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終章
七十話
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70
一人より二人、か。
彼女の言葉に、二人で食卓を囲んだ場面が脳裏をよぎる。今まで食べてきたもののなかで一、二を争う不味さの、食事と呼ぶのも憚られるあの粥の味。
最悪の時間だった。しかし、忘れたいとは思わない。
誰かと腹の探り合いのない穏やかな食事など記憶を探ってもいくつも出てこない。
これまで他人との関わりを持つことを極力避けてきた。それは私の身を守る最善の手段で、誰も不幸にしない最良の手段だったからだ。
だが、その選択で確実に心は乾いていった。夜も更けた時間に煙管を吹かしながら物思いに耽るひとときは、旅の疲れを癒す甘美な魔力を秘めてはいるが、一人で黙々と無感情に食事を口に運ぶ時間は無味乾燥だった。
私は一人の時間を長くすごしすぎたのかもしれない。ついそんなことを考えておもわず笑いが込みあげそうになる。
素直に頷くのが嫌だったから試すようなことをしているが、それはつまり連れて行く理由を私が探しているということに他ならない。
もう心は決まっているのだ。
手にしていた煙管を竹筒の灰吹きに入れて、咳払いをする。
「私と旅をするのならば守らなければならないルールがある」
「はい」
この瞬間、彼女の顔に一番の緊張が走った。
いい顔だ。ここで喜びや笑みを浮かべてしまうようでは、私の旅に同行させるわけにはいかない。
「一つ、人を信用しないこと。二つ、アシュマンを信用しないこと。三つ、私を信用しないこと」
「それは……どういう意味ですか?」
「言葉通りだ。信用とは思考を放棄する愚行だ。物事には常に二つの面が存在している。片方に入れ込めば本質から目を背け、自分に都合のよいことだけを真実だと思うようになってしまう。その先にあるのは分断だ。更に先にあるのは略奪、虐殺、破壊という碌でもないものばかりだ。私はそうやって人が、町が、自然が滅びの道を歩まざるを得ない場面をたくさん見てきた。だから私は信用という言葉を嫌悪している。そして、常に考えることを手放さないように神経を巡らせている。今すぐにできるようになれとは言わない。だが、私に同行したいのならば君もこのことを心に留めろ」
ミーシャは納得したような、していないような曖昧な表情を浮かべていた。しかし、拒絶の色はない。アーリィの言葉の真意を探ろうと思考を巡らせているように見えた。
今はそれで構わない。望むにしろ望まないにしろ、いつか必ずこの言葉の意味について考える瞬間がくる。
そのときに、このルールが役に立つはずだ。
「わかりました」
彼女は髪色と同じ栗色の瞳に決意をにじませて頷いた。
「いいだろう。契約成立だ」
これで私とミーシャの間に一つの軛が生まれた。
「あの……」
「なんだ?」
「さっきはすみませんでした」
さっきとは、探偵の真似事のことを指しているのだろう。怒らせたとでも思っているのか、ミーシャは眉をさげて申しわけなさそうにしている。
やはりまだまだ子供だ。自分で謀るような真似をしておいて悪いことをしたと気を病んでいる。そこが心の優しいミーシャのいいところではあるが、悪意と思惑に満ちた世界を渡るには苦労するだろう。
しばらくは私が保護者代わりになってやるしかなさそうだ。
「あたし嬉しかったです。貴方が優しい人だということも知れて、旅をする理由まで教えてもらえて。あたし真剣に貴方のこと考えてますから! 貴方のためにがんばりますから!」
いやちょっとなに急に。重いよ。
「あ、ありがとう」
私が引きつりながら笑みを浮かべると、納得してくれたのかミーシャは満足気に頷いた。
「さて、それじゃあそろそろ行こうか」
立ちあがり二人で空を見あげる。
これから向かおうとしている進路の南の空には厚い鉛色の雲が立ち込め始めていた。
せっかくの旅立ちに似つかわしくない空模様だ。ただ、私らしい旅立ちではある。
「……さっきのルールの話ですけど」
「なんだ? 異論は聞かないぞ」
「そうじゃありません。でも、最低限名前で呼ぶことは許してくれませんか? これから一緒に長い旅をするんですから」
