらい前から父さんの話を催促する頻度が少なくなっていって、ひと月前の手紙にはとうとう父さんに関する話は一切書かれなくなってしまったんです」

 変化に気がついたとき、どこからともなく家族の絆に亀裂が入ったような音が聞こえた。

「忘れてしまっていることへの違和感が薄れていると?」

「はい……」

 だからなりふり構っていられなかった。残された時間があるうちに、グリフィスを見つけて連れ帰る必要があった。
 そうすれば母が記憶をとり戻せるのではないかと思ったから。
 目の前の素朴な少女の切実な心境を受け、キャスウェルは噛みしめるように瞼を閉じて、目元を手で覆う。

「僕はその焦りに上手くつけ込んだということか」

「これは一応聞くだけですけど、キャスさん、母さんのことには関わっていないんですよね……?」

「ああ。どの口で言うのかと思われてしまうだろうが、それは信じて欲しい」

 二人の間に重い沈黙が降りる。
 問題は山積みだった。グリフィスの体から抜けてしまった烙を戻す方法も、烙核の海から脱出する方法もわからない。
 そもそも出られるのかすら不明な状況で、ミーシャの前に立ちはだかった壁はあまりにも高く遠すぎる。
 
「……父さんの抜け出してしまった烙はどうなってしまったんでしょうか」

「恐らくこの広い烙核の海のどこかにいるとは思う」

 眼前に広がる烙核たちを前に絶望感が押し寄せてくる。
 無数と表現してもいいほどの光りの粒のなかからグリフィス一人の烙を探し出すのは至難の業だ。
 これならまだ花畑から一枚の花弁を探し出す方が現実的だと思えてしまう。
 不可能だ。残りの人生全てをかけても探す出せるとは到底思えない。

「とりあえずこうしていても埒が明かない。まずはグリフィスの烙を探そう」

「え、そんなことできるんですか?」

「うん。僕に考えがある」

 しかし、ミーシャの非観の念を打ち消すようにキャスウェルは力強く言い切った。

「本当!?」

「ああ。グリフィスの体と烙が分離してしまったことを逆手にとった妙案がある」

「それじゃあ……!」

 光明が見え歓喜に湧きそうになったとき、ふと一つの疑問が頭をよぎった。

「あれ……? どうして父さんだけ烙と体が分離してしまったんでしょう。ここへきた経緯は三人共同じなはずです。でも、あたしもキャスさんもなんともありませんよね」
 
 ミーシャの問いにキャスウェルが苦痛を堪えるように顔を歪める。

「キャスさん?」

「いずれ話さなければならないことだから、包み隠さず言うよ」

 キャスウェルの翠の瞳が波立つ水面のように揺れている。その意味するところに胸がざわついた。

「何故グリフィスだけが肉体と烙が分離してしまったのか。それはミーシャちゃんと僕が人とアシュマンという確立された存在だったということが関わっているんだと思う」

「どういうことです?」

「ミーシャちゃんは疑う余地のないほど人間だ。僕は疑う余地のないほどアシュマンだ。これは僕らの存在を確定させる揺るぎのない根拠だ。しかし、グリフィスは違う。彼は長い間、モデールの変換タトゥーで体に流れるアヌウンのゲシュを無害なものへと置き換えていた」

「ええ。父さんがアヌウンで暮らせるように、でしたよね」

「……これは僕も後から気がついたことなんだが、モデールの変換のタトゥーは短期でしかその効果を発揮しないみたいなんだ。グリフィスのように十年以上も人間がアヌウンに滞在する場合、あの変換のタトゥーでは対応しきれない」

「……」

「全く機能していないというわけではないが、変換のタトゥーが対応しきれなくなったアヌウンのゲシュは体に少しずつ蓄積していき、結果的にグリフィスの体にある変化をもたらしてしまった」

「変化ってなんですか」

「グリフィスの体は年々アシュマンへと近づいている」

「ああ……」

 驚きはしなかった。というよりも、なんとなくそんな気がしていた。

「キャスさんが父さんにアシュマンもどきの人間って言ったときに、嫌な予感はしてたんです」

 思えば、そのことにアーリィも気がついていたのだろう。
 始めて変換のタトゥーの原版を見たときにも、キャスウェルに問題がないのかと念を押していた。あれは目の前にある変換のタトゥーが長期間の使用に対応していないと見抜いていたからだったのだ。

「だって竜に噛みつかれてお腹に穴が開いているのに、死なないなんておかしいと思いましたもん」

 ただ、そんなことは些細なことだった。
 もう一度家族で暮らすことができるのならば、どんな姿であろうとも構わない。
 一番大切なのは三人で一緒にいることだったから。
 だから、キャスウェルの告白に動揺はない。胸のざわつきも落ち着いてきた。

「続けてください。あたしは大丈夫ですから」

「……わかった。グリフィスは人の身でありながら、アシュマンへと変化し始めている。これはグリフィスの存在を人でもアシュマンでもない曖昧なものへと変えてしまった。そして、曖昧な状態に烙も影響を受けた。その結果、どっちつかずの不安定な烙と体は、同一個体でありながら異なるものへと変質してしまったんだ。そこに魔人様にとり込まれてしまったことで烙核の海の保護機能が働き、体から強制的に烙だけを分離させられてしまったのだと考えられる」

「じゃあ、烙核の海は父さんを守ろうとしているってことですか?」

「ある意味では。そして、その保護機能が僕たちにとっては追い風になった」

「どういうことですか?」

「僕が君を見つけられたのは君が僕の烙に接触したのを感知したからだ。誰かが体のなかに手を入れて掻きまわしてくるような痛みに意識が引っ張られて目覚めると、すぐ目の前に君がいた。これはさっき説明した共鳴現象が影響しているのだと推測できる。したがって僕らは今からグリフィスの体で共鳴現象を起こし、彼の烙に接触を試みる。これが僕の考えた作戦だ」

「それが上手くいけば、父さんの体に烙を戻せるんですか?」

「そうだと断言はできない。でも、今の僕らにできることはこれしかない」

 一瞬口ごもりグリフィスに視線を移したキャスウェルは、一つ息を吐いてから改めてミーシャに向き合う。

「作戦なんて意気込んでみたが、これはほとんど賭けだ。存在が確定していた僕らとは違い、グリフィスの烙が今現在どのような状態になっているのかはわからない。烙核に変化する前にここへきてしまった烙がどのような影響を受けるのかは未知数だ。そんな状態の烙に接触すれば、最悪僕らの命が脅かされる可能性だって十分ある。それでも……やるかい?」

 ミーシャはしっかりとキャスウェルの瞳を見据えて即答する。

「ここまでたくさんの危険と隣り合わせでした。今更命の一つ賭けるくらいなんでもありません」

「その命はきっとグリフィスが守りたかったものだ。もしかしたら僕らはグリフィスの意思を無下にしようとしているのかもしれない」

「そうだとしても……あたしは父さんを助けたい」

 ミーシャには確固たる意志があった。それは家族と一緒にいたいということ。
 これまでのミーシャの行動理念は一言で表せばこれに尽きる。
 目的のためには手段を選ばない。母親を置いて一人でグリフィスを探すと決めたとき、ミーシャはそう決心した。そして、大切な人の命すら心の天秤にかけ、あやうく人殺しになるところだった。
 
「他人の命を、大切な人の命を天秤にかけることはもうしません」

 自身の幸せのために他人の幸せを奪うなど、あってはならない。個々の幸せは尊重されるべきで、どのような危険にも晒されるべきではない。
 幸せは己の手で掴みとるべきものだ。そして、その幸せを手に入れるためには自身の努力と強い意思が重要になる。

「自分の幸せは自分の手で掴みます。道がどれだけ険しくて、辛く絶望に満ちたものであったとしても、最初の一歩を踏み出さなければいつまでも手に入れることはできません。あたしの考えは青臭いものなのかもしれない。けど、父さんと母さんがそうであったように、あたしも人生がどれだけ悪路だったとしても自分の足で歩きたいんです」

 人生の近道を知りたかったら、立ち止まってこれまで歩いてきた道を振り返ってみればいい。
 そんなものどこにもないとわかるはず。どんな境遇であっても生きていくには、前を向いて一歩ずつ歩いていくしかないのだ。

「これがあたしの覚悟です」

 真っすぐ、それでいて迷うことが前提の決意。しかし、その決意こそがミーシャの導き出した答えだった。

「そうか。それが今のミーシャちゃんなんだね」

 キャスウェルの顔から力が抜けていく。そして、諦めと安心が混在する矛盾した笑顔でミーシャに告げる。

「いいだろう。ならば僕はその覚悟の行く末を見守らせてもらうよ」

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