そう言われて名前を呼び合うことは信用の証なのだということを思い出した。
そんなことすら忘れてしまうほど、親しい人を作ってこなかったのか。
「ああ? なにを今更。名前なんて知っているだろうが」
「そうじゃなくて! あたしたち自己紹介してないじゃないですか。それがなんとなく居心地が悪いというか……。ラウルさんに教わったんです。仕事仲間には必ず自分の名前を名乗るんだって。その人がいつか自分を助けてくれるかもしれないし、逆に助けることになるかもしれない。そんなときに名前を知らないってのは不義理だからって」
「ずいぶん古臭い考えだこって」
「だから、まずは自己紹介しましょう。旅を始めるための通過儀礼ってことで」
改めてそう言われるとなんだか背中の真ん中辺りがむず痒いような、鼻の頭が熱いような気分になる。ただ、不思議と拒絶しようとは思わなかった。
「まあ……君がしたいならそうすればいい」
「はい!」
ミーシャは私に向き合い、前髪を整えてからよく通る声で言う。
「あたしの名前は、ミーシャ・シェルズと言います」
「そうか。よく覚えておこう」
片手をひらひらと揺らし、踵を返そうとする。だが、その手を強く掴まれ阻止される。
溜息を吐きながらミーシャを見ると、ここは譲らないという強い意志の籠った瞳が私を見据えていた。
「ったく」
なんでこんなことをしなきゃならないんだ。
小っ恥ずかしいじゃないか。
「わかったよ。だから、手を離せ」
ここは大人しく従っておいた方が無難そうだ。でないといつまで経っても出発できそうにない。
ざわざわと喉の底からせりあがる羞恥を押し戻すために深呼吸をした。
「私の名は、アーリィ・リアトリス。ミーシャ・シェルズ。君の働きに期待する」
つけていた手袋を外し握手を求める。
ミーシャは驚きつつもわずかに頬を染めて、それから嬉しそうに私の手を力強く握り返してきた。
少女らしい細くてやわらかな手だった。
「これからよろしくお願いします!」
素肌から伝わるミーシャの体温は火傷しそうなほど熱く、切なくなるほど懐かしい。
不思議な気分だった。机の引き出しの中身を整理しているときに、ふと昔使っていた万年筆を見つけて、懐かしんでいるときのような気分と言えばいいだろうか。
いつしまい込んだのかも、どうして使わなくなってしまったのかも思い出せない。しかし、万年筆を購入したときの興奮や、どこへ行くにもいつも肌身離さず身に着けていたことは鮮明に思い出せる。
そして、久しぶりに使ってみようかとキャップを外し意気揚々と紙を前にしたとき、ニブが歪んでいるのを見つけて、そうだったと落胆と哀愁が同時に押し寄せてくる。
使えないのに手放さずに大事にしまっていたのはそういうことだったのかと、当時の若い自分を思い出してむず痒い思いについ顔を覆いたくなる。
今まさに私はそんな気分だった。
「どうかしました?」
「少し思い出に浸っていたんだ」
「思い出ですか?」
「ああ。とても古い思い出だったから感情の処理が追いつかなくて」
「わかります。あたしも家族とのことは全部覚えているつもりですけど、ふとした瞬間に、泡が弾けるように思い出すときってありますよね。そういう思い出って日常に紛れすぎていて、特に気にすることもなく時間と共に他の記憶に埋もれてしまうことがほとんどだけど、だからこそ思い出した瞬間に、すごく心が温かくなったりするんですよね」
「……そうだな」
これ以上話していると、いらないことを口にしてしまいそうで私はミーシャに背を向けた。
「労働条件と報酬の確認だ。妖精の金貨だが、それはグリフィスをとり戻したときに渡してくれればいい。それまでは私の手となり足となって働いてもらう。それで構わないか」
「わかりました。なくさないように大切に保管しておきます」
「そうしてくれ」
「はい!」
流れてくる雲が二人の影を薄くする。
アーリィの選択がどのような結末を辿るのかは、誰にもわからない。
ミーシャの選択がどのような結末を導き出すのかは、誰にもわからない。
だからこそ、選択するのだ。枝分かれする無数の未確定の未来のなかから意味を見出すために。
そして、その先に待つ結末と後悔を心に刻むために。
アーリィとミーシャ。
二人の選択の旅路は始まったばかりだ。
ルグリと魔人 第一部 了
一人より二人、か。
彼女の言葉に、二人で食卓を囲んだ場面が脳裏をよぎる。今まで食べてきたもののなかで一、二を争う不味さの、食事と呼ぶのも憚られるあの粥の味。
最悪の時間だった。しかし、忘れたいとは思わない。
誰かと腹の探り合いのない穏やかな食事など記憶を探ってもいくつも出てこない。
これまで他人との関わりを持つことを極力避けてきた。それは私の身を守る最善の手段で、誰も不幸にしない最良の手段だったからだ。
だが、その選択で確実に心は乾いていった。夜も更けた時間に煙管を吹かしながら物思いに耽るひとときは、旅の疲れを癒す甘美な魔力を秘めてはいるが、一人で黙々と無感情に食事を口に運ぶ時間は無味乾燥だった。
私は一人の時間を長くすごしすぎたのかもしれない。ついそんなことを考えておもわず笑いが込みあげそうになる。
素直に頷くのが嫌だったから試すようなことをしているが、それはつまり連れて行く理由を私が探しているということに他ならない。
もう心は決まっているのだ。
手にしていた煙管を竹筒の灰吹きに入れて、咳払いをする。
「私と旅をするのならば守らなければならないルールがある」
「はい」
この瞬間、彼女の顔に一番の緊張が走った。
いい顔だ。ここで喜びや笑みを浮かべてしまうようでは、私の旅に同行させるわけにはいかない。
「一つ、人を信用しないこと。二つ、アシュマンを信用しないこと。三つ、私を信用しないこと」
「それは……どういう意味ですか?」
「言葉通りだ。信用とは思考を放棄する愚行だ。物事には常に二つの面が存在している。片方に入れ込めば本質から目を背け、自分に都合のよいことだけを真実だと思うようになってしまう。その先にあるのは分断だ。更に先にあるのは略奪、虐殺、破壊という碌でもないものばかりだ。私はそうやって人が、町が、自然が滅びの道を歩まざるを得ない場面をたくさん見てきた。だから私は信用という言葉を嫌悪している。そして、常に考えることを手放さないように神経を巡らせている。今すぐにできるようになれとは言わない。だが、私に同行したいのならば君もこのことを心に留めろ」
ミーシャは納得したような、していないような曖昧な表情を浮かべていた。しかし、拒絶の色はない。アーリィの言葉の真意を探ろうと思考を巡らせているように見えた。
今はそれで構わない。望むにしろ望まないにしろ、いつか必ずこの言葉の意味について考える瞬間がくる。
そのときに、このルールが役に立つはずだ。
「わかりました」
彼女は髪色と同じ栗色の瞳に決意をにじませて頷いた。
「いいだろう。契約成立だ」
これで私とミーシャの間に一つの軛が生まれた。
「あの……」
「なんだ?」
「さっきはすみませんでした」
さっきとは、探偵の真似事のことを指しているのだろう。怒らせたとでも思っているのか、ミーシャは眉をさげて申しわけなさそうにしている。
やはりまだまだ子供だ。自分で謀るような真似をしておいて悪いことをしたと気を病んでいる。そこが心の優しいミーシャのいいところではあるが、悪意と思惑に満ちた世界を渡るには苦労するだろう。
しばらくは私が保護者代わりになってやるしかなさそうだ。
「あたし嬉しかったです。貴方が優しい人だということも知れて、旅をする理由まで教えてもらえて。あたし真剣に貴方のこと考えてますから! 貴方のためにがんばりますから!」
いやちょっとなに急に。重いよ。
「あ、ありがとう」
私が引きつりながら笑みを浮かべると、納得してくれたのかミーシャは満足気に頷いた。
「さて、それじゃあそろそろ行こうか」
立ちあがり二人で空を見あげる。
これから向かおうとしている進路の南の空には厚い鉛色の雲が立ち込め始めていた。
せっかくの旅立ちに似つかわしくない空模様だ。ただ、私らしい旅立ちではある。
「……さっきのルールの話ですけど」
「なんだ? 異論は聞かないぞ」
「そうじゃありません。でも、最低限名前で呼ぶことは許してくれませんか? これから一緒に長い旅をするんですから」
そう言われて名前を呼び合うことは信用の証なのだということを思い出した。
そんなことすら忘れてしまうほど、親しい人を作ってこなかったのか。
「ああ? なにを今更。名前なんて知っているだろうが」
「そうじゃなくて! あたしたち自己紹介してないじゃないですか。それがなんとなく居心地が悪いというか……。ラウルさんに教わったんです。仕事仲間には必ず自分の名前を名乗るんだって。その人がいつか自分を助けてくれるかもしれないし、逆に助けることになるかもしれない。そんなときに名前を知らないってのは不義理だからって」
「ずいぶん古臭い考えだこって」
「だから、まずは自己紹介しましょう。旅を始めるための通過儀礼ってことで」
改めてそう言われるとなんだか背中の真ん中辺りがむず痒いような、鼻の頭が熱いような気分になる。ただ、不思議と拒絶しようとは思わなかった。
「まあ……君がしたいならそうすればいい」
「はい!」
ミーシャは私に向き合い、前髪を整えてからよく通る声で言う。
「あたしの名前は、ミーシャ・シェルズと言います」
「そうか。よく覚えておこう」
片手をひらひらと揺らし、踵を返そうとする。だが、その手を強く掴まれ阻止される。
溜息を吐きながらミーシャを見ると、ここは譲らないという強い意志の籠った瞳が私を見据えていた。
「ったく」
なんでこんなことをしなきゃならないんだ。
小っ恥ずかしいじゃないか。
「わかったよ。だから、手を離せ」
ここは大人しく従っておいた方が無難そうだ。でないといつまで経っても出発できそうにない。
ざわざわと喉の底からせりあがる羞恥を押し戻すために深呼吸をした。
「私の名は、アーリィ・リアトリス。ミーシャ・シェルズ。君の働きに期待する」
つけていた手袋を外し握手を求める。
ミーシャは驚きつつもわずかに頬を染めて、それから嬉しそうに私の手を力強く握り返してきた。
少女らしい細くてやわらかな手だった。
「これからよろしくお願いします!」
素肌から伝わるミーシャの体温は火傷しそうなほど熱く、切なくなるほど懐かしい。
不思議な気分だった。机の引き出しの中身を整理しているときに、ふと昔使っていた万年筆を見つけて、懐かしんでいるときのような気分と言えばいいだろうか。
いつしまい込んだのかも、どうして使わなくなってしまったのかも思い出せない。しかし、万年筆を購入したときの興奮や、どこへ行くにもいつも肌身離さず身に着けていたことは鮮明に思い出せる。
そして、久しぶりに使ってみようかとキャップを外し意気揚々と紙を前にしたとき、ニブが歪んでいるのを見つけて、そうだったと落胆と哀愁が同時に押し寄せてくる。
使えないのに手放さずに大事にしまっていたのはそういうことだったのかと、当時の若い自分を思い出してむず痒い思いについ顔を覆いたくなる。
今まさに私はそんな気分だった。
「どうかしました?」
「少し思い出に浸っていたんだ」
「思い出ですか?」
「ああ。とても古い思い出だったから感情の処理が追いつかなくて」
「わかります。あたしも家族とのことは全部覚えているつもりですけど、ふとした瞬間に、泡が弾けるように思い出すときってありますよね。そういう思い出って日常に紛れすぎていて、特に気にすることもなく時間と共に他の記憶に埋もれてしまうことがほとんどだけど、だからこそ思い出した瞬間に、すごく心が温かくなったりするんですよね」
「……そうだな」
これ以上話していると、いらないことを口にしてしまいそうで私はミーシャに背を向けた。
「労働条件と報酬の確認だ。妖精の金貨だが、それはグリフィスをとり戻したときに渡してくれればいい。それまでは私の手となり足となって働いてもらう。それで構わないか」
「わかりました。なくさないように大切に保管しておきます」
「そうしてくれ」
「はい!」
流れてくる雲が二人の影を薄くする。
アーリィの選択がどのような結末を辿るのかは、誰にもわからない。
ミーシャの選択がどのような結末を導き出すのかは、誰にもわからない。
だからこそ、選択するのだ。枝分かれする無数の未確定の未来のなかから意味を見出すために。
そして、その先に待つ結末と後悔を心に刻むために。
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